何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

コーヒーって身体に悪いの?

夫がコーヒー好きで、毎朝手で豆をひいて飲んでいる。私もおこぼれに預かる時がある。チョコレートが好きなのもあり、フレーバーが近いものは特に、香りや味を単純においしいと思うことが多い。妊娠中、授乳中は、カフェインの関係からあまり飲めなかったので、今、自由に飲めるようになって嬉しいということもある。だがやはり、飲みすぎると夜になって気持ちが悪くなることが多い気がする。今日はその典型で、午後に、眠気覚ましも含めてコーヒーを飲んだところ、300mlとやや多かったからか、夕方過ぎから気持ちは悪くなり、今、非常に疲れているが眠れない。明日はコーヒーやめようかな。でも夫が朝豆をひくと、いい匂いがして、「ちょうだーい!」と、言ってしまうのである。身体に悪いものは、おいしい味と匂いがするものなのかもしれない。

コロナ対策に関して、野田秀樹氏の意見書と、Yoshiki氏のTwitterで感じる差

コロナウィルスの感染予防対策として舞台芸術等の、公演自粛が要請されました。これについて、東京芸術劇場野田秀樹氏が、意見書を出しました。賛否が集まった、この文章。

意見書 公演中止で本当に良いのか

コロナウィルス感染症対策による公演自粛の要請を受け、一演劇人として劇場公演の継続を望む意見表明をいたします。感染症の専門家と協議して考えられる対策を十全に施し、観客の理解を得ることを前提とした上で、予定される公演は実施されるべきと考えます。演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術です。スポーツイベントのように無観客で成り立つわけではありません。ひとたび劇場を閉鎖した場合、再開が困難になるおそれがあり、それは「演劇の死」を意味しかねません。もちろん、感染症が撲滅されるべきであることには何の異議申し立てするつもりはありません。けれども劇場閉鎖の悪しき前例をつくってはなりません。現在、この困難な状況でも懸命に上演を目指している演劇人に対して、「身勝手な芸術家たち」という風評が出回ることを危惧します。公演収入で生計をたてる多くの舞台関係者にも思いをいたしてください。劇場公演の中止は、考えうる限りの手を尽くした上での、最後の最後の苦渋の決断であるべきです。「いかなる困難な時期であっても、劇場は継続されねばなりません。」使い古された言葉ではありますが、ゆえに、劇場の真髄をついた言葉かと思います。

 

www.nodamap.com

そして、Yoshiki氏は

 とツイート。Togetterまとめで、彼らへの賛否の対比があげられていました。

コロナウイルスへの対応で評価を下げた野田秀樹、評価を上げたYOSHIKI - Togetter

そもそも論、劇場の公演は、飛沫がない。クラシック音楽や現代音楽の公演など、静かに、ひっそりと、むしろ息を殺してそこにいるようなもの(私は大好きですが)。最後のブラボー!などを抑えれば、ほぼほぼ、舞台芸術接触飛沫感染を想定することはできないような気がします(換気の問題はあるかも)。気になるようであれば、(たぶん公演によっては全然満席でもないので)2つ3つ席を飛ばしてお座りいただくなど、できそう。一方、ロックのコンサートは、飛沫・接触感染が容易に想像できるので(もみくちゃ?)、対策が結構難しそうに思います。その点、このお二人の意見がかなり違っているのは当然だと思いました。そこを踏まえた上で、、、

この二人の意見の出し方の対比を見たときに、私が感じたのは、どちらがいいか悪いかではなく、その「大いなる違い」でした。

野田さんが背負っているのは、観客に加えて、幾人もの演劇人、劇場で鑑賞者あって初めて成り立つ舞台芸術をつくりあげるアーティストたちであるということ。そして、その活動が消えないように守っている立場でもあるということ。私は芸術文化活動や劇場に、仕事で関わることも多く、演出家やダンサーの友人もいて。彼らにとって、一つの舞台が消えるということの意味が、野田さんの「生計を立てる」という資金的な意味だけではなく、その存続そのものについて、どれだけ大きなことを意味するか、よくわかります。

