何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

沖縄で子どもを育てるイメージができた

今日から沖縄に来ている。そんなタイミングで、首里城が燃えた。だから、夫のFacebookのタイムラインは、首里城のこと一色らしい。今日、沖縄に来ることは半年くらい前から決まっていたけれど、その前日に、首里城が燃えた。ショックだった。子どもを連れて初めて沖縄に来たため、那覇の近くで観光、という風に考え、首里城も考えていたこともある。今日沖縄に着いてからも、タクシーの運転手さんや、スーパーの中や、仕事先の人、親戚も、首里城の話一色であった。パリでノートルダムが燃えたときのような、人々の心の中から、灯が消えたような、寂しさ。悲しさ。空虚さ。「文化」という普段形なく感じられるものが、形としてあったこと。それが失われたという実感。人々が改めて沖縄の文化の大切さを深く知る機会が、運ばれてきたのかもしれない。私はフランスにもいくらかゆかりがあって、ノートルダム大聖堂も何回か足を運んだことがあったが、ノートルダムが燃えた時は、色々あって、寄付しなかった。だが、今回は、必ず寄付したいと思った。それは、自分の文化が沖縄の人と結婚することによって、そこに少し根付いていたからなのかもしれない。フランスよりも、沖縄の方が、来たことがある回数が多いからなのかもしれない。ただ、沖縄の人ほどではないが、私の心からも、沖縄の文化が損なわれてしまったという、ぽっかりとした空虚な悲しさが、今朝から心のどこかにある。

首里城の話もあるが、題名の話をしよう。今日、初めて子どもを連れて沖縄に来た。飛行機に乗るまで、乗った後、そこからホテルに着くまで、色々大変だなぁと思うことが多かった。子どもがいないときの旅行の楽さだけでなく、子どもができてからも、普段家にいることの楽さ、安心感を思い知った。子どもができてから、「どこかに定住する」ということの大切さというか、どこかに定住したいという希望を少し持つようになったと思う。独身の時や、結婚して二人の時は、またどこか別のところに住めばいいや、というような根無し草のような感覚もあったが、今回沖縄に来て特に、どこかに定住していることの安心感や安定感、なんというか、「家庭感」のようなものを実感した。そして、不思議と、東京よりも沖縄に住みたいな、沖縄で子どもを育てたいなとやはり思った。それは、やはり人の心が温かいなと感じるからである。道行く人、スーパーのレジの人、前に並んでいる人、カフェの人、工事現場の人、一見やんちゃな車に乗っている人、みなが、子どもに優しかった。不思議だった。子どもの貧困率は高く、全国一律試験の平均点は低く、沖縄は社会課題的な指数を並べると、全国ではワーストに入る方である。しかし、そういった課題は、あくまで数字のことであり、しかも、どちらかというと経済的な話(、そういった「正しさ」)と紐づいていることも多い。沖縄はいつ来ても、東京の道行く人にはない、温かさを、一瞬一瞬、感じる。それが今日、子どもと一緒にいることで、より顕著に、如実に感じることができた。象徴的だったのは、工事現場のおじさんが、子どもを見て、かわいいねーかわいいねー、と、噂していた時。カフェで新聞を読んでいたおじさんが大きなくしゃみをして、それに驚いた子どもが、大きな声で泣いてしまったとき、そのカフェにいたお客さんやスタッフの人みんなが大笑いした時。沖縄に、定住して、安心して、子どもを育てるのはいいなと思った。東京も、よいところはあるけれど。沖縄の文化の中で、沖縄の温かい人たちの中で、自分も温かな気持ちに包まれながら、また、そうした心が子どもの心に染みわたっていくように、沖縄で暮らしていきたいと思ったのである。夫は、とても優しく、心が広い。きっとそれは、沖縄という不思議な文化、魅力を持つ島で、幼少期を過ごした部分が大きいと思う。子どもにも、夫のような心を持ちながら、豊かに育っていってほしい。今日、沖縄で子どもを育てるイメージができて、とてもうれしかった。首里城という沖縄の文化を取り戻しながら、そして無形にそこかしこにある沖縄の文化を感じながら、沖縄で子どもと共に、人間として成長していきたいと思ったのである。

