何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

情報の非対称性が広がる、でかい声と声なき声が広がる世の中

情報の非対称性が広がっているなって思う。しかも、いびつに。

自画自賛の情報発信を自らすることがおかしくない(オレオレ!ていうことがダサくない)世界になっているので、Facebook内やTwitter内で声のでかい人(数の多い人?)=すごい人、みたいな世界になっている。それが、別に作品作りを発表したい、というのではなくて、作品のすごさを自ら自慢している、ということの方が多く、私は苦しいなって思っている。

実直に仕事をしていても、そういう歪なメディアがごりごりの世界だと、自己評価ぎゅんぎゅんな人、肩書べたべたべたな人が評価されていたりとか、そういう世界ができあがっていると感じる。それでもなお本当にわかる人たち=社会できちんと回っていけばよいけれど、そうじゃない世界を私は見ることが結構ある。私はそういう世界、とても嫌い。なぜって、美しくないし、格差を助長するし、自分がどっちの側にいても、本当に疲れるから。だから少なくともフェアに思えるアカデミアの世界とか、芸術の世界の方が、いいなって、思えている部分もあると思う。

私のリアルな友だちは、誰もSNSをしていない(高校の時の仲良し9名、大学の時の仲良し4名)。みんなアカウントは持っている子もいるけれど、完全に休眠。私みたいに見て疲れちゃう、みたいなことからも解脱している。たまにインスタとかしている場合もあるけれど、風景のきれいなやつだけさらっと載せているだけ、そんな感じ。私はまだ、SNS呪縛から逃れられないで、そういう風に自画自賛しないと、仕事(個人事業的)で負けちゃうかも、でもそんな美しくないことできない、とかそんな残念なことを思っている。もう解放されたいな、と思う。作品発表はたんたんとしたいけれど(論文とか文章とか絵とか)。自分自身、合わないのであるから、いちいち、そういうところで張り合わないようにしたい、と思う。

そのためにブログ書いてるんだったなぁ、て思う。

今日は、そんな世界をリアルでも感じることが多くて、すごく生気を失っちゃったので、仕事をせずに、文章を書いている。ふぅ、自分がすごいんだよ、とかっていうことじゃなくって、こういう気持ちを誰かと共有したいな、共鳴したいんだなって思う。私はそして、自分が発信するよりも、声なき声を吸い上げていきたいなと思う。でもその結果結局発信しないといけないだろうけど。

SNS核分裂の技術とかと同じで、Innovativeだけれど、使い方を間違えば大変なことにもなる。時代的には善悪の彼岸、かもしれないけれど、私はそれでも希望の灯が消えそうな時には支えたい、自分がめらめら燃えているときは、誰かに分けたい。そうやって生きていきたいし、やっぱりそれは自画自賛ではないなって思う。誰かの灯が消えそうならば、それは自分がきちんと使命を全うできていないことだと思う。