一方のYOSHIKIさんが背負っているのは、自分自身、共に音楽を作り上げる仲間に加えて、ファン。彼の音楽や活動は、一般の方々にも広く認められており、すぐに消えるものではありません。もちろん一つ一つの公演は大切であり、その積み重ねで培ってきたと思っておりますが、その構造の大きな違いを感じさせられます。

わかりやすいように、誤解を恐れずに書けば、劇場関係者とロックミュージシャン、舞台芸術とロック音楽という分野には圧倒的な違いがある。観客も、認知度も、そのマネタイズの方法も。単純に大切にするもの、大切にできるものが違い、比較するものではないのだと思います。野田さんの言葉には、なくしてはならぬという覚悟、焦りが強く感じられ(もちろん対策の上と書いているけれど)、一方のYoshikiさんには、焦りというより、ファンやメンバーの安全・安心を優先する深い想いを感じました。

どちらが良い悪い、周囲のことをより考えている、とかそういう話ではなく、観客の参加の仕方を踏まえた上で、どちらも最大限、周囲のことを考えて発信している内容なのだと思います。ただ(広く言って)同じ芸術文化関連の公演に関してなのに、こうも書きぶりが異なることから、その差を改めて感じてしまいました。

私も東京芸術劇場で予定されていた4月の公演が夏に延期されたところであり、事態の収束を願うばかりです。

「風が吹けば桶屋が儲かる」は実社会によく起こることだ

コロナウィルスの影響が色々なところにでてきている。コロナ感染予防⇒人々の活動抑制⇒大気汚染への影響、といったこともあるらしい・・・

www.theguardian.com

何か一つのことが起これば、それが全然違うことへ影響する、あるいはとても大きな変化へとつながる、ということはよくある。"Butterfly Effect"という言葉もあり、

力学系の状態にわずかな変化を与えると、そのわずかな変化が無かった場合とは、その後の系の状態が大きく異なってしまうという現象(Wikipediaより)

 とある。ちょうちょの羽が起こす風も、台風を起こす可能性がある、ということだ。

これだけコロナの出来事で色々なものが変わり、その影響で全然予期しなかったことに変化が及ぶと、どんな時も、自分の人生にそんなところがあるのだと思う。その名のとおり「バタフライ・エフェクト」という映画もあって、本当に小さなことで、人生が変わるということを如実に描いている。(結末が異なる VersionもDVDにはあるようだが、私は本作の映画の結末をとても切ないなと思った)

eiga.com

日頃の仕事の中で「○○でなかったら」という反実仮想を考えることが多いのだけれど、そういうことを考えていると、改めて人生はその瞬間瞬間、「ポジティブである」というのがよいと言われる理由が何となくわかる。「あの時ネガティブだったら、こうだったのに」、という反実仮想よりはあまり意味がないように思うからだ。「やらないより、(ポジティブに思えることを)やる」である。今の状況や自分を肯定して生きることは、あとあと「あの時こうだったら」というようなことを考えず、前向きに生きられるヒントである気がする。ポジティブ即前向き。何も言っていないのだが。岡本太郎の言葉を借りれば、その瞬間瞬間、「危険な道を選ぶ」のだ。そうすれば、本当に、風が吹けば桶屋が儲かる。のではないかと思う。

何がしたいかわからないときは、運動をする

何がしたいかわからないときは、日々いつでもやってくる。毎日、明確にこれがやりたい!と飛びつくようにはいかない日の方が多いだろう。そんなときは、すぐにスクワット、プランク、腹筋などをやってみる。ジョギングがハードルがあれば、簡単な散歩、歩きに出るのもよいようだ。人間の脳は簡単なもので、運動をすると切り替わるものである。以前、筋肉に記憶が眠っているという話をする人がいた。記憶を筋肉につけるともいうのかもしれない。そのくらい、精神と肉体は切り離せないものなのだと思う。今日、何やったらいいかよくわからないな、だるいな、今日も一日終わってしまったな、と思うようなとき、1分でも、5回でも。まずは簡単な運動、筋トレをやっねみるのは良いと思う。自分も今日、30回の腹筋をした。

