何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

人を馬鹿にしている人は、自分自身も馬鹿にしている

最近、人を馬鹿にしているな、と思う人にちらほら会った。なんというか、一見、上品そうに見える人でも、お、この人、相手を選んで人を馬鹿にしているな、、、などと思う人がいる。そういう人に会って、自分が見下されると、私はすごく悲しくなるし、自信喪失したり、あるいは怒りを覚えることもあるのだが、そういう時はキリスト教的な?考え方で、あ、この人は自分自身も自信がなくて、相手を見下すしかないのだ、、、という風にがんばって自分を慰めて?落ち着かせるようにしている。

そして私は相手を見下したりしていないか、自問自答する。自分に自信がない時ほど、相手を見下したり、斜めに見たり、馬鹿にしたりしてしまっているような気もする。

バカボンのパパのように、何にでもこれでいいのだ、と思えるとよいなぁ。自分自身も、相手にも、これでいいのだ。そして、相手に馬鹿にされてると感じても、これでいいのだ、と。

 

サイードの思想を知り、自らが英国で感じたことを再考する

エドワード・サイードの思想を初めて読んだ。とても共感した。オリエンタリズムについての考察、西洋がアイデンティティを築く上で、逆にオリエンタリズムが作られたという考え方は、日本人として生きている中で、すごくわかりやすかった。また、彼があのバレンボエムとのコンサートを行ったということを知り、尚更より深く、知りたくなった。まだ、かいつまんだ程度なのだが、きちんと彼の「オリエンタリズム」を読んでみようと思う。

さて、彼の思想に触れて、私が思い出したのは、英国に(2週間との短期になってしまったが)留学したときの経験だ。英国はバイキングの歴史だし、やはり大英帝国として世界を支配してきた歴史があるからなのか、そういった西洋一強の雰囲気をまざまざと感じたのである。日本人だから、英語が下手だから、ということもあったのかもしれないが、クラスメートはほぼ全員欧米出身者(特に英米での生活が長い人)だったので、たった一人のアジア人として、非常に浮いた。Social Entrepreneurshipを謳うコースで、Political Philosophyの授業もあったが、まだ、クラスの中には、強い「差異へのこだわり」というようなものを感じたのである。

そんな中、私が最も心を開けたというか、曲がった視点をもたずに接することができた人がいる。それは、一人の教授であったが、彼は、人種や語学のうまいへたに関係なく、私を含むすべての人に対して深い傾聴の姿勢をとる人だった。学者、あるいは学者を超えて、人としてあのように誠実な態度ですべての人に接する人に初めて会ったので、とても刺激を受けた。今、色々な人に接する際に、彼のような姿勢をお手本にしているくらいである。フーコーも言っているように、エピステーメーが存在し、それは各時代や文化で異なる。そういったことを超えて、誠実にあたたかく全ての人に接するkとができる姿勢は、人のつながりを生み、あらゆる争いや隔たりを解決していくと思う。

自らが「異」となる環境に身をおきながら、自らがその「差異」を超えられるような姿勢でいる。そんな風に、生きたいと思う。

まだまだ産休からすぐに復帰ということが珍しい社会

私はもうすぐ産後2か月なのだが、今月から仕事に復帰している。今日も、2か月半前までお世話になっていたクライアント先とのミーティングにでかけた。そこで、よくしていただいている方に、「もう復帰されているなんて、どうなっているんですか?お子様どうしているんですか??」と興味津々に聞かれた。答えとしては、子どもは待機児童になっていて、そのおかげで都のベビーシッター利用支援事業を利用できている。ので、子どもを家でシッターさんに見てもらっているのだ。

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まだまだ日本ではシッターに預けて復帰、というのは、お金もかかるし、普及していない現状。でも、海外ではよくある。友達の多いフランスでも、ナニーさんをみんな割に気軽に使っているようだ。今回は本当にラッキーなことに、都の支援事業で、250円/hという破格で使え、フルで活用させてもらっている。これがなければ待機児童で家で仕事しながら子どもを見たりしなければならなかったはずなので、とても助かる。また、来年度の保育園の点数にもつながるので、本当にあってよかったと思う。税金を払っていて、よかった、と思える制度だ。支援事業のことはさておいても、もっと日本でも一つの選択肢として、シッターさんの良さが伝わっていくと良いのになと思う。