人と会うと疲れるのは

人と会うのが疲れるのはなぜだろうと考える。自分とは違う考えを持っているから、あるいは、人と話しているとよく頭を使うからなのか。今日もよく人と会って疲れたが、それは本気で価値観をぶつけ合うような会話をしていたからなんだと思う。単純に、楽しい話や、自分と相性の良い人と適当に話すのではなく、社会のあり方や、課題について、本気でいろいろ違う考えや価値観を持った人と、話し合ってきたからなんだと思う。そこでエネルギーを使って、十分に使えて、帰ってから寝て、頭の中でたくさんの考えがプロセッシングされて、次の日に自分の糧になっているのだろうと思う。そして、そういった疲れは良い疲れなのだろうと私は思っている。中途半端なお互いを気遣って、無理を言わない会話ではなく、疲れてしまうかもしれないが、実りある対話をこれからも続けていきたい。

人の立場に立ち続けることは疲れるのかもしれない

今日は色々な人の立場に立ち、考えるということを求められることがまず多かった。大切なことであり、日々気をつけたいことではある。

しかし、あまりに常に考え続けることは、とても疲れることだともわかった。共感とは美しいことであり、エネルギーを使うことである。しかしそれ以上に生まれる何かも大きいはずである。今日は疲れたが、とても有意義だったと思う。ひとまず寝て、また明日から、じっくり考えよう。

人と人とのつながりを大切に、地球環境を愛おしむ

出産を経て、自分がやりたいことがより研ぎ澄まされてきたと思う。社会的課題の解決に取り組む人を支援したいとか、環境問題を解決したいとか、芸術文化をとおしたコミュニティ支援とか、いろいろなことを言ってきたけど、最近は、この2つ。1つは、人と人とのつながりを大切にできる社会をつくる。そしてもう1つは、地球環境を愛おしむ世界である。この2つに少しでも貢献できるように、日々時間を使っている。今まで(今も)している芸術文化をとおしたコミュニティ支援は、もちろん大事だけれど、その奥にあるのは、結局人と人とが共体験をとおして深く繋がれる世界なのだなと(とはいえ真に美しい芸術文化が密接に絡み合っているけれど)。そして、地球環境を大切にすること。本当は、環境問題の解決と言えれば良いけれど、地球環境の問題に対して、科学的アプローチなどで解決を目指すことがしたいのではなく、今ある(これまであった)地球環境を大切に想う心を持つ世界、結果としてそれが持続的な行動につながる世界にアプローチしたいのである。

具体的にどのようなことを日々実践しているのか。大きく2つある。1つは、事例・エビデンスづくり。人と人とのつながりを作るには、どのような実践がよいのか、それについて研究と実地プロジェクトをとおして、知見を蓄積していく。common knowledgeとして、多くの人に活用してもらう。もう1つは、普及啓発。優しい心を持つ人を増やしていく。なぜ人と人とのつながりが大切なのかを伝えていく。そのために、コラムや書籍を執筆して、より広く人々に知ってもらう。この2つをとおして、深く、広く、人と人とが温かいリアルなつながりをつくる、それを美しいとおもう、そういったことを忘れない、そういう世界づくりに貢献したい。子どもがおばあちゃんになったとき、互いが優しく電車の席をゆずりあっているような、隣の家の人の安否を暖かく心配するような、そんな世界になっていて欲しいとおもう。この、自分のやりたいこと、というのは、自分のためであり、子どものためであり、そして直接の関わりはなくても、さみしくて困っている人のためであって欲しいと思う。1日1日を大切に、生きたい。

 