ドケルバン病をドネルケバブ病と呼ぶ

ドケルバン病とは、親指の付け根の腱鞘炎のことなのだが、これが痛い。私は産後7か月で罹患し、まだ1か月以上治らない。これを夫に伝えるときに、「ドネルケバブ病がー」といい、「え!ケバブ?なにそれ食べたい!」という一連の流れがあった、今日この頃、、、早く治ってほしい。

COVID-19、コロナウィルスで死を想う

メメント・モリMemento mori”、という言葉を小学校の頃に習った。自分はいつか死ぬのだから、そのことを忘れるな、「死を想え」という意味のラテン語である。また、カルぺ・ディーエム”Carpe diem”というのは、「その日を摘め(楽しめ)」というラテン語で、その日その日を生きろ、というような意味に解釈できる。Covid-19のことがあってから、この2つの言葉が毎日、頭の中にある。

今、新型コロナウィルスCovid-19で、社会が混乱に陥っている。ちょうど10年ほど前、東日本大震災で日本が受けた混乱と、その速度は違うにせよ、似ていると感じる。思えばこの10年間、震災後、自分の身に迫った恐怖や、混乱というのは経験してこなかった。なんとなくのほほんとし、そして「自分の本当にやりたいことって何だっけ?」と悠長に、詩的に日々を過ごすことができていたような気がする。

今回、ウィルスから直接大きな影響がある、あるいは死ぬ可能性が高いわけではないけれど(特に私の年代では)、高齢者の方にとってのリスクが高いことや、あるいは感染の拡大が大きいことから、その混乱がじわじわとではあるが、直接的に迫ってきている。なんとなくのほほんと、生きる日々から離れてきている。毎日死を想い、一日一日生きることの大切さを改めて感じている。大げさかもしれないけれど、人間の生命の灯はいとも簡単に消えてしまうのだ、という生物の現実を見た気がする。

自分は今日、何がしたいのだろうか。自分は今日、何ができるのだろうか。自分はなぜ、今ここにいるのだろうか。なんとなく詩的に考えていた、つい1か月前よりも、より日々、今日はこれをしよう、今はあれをしよう、寧ろゆっくりと一日を過ごそう、といった具合に、身も心もアップデートした気持ちである。もっと直接的に、毎日に向き合っている、という感じだ。

Memento mori, Carpe diem. 死を想い、今日を楽しむのである。

人は誰でも誰かの代表だということ

最近英会話を再開した。日常会話は問題ないものの、英語で議論になったときに、自分の本当に言いたいことが素早く言えないのが、もどかしかったので。

そこで、最近習ったのが、“Japanese women are underrepresented.”という一文。日本の女性は過小評価されている、というような意味合いなのだけど、逆に、Representは、代表する、という意味になる。

この時、頭の中で(日本語で)考えたのは、いったい私は、一人の個として公の前に立つ場合、誰の代表なんだろう?ということ。日本の女性の代表であり、母親の代表でもあり、経営者の代表でもあり、おそらく今の仕事よりもよりやりたい仕事を描きながら今の仕事をしている人の代表ともなりうる。

誰の代表なのか。私は既に子どもではないけれど、子どもにとって信頼される大人の代表でありたいし、子どもの気持ちを持ち続ける大人の代表でありたい。大いなる権威に屈したくないと思っている人々の代表でありたいし、素直に物言いができる人々の代表でありたい。芸術をもっと素直に毎日人々の心に届ける努力をしている人々の代表でありたい。

そんな風に自分を捉え直してみるということは、多くの人々の顔をより良く想像することができるという意味において、生きることに張り合いが出て、とてもよいと感じている。