産休からすぐに復帰すると、あとあと身体に支障がでるよ、とか子どもがかわいそうよ、とか言われるのだが、家にずっといると、私はメンタルがやられてしまいそうで、仕事に復帰できてとても嬉しい。こういう人も結構いるのではないかなとも思う。フルタイム、夜までばりばり!とまでいかなくても、時短で少しずつ、という人もいるだろう。子どもがかわいそう、という感覚もあるかもしれないが、私は子も私も、一人の自立した人間であり、与える愛情は、一緒にいる時間に関係なく、時空を超えてつながっていると思っている。そして、そう思いたい。

また、2か月くらいで復帰すれば、ちょっとのバカンスから帰ってきた、くらいなので、仕事へのリカバリーも早いし、職場側も助かる。私は経営側なので、戻らざるを得ないところもあり、会社側の気持ちも自分の気持ちもよくわかるのだが、2~3か月だと、プロジェクトなどにも支障が出にくく、調整しやすいと思う。もちろん長期で休んでも、会社側がマネージできなければだめなのだが。

女性活躍!みたいな話はあまり好きではないけれど、当たり前に、働きたいと思ったときに働けて、休みたいと思ったときに休めるような制度が整っていて、かつそれぞれの選択への周囲の理解が進んでいる世の中になってくれたらよいな、と思う。働くからえらいとか、休むから愛情豊かとか、そういう世界観ではなくて、取りたい選択肢を自然に取れる社会になれれば、より互いに豊かになれるのだと思う。

時空を超えること、愛を伝えること

アインシュタインが、時空を超えるものは、結局、愛である、と言ったという話をどこかで読んだ。これは、本当にそうだと思う。私は、幼少のころから母に深い愛情を受けて育ったのだが、この愛は、時間も空間も、常に超えている。母は、健在であるが、母が亡くなった後でも、ずっと、私の心の中に残り続けるし、その愛はまた私の子どもにも、私をとおして伝わり続けると思う。愛の感覚を知れば、強くなれる。母の声が頭の中で聞こえれば、強くなれる。泣いていても、大丈夫だと思える。悲しいことがあっても、母ならこう言ってくれるだろう、と思える。自分の中に、母の愛が存在していると思う。自分をとおして、夫や、子ども、他の周りの人にも伝わっていっていると思う。そして、伝える、という能動的な形ではないにしても、自然と染み出すように、伝わっていってほしいと思う。私も、母のように、自分の愛を伝えられる人になりたい。

考えなくなっている怖さ

AIが人を凌駕するのではないか、といった議論がよくある。将棋とかチェスでAIにプロが負けるとか、といった話もあった。その時に、(たしか)加藤一二三さんの「負けるかどうかは関係ない。将棋とは、さすことそのことに意味があるのです」といった言葉に、そのとおりだなと思うことがある。

AIが、今人がうんうん考えているようなことを代替してくれるようになって、より、効率がよくなる可能性はたしかにある。今でさえ十分便利なのに、もっともっと便利になる可能性は高い。人間よりも、AIの方が、処理能力が高いというのは事実かもしれない。でも、だからといって、人間が考えなくてよいのです、ということにはならない。人は、生き、そして考えている。考え、そして生きている。

政治的無関心に関する記事を今日偶然読んだが、日本は特にものごとを深く考えない人が、増えているような気がする。政治のことも、よくよく考えれば、それが自分の将来を決めることなのに、まるで関係ない、よくわからないこと、とさじを投げている人が多いように思う。もしくは、イメージ戦略におどらされて、何も考えずに投票している人も多いだろう。その記事は、政権に対して批判をしないメディアを批判する記事であったが、私は教育のシステムを批判したい。公教育の中では特に、子どもは考えないように育てられる傾向が強い。「社会」といった科目は、本来は社会のことを考えるように設計されるべきのはずなのに、詰込み、記憶をうながすような教育がされている。倫理や哲学の授業よりも、実学志向のものが偏重されているように思う。