美しさを目指すことに支えられるもの

今日、音楽教育を子どもたちに届ける団体の人と、団体のミッション等について、話す機会がありました。この4年間私は、コミュニティ活性×芸術文化の実践、ということに広く深く関わってきているのですが、最近は、様々な事業を見ることをとおして、あくまで芸術文化はツールであり、コミュニティ活性(リアルに人と人とをつなぐこと)が上位として大切なのだと思うようになっていました。もちろん芸術の美しさも大切だけれど、それは主眼ではなく、結局人と人とをつなぐことが大切なのだと。そして、今日の議論もそのような形で話していました。公的資金を使ってコミュニティ活性を謳っている事業では、芸術文化の崇高性や、音楽の美しさの高みを目指していくことについては、説明責任が果たしにくいだろうと。共感を得にくいのではないかと。しかし、最後、ある一人の人の発言に、改めてはっとさせられたのです。それは、「高みを目指すからこそ、音楽の力が発揮される」といった趣旨の言葉でした。本当に、はっとさせられました。私もつい数年前までは、そう思っていたではないかと。コミュニティ活性にとって、確かに芸術文化はツールでしかないのかもしれない。しかし、「崇高性、美しさ」というものが内包された、芸術文化であるということが重要なのです。誰でもできるような、適当にやったものではいけない。人々が一つになり、共体験をするには、姿勢、ストーリー、その質いかなるものかということ、が非常に重要であり、そうした要素があって初めて、「音楽の力」「芸術の力」が発揮させられるのだと。ここで言う「高みを目指す」や「美しさ、崇高さ」ということは、必ずしもハイアートのようなことではありません。芸術文化に対峙する人が、そこに美学をもっているか、まっすぐに向き合っているか、魂があるか、ということです。見る人・聴く人によっては、あるいは下手なのかもしれない。しかしそこに、しっかりとイデアに向かう魂が感じられることが非常に重要だということです。その「美しさを目指す姿勢」にこそ、人々は共感し、人と人とが、つながるのだと、私は思います。多様な芸術文化の在り方があってもよい。多様な人が気軽に楽しめる場も必要だと思います。しかし、地域が変革するほど、長期的に深く人をつないでいくということには、強いストーリー、美しさが、非常に重要だと思うのです。改めて、芸術文化とは何か、なぜ私が小さいころから惹きつけられてきたのか、なぜ今もどうしても、芸術の力、音楽の力を信じて研究をしているのかを、改めて実感し、軸を新たにした日でした。

映画「JOKER」を観て思うこと(ネタバレ注意)

JOKERを観て、思うことがありすぎて、整理のために書こうと思います。感想としては、怖いというよりも、悲しく、深く考えさせられることが多く、私にできる何かをやらなきゃな、と思ったということです。ちなみに、私はバットマンファンでもなく、JOKERファンでもなかったのですが、本映画を観るに先立って、ダークナイトと、バットマンビギンズは観ました。そして、本作はバットマンシリーズということを離れて、強烈なメッセージを届ける社会派映画だと、私は認識しました。本作はアーサーという心優しい男が、JOKERになっていく様子を淡々と描いているのですが、逆に、アーサーがJOKERにならなくてよかったはずの反実仮想をたくさん伝えてくれている映画だとも思いました。

映画を観て思ったことを、

  1. アーサーはただたださみしいだけ、ということ
  2. 不運にも殺人によって自己承認欲求を満たしてしまったということ
  3. 現実世界に生きる私たちにとっても、これっぽっちも他人事ではないこと、私たちにできること

という3つの点で整理したいと思います。

1.アーサーはただたださみしいだけ、ということ

一番象徴的だったのが、トーマス・ウェインとトイレで話すシーン。「ただハグして、愛してほしいだけなんだよ。」という趣旨の言葉。これは、アーサーが切に願っていた想いなのだと。彼は、愛されるという安全・安心の欲求と承認欲求を満たしたくて、それを父親(と思った人物)に求めにいったのだと思いました。ただ不運にも、事実でないがゆえに拒絶されてしまう。彼自身のコミュニケーション不足や、相手の許容力のなさにより、殴られてしまう。他にも、アーサーが日々出会っていく人々から、多かれ少なかれ、拒絶されるシーンがあります。バスの中で出会った子ども連れのお母さん、仕事の仲間、行政の福祉担当の人。誰もが、彼に対して、実直に向き合わず、彼は優しさや愛に触れるということがなかった。ただただ、一つ一つの瞬間が、全てさみしいのだと思いました。(「ゲイリーだけは、僕に優しくしてくれた」という言葉がありますが。)

