何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

日本の社会、ブラックボックス

Black Box、読みました。 
事件の内容には特別言及しません。書籍を通して、彼女の紡ぎ出す言葉・生き様に、女性として、日本人として、ただ一人の人として、強く胸を打たれました。そして何よりもジャーナリストとしてのプロ意識に衝撃を受けました。「そんなことしたら業界の中で生きていけないよ、業界の中ではxxしなければならない」というような仲間のアドバイスをそのまま受け入れず、自分で考え、自分の中の「正しさ」を貫く彼女は、まさに岡本太郎氏の「危険な道を選ぶ」ということに等しい行動だと思います。「そんなことしたら、周りが機関銃だらけの平原に裸で走っていくようなものだよ」という行為と似ている。社会を変えるとは、こういうことなのかもしれない。でもなぜ、彼女一人がそれを背負わなければならないのだろう。
「社会と戦ったりするより、人間として幸せになってほしい。娘には一人の女性として、平穏に結婚して幸せな家庭を築いてほしいておいうのが親の願いなんだよ」
という、彼女の父親の言葉にもそれが表れています。
加えて本書は、日本の閉ざされた「性」への認識に焦点を当てることができた良書だと思います。良くも悪くも事件そのものが注目されたことで、日本の閉ざされたブラックボックスにメスをいれる、本書の担う役割は大きいのだと思います(私も現に多くの新しい知識を得、深く考えました)。そもそも性行為について明るく語りづらい文化の中で、性犯罪はもっと語られない。被害者は本当に、泣き寝入りするしかない状況が多いと。一つ一つの事例に焦点を当てながら、なぜ法で裁きづらいのか、なぜ被害者は事件直後に法的証拠を集めづらいのか、構造的、精神的なハードルから多面的に記してあります。個人的経験とも重なったのが、「擬死状態」という言葉。被害にあう間、危険を察知して「擬死」的な状態になるため、抵抗することが難しいということです。痴漢経験者であれば、経験したことがあるのではないかな、と思います。中高生時代、多くのクラスメイトが満員電車で通ってくるので、(恐ろしいですが)痴漢を経験している子が本当に多かった。私自身、被害にあった時はただただ怖くて、まさに全身が固まったような状態になった。今は強く闘えますが、大きな声で「痴漢です!」といったり、声を上げて捕まえたりすることは、当時とてもじゃないけどできなかった。声が出ない。動くこともできないこともある。著者も記していることと似ていて、同級生と多く各自の被害について話したことはあるけれど、捕まえたケースは6年間で1件も知らない。犯罪に大きいも小さいもないのかもしれないけど、レイプは被害者にとって(日本の場合は特に)社会的死、精神世界との断絶といった非常に辛い状況になる可能性が高い。しかし、法的に裁きづらいから“仕方ない”、と語られてしまう。本書はそんな法そのものに疑問を持つきっかけも与えてくれます。
そして本書が興味深かったのは、「法的には」という言葉の元に片付けてしまう、また、とにかく批判ばかりしてしまう、日本の損得勘定システム・感情の劣化について淡々と言及していることです。何でもかんでも、損得がないと行動しないと考えている人。大いなる優しさや正義といった感覚を忘れてしまっている人。そんな人がたくさんいる。巷でよく言われる社会貢献活動をすると意識高い系・偽善者となる認識や、恋人とうまくいっていることをリア充、と呼んでしまうこと。本書の筋とは少しずれますが、社会システムの中での地位や自分の満たされない欲求にとらわれて、正義や寛大さや愛といったものを正面から受け止めきれないでいる、まさに感情の劣化について、本書を通じてまた一つ考えることができました。
薦めたい一冊です。
 

時空を超えること、愛するということ

 いつだったか、アインシュタイン相対性理論が「時空を超えること、それは愛ということ」を言っているのである、という記事を読みました。アインシュタインがそう言ったかの真偽は定かではないのですが、私の実体験から考えるとそれは本当で、そこに誰かの愛があること(あるいは情熱があること)は、実体がなくても、自分の心の中に永く生き続けています。近頃、この言葉を通して自身の生き方への気づきがあるので、それについて書こうと思います。

 愛は時空を超えるということ。例えば、小学校低学年時のユン先生との体験は、いくつも心に残っています。「身体に受けた傷はいつか癒えるけれど、心の傷はいつまでも癒えない」という言葉。彼女が愛を持っていじめっ子を怒ったときの顔、教室の雰囲気。それは彼女が熱意のあるかっこいい先生だったから、というよりも、彼女が深い愛を持って生きることを説いてくれたからなのだと思います。子どもへの愛を超えて、彼女の経験に基づいた人間そのものに対する愛があったからなのだと思います。また、私の母親は深い愛情を淀みなく注いでくれる人ですが、この感覚は、母の存在を超えて私の中で「いきて」いますし、私の子孫を通じて、周囲の人を通じて時空を超えていくと感じています。一方で、すごく優秀な(といわれる)先生や有名な人にお世話になることもありましたが、だからといって心に残り続けているものが多いわけではありません。