人は、考える。みずからがどのように生き、死ぬか、それを考えて生きていくのだと思う。便利さや見せかけの幸福に甘んじて、考えなくなり、それが、自分以外の人や、自然に悪影響を及ぼしかねないということを、意識しなくてはならないと思う。たとえAIなどで便利になっても、考えなくてよいということではない。寧ろ、重要なことをより深く自分の頭で考える時間ができたということなのだと思う。一人一人が考えるということは、多様性を生み、多様性は、生命の美しさなのだと思う。私たちは今日も、考えなくてはならない。考える。考える。考える。

波長の合う、合わない人

昔の友人から連絡があったときに、メッセでやり取りしているだけで、あれ、なんか波長が合わないな、と思うことがある。普通のあたりさわりのない会話をしていても、である。会っていれば、なおさらわかることもある。

波長の合う、合わないを普段、どう見極めているのだろうか。仕事の採用面接においても、なるべくバイアスや個人的主観を排除したいと考えてやっているが、こういったことも何となく影響してしまうことが多いように思う。一つ一つの言葉から受ける印象、それを頭の中で組み立てて考えることで、その人の人物像・価値観を理解し、そして、自分のそれと照らし合わせているのだろう。例えば、昨日の昔の友人とのやり取り。「だれか男の人を紹介して、かっこよくて、頭が良くて、優しくて、お金持ちの人、3高」。この「だれか男の人を紹介して」は、まったくニュートラルに捉えられるのだが、「かっこよくて~」からを聞いて、あ、なんか、違うな、と思ってしまった。特に、いくつも外見的な要素や、お金の部分を並べられたからだと思う。良い悪いの問題ではなく、好き嫌いの問題なのかもしれない。そういう価値観を持っていてもよいとは思うけれど、私は好きではない。私は、人は存在するそれだけで価値があると思う。そして、一緒にいてみなければ、自分と合うか合わないかがわからないと思っている。私が結婚した相手は、元々、外見がすごいカッコよいとも思っていなかったし、優しいかもわからなかった。どちらかというと、何を考えているかよくわからなくて、合わないな、と思うこともあったと思う。でも、しばらく一緒にいることで、自分のない部分を補ってくれる、そして、お互いの波が常に共振したりはしないけれど、寧ろ打ち消し合って、平穏をもたらしてくれると思った。今や、お互いの波は共振し、嬉しいことや楽しいことが何倍にもなると感じることがある。

波長の合う・合わない、は自分と似ている・似ていないとも違うと思う。全くちがう人でも、波長が合うな、とか、一緒にいて心地よいな、と感じることはある。なんとなく合わないな、とか、居心地が悪いな、と思うのは、要は考え方に全然賛同できないな、と思うからなのではないかなと思う。ただ、考え方に全然賛同できない人だからといって、波長が合わないからといって、そういった人との対話をあきらめてはいけないと思う。世の中多様で、自分が賛同できない人と出会うことは多々あると思う。家族や親せきにおいてもそういうことはある。共振する人たちばかりとあっていて、ハイにばかりなっていても仕方ないのかもしれない。自分の波形が乱されたり、まったく打ち消されたりすることで、新たな発見がある。多様な波があって、この世界が初めて調和しているのだと思う。自分の波がただしいとか、ただしくないとか、そういうことではない。ただ色々な波が出会い、混ざり、離れ、共存しているのだと思う。

時間を決めるということ

夫との約束で、家のことをやる時間を、決めた。「午後6時から9時は、互いに仕事のことを気にしない、家のこと、子どものことに集中する」という約束。そうしたら、とてもストレスがなくなった。昨日まで、ご飯食べながらメールを見ていた夫にイライラすることもなくなり、家事や育児を率先してやってくれる夫を見て、とても嬉しい気分になった。自分自身も、時間を決めて取り組めるので、効率がより上がったと思う。夫も、仕事に集中してできるようになったのかなという気もする。土日に関しては、時間のことをあまり決めていないけれど(いつも仕事してしまっている)、これからは、土日の仕事時間、家のこと時間、それぞれ決めていければよいなと思う。