アメリカファースト、都民ファースト、自分ファーストという刃
アメリカファースト、都民ファースト、〇〇ファーストって、最近流行ってる(?)けれど。自分が見る世界をちょっと相似でみたら、これって、付き合ってる友だちの横で「自分ファースト、自分ファースト」って言ってるようなものだなぁと思う。
友だちで一緒に何かやろうとなっても、「あ、自分ファーストだから、俺、それはやらないよ。」とか、困ってる人がいた時に一緒に助けようってなっても、「いや、自分ファーストなんで、私はそれはやらないよ」みたいな。そういう人は、友だちがどんどん減っちゃうんじゃないかな、結果的に。自分が得したいと思ってると、得できなくなる、というシンプルな話な気がする。
自分はもちろん大事だけど、自分も、周りも、そのもっと先も、大事。自分が豊かであるためには、自分以外も豊かであることが必要。また逆に、周りを豊かにするために、自分が豊かである必要があるということ。〇〇ファーストという言葉の響きには、自分だけが豊かであればよい(または自分が一番豊かであればよい)、他の人は豊かでなくてもよい(二番以下でよい)という意味が含まれている。ずっと誰かが一番であることは、たとえ一人の人生の数十年であっても、続くことなど想定できないし、子ども、孫の世代まで続くなんてことはもっとない。そもそも一番になって、どうするのが目的なのだろう。単純に〇〇のことを一番に考えますよ、ということか。裏を返すとみな、自分のことを(誰かに、国家に、都政や県政に)一番に考えて欲しい、転じて単純に愛されたい、ということなのかもしれない。
百歩譲って一番になるのが重要だったとして、一番になったら(一番に考えてもらえる立場なら)、その先周りに還元していくのが、道義としても、全体最適としても大切だと思う。〇〇ファーストの先にあるのは、その周りもどんどん良くします、ということだと言われれば、まだ納得がいく。周りも良くするために、自分たちがまず大事なのだ、と。
そうは言ってもやはり、〇〇ファーストという言葉は、その他は切り捨てますよ、という刃がある。周りの攻撃性や嫉妬に火をつけるのだ。兄弟がいて、両親がおにいちゃんが一番だからねと言えば、弟は嫉妬する。そうなれば弟は他の誰かからの愛情を執拗に求めるようになるだろう。これと同じ現象が世界で起きているように見える。
キリのない愛情をみんなが求めてしまう構造になった時は、愛されている側(〇〇ファーストになっている側)がそれを手放し、みなさんのために還元しますよ、という方向にいけることが大事だと思う(先の話と同様、自分が満たされているからできることでもあるかもしれないが)。
〇〇ファーストの時代の寵児たちが、その概念を手放して、利他的に行動できる社会になると美しく、そして持続可能な社会が訪れるかもしれない。〇〇ファーストを互いに批判し合い、傷つけ合うのではなく、その先に繋がる世界を描いて、一人一人が行動していけるとよいのだと思う。