 最近は、自分の仕事についても同じように理解できるようになりました。理論的に説明すること、芸術活動をすること。今まではよくそれらを二元論で捉えて、つまり、「理論や仕組みを作ること」と「感情を動かすこと」はまったく違うもので、本質的には仕組みを作るよりも、感情を動かすことが大切なのである、と形式的に理解して選択しようとしていました。しかし、「仕組みづくり」や「感情を動かすこと」は、言葉として全く別のことを指しているようなのですが、それ自体は単純に形式的で差がないことなのだと思うようになりました。つまり、理論づくりにせよ子どもと踊ることにせよ、それは表層的な話であり、その取組において愛があるかどうかが重要なのだと思っているわけです。仕組みで人を変えることはできない、と言う人もいますが、それは少し乱暴で、どちらかというと、愛のない箱だけの行為では人を変えることはできない、ということなのだと思います。利己的な意図から生まれたものでは、人を変えることはできない。しかしそれがもし自己を超越した情熱や愛に基づくものであれば、何にせよ、それは時空を超えて残り続ける、人を変えることができるということなのだと思います。

 加えて、ここでいう「愛のある」というのは、必ずしも誰かのためにということではなく、自己を超越した感覚、生命や存在というものに対する深い敬愛、そういったものだと思います。ベートーベンの曲、アインシュタインの理論、ゴッホの絵、全ては実体のある存在を超越した深い敬愛に基づいて、時空を超えて残っているのだと思います。逆に言えば、褒められたい、認められたいといった自己へ向かう意識に基づいた行為の「いのち」ははかなく短いものだと思います。現に、そうした人の言葉、仕事や作品を見聞きしても、(どんなに「すごい」といわれることであっても、自分の中では一定期間残ったとしても、)はかなく息絶えています。

 自分自身、ふとした瞬間に「かっこよくみられたい」「自分は優れていると思われたい・思わせたい」という意識があります。「愛は時空を超える」という言葉を通して、なんと浅はかなのだろうと思うようになりました。自分が優秀だ、と思われたとして、それはおそらく数日、数か月のいのちです。でも自分が大いなる存在への愛を持って仕事を行えば、そのアウトプットが一見すごく小さいものだったとしても、一緒に仕事をした人の中に永く生き続けるのだと思います。私はそう生きたい、と思います。でかいことをしたい、誰かに影響を与えたい、認められたい、偉くなりたい、受賞したい、そういう表層的なことを目指してしまうのですが、表層的なことを意図して「すごく」なったところで、そんな「自分」は数年のいのちだと思います。対峙する相手の心の中に温かく生き続ける生き方をする。深い愛をもって、存在が時空を超える。生まれてきた意味とは、生きるとは、今の自分にとってはそういうことだと思っています。

どうしようもないけれど、とにかく一緒に考えること・やることが大事だということ

どうしようもない、というのは、生まれた家庭にある程度自分の人生が依存することがどうしようもないことだ、ということです。世界が絡み合う社会によって成り立っているので、良い(と思える)にせよ悪い(と思える)にせよ仕方のないことです。私はたまたま(たぶん)中産階級のおうちに生まれて十分すぎる教育を受けました。私の両親はそもそも教育に大変理解のある人で、たくさんの本や芸術に囲まれて育ちました。ヤンキーで16歳で結婚して、子どもも二人いてもう離婚もしちゃった、みたいな小学校の時の友達もいますが、その子たちもみんな生まれた家庭にある程度類似している人生を歩んでいると感じます(みんな本当に素敵な人なのですが)。小さい頃に社会認識が形成されていく中で、本当にこれはある意味仕方のないことだと感じます。

9月中、イギリスに滞在しているのですが、貧困の連鎖に関しては、イギリスも似たような状況みたいです。カエルの子はカエルだし、王様の子は王様の子、という野が確率的に当たり前、ということ。日本でも貧困の連鎖は最近よく話題に上がるようになりました。