2.不運にも殺人によって自己承認欲求を満たしてしまったということ

そして、図らずも地下鉄の中で3人の男性を撃ち殺し、新聞に載り、ニュースで騒がれ、一部の貧困層の支持を得たことにより、彼は、不運にも殺人によってはじめて自己承認欲求を満たしてしまうのです。こうしたことで、彼の心の扉が(ある意味間違った方向に)開け放たれ、殺人を繰り返すようになってしまう。抑圧された自己が解放されていってしまったのです。映画的には、その様子が演じるホアキン・フェニックスのダンスに美しく表現されています。また、非力なアーサーがJOKERになってしまう直接的なTriggerとなったのが、友人から譲り受けた銃(銃をもっていなければ、最初に子どもたちに受けた暴行のように、単に暴行を受けただけの形で終わっていた可能性がある)であり、こうしたストーリーは、銃社会への批判とも受け取ることができました。

3.現実世界に生きる私たちにとっても、これっぽっちも他人事ではないこと、私たちにできること

私が受け取った強烈なメッセージは、悪はどこかの「個」から生まれるのではなく、我々「社会」が生み出しているのだ、ということです。トーマス・ウェインの政策がなければ、電車の中での暴行がなければ、ピエロの仕事を首にならなければ、バスの中で誰かが優しい言葉をかけていれば、福祉担当の人が彼に本気で向き合っていれば、、、反実仮想を描けば、アーサーはJOKERにならなかった可能性がある。一つ一つの一見取るに足らないことの積み重ねや、一人の政治家の決断(福祉サービスや薬の停止)が、強烈な「悪」を生み出す必要がある。そしてそれは「悪」ではないのかもしれないということです。私のように、ごく普通に生きている一人の人間にとっても、全く他人事ではないと思います。オペラの劇場から出てきていた観客の一人が、私かもしれない。アーサーの行った小児病棟の看護師が、私かもしれない。そうした時に、私たちはどのような行動をとれるのだろうか。どこまで優しくなれるのだろうか。そういったことを問う映画だと、私は思いました。

JOKERの文脈と少しずれますが、少し前の記事で紹介された、彼女のような保護司とどこか早い段階でアーサーも出会えれば、極端なVillainになることはなかったのではないか。 

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人と本気で向き合い、愛を届けられる人が、世の中にどのくらいいるでしょうか。「JOKER」は、バットマンシリーズということを離れて、一つの政策が人の人生を全く変えてしまうおそろしさや、単純に周囲の人に対して優しくあることの大切さを、非常にわかりやすく伝えてくれる映画だと感じました。政治にもっと本気で向き合おう、また、人に対して常にまっすぐに、フラットに、優しくあろうと、思いました。

Amazon prime会員を更新してしまった

Amazon prime会員だったのだが、会員費があがるときいて、前々から用意周到に自動更新されないようにしていた。そして、会員が切れる9月後半、全くそんなことは忘れていて、Amazon prime videoを何気なく観ていた。そうしたらなんと、大好きな千鳥の相席食堂の新クールが追加されていたのである。観るしかない、と思って、観はじめ、エピソードを次々と進めていった。

休日に、家族で出かけていて、赤ちゃんがおっぱいを欲しがったので、駅ビルの中にある授乳室に行ったとき、何気なく、あ、相席食堂観ちゃおうっと。と。にしきのあきらの回の途中だったし。と。Amazon prime videoを開いて、再生ボタンを押した瞬間、なんと、Prime会員が失効し、見られなくなっていたのである・・・こんなの更新するにきまってるじゃん。だって、にしきのあきらの回の途中だったんだよ。

そして、メールを見ると、ワンクリックでPrime会員を更新できるボタンが送られていて、金額を確認することもなく、あっさりと更新してしまったのである、、、半年以上前から自動更新をしないようにしていたのに、、、これは、こいつは千鳥の相席食堂の新エピソードを追加すればPrime会員を更新するな、とAmazonに思われていたに違いない、、、悔しいが、背に腹は代えられない。そして最後まで千鳥の相席食堂を満足して観切ったのである。

 

あるwww.asahi.co.jp