私が仕事で関わるのは、「教育プログラムを複数年度やると子どもの希望進路進学率が高くなる」といったような「xxをやったら〇〇がよくなる」ということをどうやって進めていけるか、という可視化についてです。どうしたらそういう活動の成果をちゃんと可視化できて、より効果が出るようにマネジメントを良くして、そして寄付や助成金や投資をちゃんと促せるのか、ということに大きな焦点があります。これはこれで大事なことです。ただ、改めて今回思ったのは、「そもそも違う世界から違う世界への(ある意味上から目線の)支援」というのは、最も高い効果をもたらせない可能性がある、ということです。それは、別の誰かが正しいと思うことを押し付けているからで、相手を尊重しておらず、共に作り上げることに焦点が当たっていないからです。国際開発の分野でもずっと言われてきたことなのではないかと思います。たまたま奨学金があって、たまたま良い教育に巡り合えて、たまたま良い人に巡り合えて、ということがあれば、人は変われる可能性がある。でも、欧米型の教育に慣れたからといって、それは彼や彼女が生まれたコミュニティを変えることとは無関係です。 

何を言いたいかというと、それぞれを尊重するのであれば、トップダウンの考え方、(ある一点で)エリートが正しい、高い教育が正しい、という考え方を一旦脇に置いて、共に作り上げる姿勢を持つことが重要、ということです。結果的にトップダウンで進める方が効率的な可能性もありますが、姿勢としてまず共にある、ということが重要だと思います。社会主義でも共産主義でも右翼でも左翼でもありません。互いの文脈を理解する姿勢を持つ。それから、それらの文脈を理解できるような思考能力を持つことだと思います。

La Biennale di Veneziaに行く機会があり、そこで強く感じたのは、社会的に困難な状況なほどに力強い芸術が生み出されているという事実です。「言えないけど言いたい、やりたいけどできない」という状況が彼らの作品には痛いほどに表れている。何のために生まれてきたのか、どうして生きたいのか、痛いほどに考えている、感じているが故の作品なのだと思います。

日本は今一般的に言って、相当な「思考停止」に陥っています。というより、幼少の頃からの教育によって陥らされています。私達はとにかく考えるべきです。なんで生まれてきたのか、なぜその仕事をするのか、なぜお金を稼ぐ必要があるのか。赤字国家に生きる市民として、でも先進国としてたくさんの人々を救える可能性がある存在として、考えるべきなのです。

「“茶色の朝”を迎えたくなければ、思考停止をやめることです」 哲学者・高橋哲哉さん|KOKOCARA(ココカラ)−生協パルシステムの情報メディア

日本人は、平均して世界的にかなり恵まれた状況にあるといえます。私たちが考えるべきは「自分にとってなにが便益か」、ということだけではなく、自分は何がしたいのか、自分は「誰かのために」何ができるのか、ということです。そしてもし、その「誰か」が見つかったのなら、「一緒にやる」ということをとにかく考えることだと思います。自分の文脈も相手の文脈も、十分に考えた上で、何をするかを改めて「選択」すべきなのです。

 どうしようもないんだけれど、とにかく考えて、一緒にやることが大事なのです。互いに考えることが大事なのです。自分は頭が悪いから、とか、自分は考えるのが遅いから、とか、そういう言い訳ではなくて、とにかくそれぞれの文脈で、最大限考えることが重要なのだと思います。そして、それぞれが発言・表現して、共に作り上げることが大事なのだと思います。頭が良すぎる(と思っている人)は、一緒にやる、というスタンスに徹底することが大事だと思います。

そして、「共に作り上げる」プロセスにおいて、芸術的・創造的なプロセスが最重要だと思うのですが、この点については、また次のブログで書きたいと思います。

自らの情熱に従って心から話すこと、そして相手への尊敬と優しさが真に人を動かす

素晴らしい人に会った。ごく普通の、仕事のミーティングだったのですが、温かく、優しく、かつとても情熱的なエネルギーに強く心を動かされました。今の仕事を始めてから(というか仕事をし始めてから)初めてこんな風に人に動かされたと感じています。

アンガーマネジメントとか、そういうことではなくて、いかに自分の情熱に正直であり、かつ周囲を信じるか、ということがとても重要なんだな、と思いました。

加えて、自分の他人への批判的が転じて否定的な態度や、怒りやもどかしさが、今まで人にネガティブに伝染していたことに気づき、反省しました。自分のかしこさ、人にどう見られるかや成功するかどうかなど、そんなことを少しでも気にしている自分は浅はかだと改めて思いました。本当に、相手への尊敬と優しを前にしてそんなことは本当にどうでもよいことなのだと、あらためて感じました。

新進気鋭のダンサーや音楽家を見たときの、生き様への絶対的なあこがれというのとは少し違い、人との接し方、社会的なつながりの作り方の素晴らしいお手本を見た気持ちです。そしてそうした人への接し方は、誰にでも実践できることなのだと思います。

人を動かす・何かを一緒にするときに、強い情熱があることが大切だ、というのはもちろんだと思います。でもそれ以上に大切なのは、周囲の人を信じて、優しさでEmpowerすることだと思いました。

Collective impact、という概念が社会的事業の領域で流行っていますが、こうした動きは、彼のような人がいて初めて実現するのではないかと思いました。行政機関も、非営利組織も投資家も市民も、みんな全然違う想いや志向を持っています。加えて性格も異なり、怒りっぽい人や謙虚な人、知的好奇心が強い人、寛容な人など、様々です。理論を並べてロジカルに攻めることが正攻法な部分もありますが、複雑な課題やプロジェクトに共に取り組む、それが社会をよりよくしてくことであればあるほど、理論だけではうまくいかない。そして嘘の言葉を並べても、人を動かすことはできない。Speaking from the heart、自らが信じることをまっすぐに優しく相手に伝えること、そしてもちろん相手に耳を傾けることが重要なのだと彼の働き方を見て学びました。

最近、能力をとにかく高めて、経験を積んで、Specialistになればみんな話を聞いてくれるのではないか、認めてくれるのではないか、と思っていましたが、勘違いでした。もちろんそういう側面はありますが、それは超表層的なことで、それでは人を動かすこと、社会を変えることはできません。才能があったり優秀であるならば、ちょっと相手に冷たかったり、コミュニケーション能力がおや?と思われても大丈夫だ、と思っていましたが、それも違いました。いかなる相手でも、どれだけ相手を尊敬し、優しくあれるか、そして同時にどれだけ自分の情熱に常に正直であれるか。それがとても重要なことだと思いました。

彼のような人に、なりたい。彼のような姿勢で仕事に望みたい。そうすれば、きっと見える世界が大きく変わるのではないかと、そう思います。

 

自分を批判する。相手が鉄壁に見えても、他人への批判をきちんと伝える。

(毎週ブログ書く書く、と言い続けるのをやめることにしました。ただ、ブログは書き続けるので、ひと月に1~5本くらいは書くようにしたいな、と思います。。。)

ここ2週間で自分のAttitude(態度というか姿勢というか)に対する反省をしていました。

何かというと、「とことんジャッジし、相手が鉄壁に見えると批判せずに逃げてしまう」という姿勢です。最近創造性や芸術に対する理念を結晶化しようとすればするほど、シックスセンス(直観)で人のことを見て、「あ、この人すごく感性が開いている!」「あ、この人は開いてない・・・」など、そんな目で人をジャッジしていることがすごく多いのです。それは自己という視点を通している限り仕方のないことだ、とも思っているのですが、問題は相手のことを心の中でだけ批判(というか非難)して伝えずに、自分が傷ついていることです。元々の性格もあるのですが、この人おもろい、つまらん、と分けて面白いと思った人としか付き合わないようにしようとしているのですよね。

それを省みていました。それでいいやん、と思ってきたのですが。。。よくない。

これをしていると自分のVision(全ての人が創造性を思い出して自分自身のエネルギーの源に立ち返ること)に対して矛盾しているはもちろんのこと、誰にとってもよくないのです。つまらん、と心の中でむっつり非難するのではなく、私がやるべきことは「自分の価値観からみた批判をきちんと伝えて、その人の創造性を引き出すようにする」ことなのだと思います。人をつまらんと切り捨て続けていることがイコール自分自身(の持つ信念)を切り捨て続けていることと同等であり、とても疲れていました。

自分が最近特に辟易してきた相手は、「いい(正しい)ことやっている」を信じて疑わない人です。彼(女)らはその「自分は(自分が正しくないことも知っているからこそ)正しい」という信念の元、自らを批判しない(ようにみえる)ので、一緒にいるとそのエネルギーにとても疲れてしまうのです。つまり本当は違うよね、ということを伝えることができないような鉄壁のオーラを感じるんです。要は全然柔軟じゃないように見える(と私はジャッジしてしまう)。その人たちが柔軟じゃないと思うからこそ、そういう人たちに直接の批判を言うことが難しく、創造性を引き出すことが難しいと思っています。結果的に逃げてきていました。

創造性がないことを嘆いて、勝手に非難して、逃げていればそれは消極的な破壊です。

素直だろうが、鉄壁だろうが、そうじゃなかろうが、全ての人の創造性を信じて見つけ出そうとする、そういうAttitudeでこれからはいきたいなと思いました。苦手な人でも、鉄壁でも、出会ったからにはそういう姿勢で生きたいと思うのです。それは自分自身を健全に保つことでもあり、自分の信念を大切にすることでもあり、私が描いているVisionに向かうために重要なことです。

さらに、こうして書いてみると、創造性があることはVisionaryであることである、と以前書きましたが、そうでもないなと思いました(Visionaryでも超鉄壁な人がいるからです)。例えば子どもがみんな幸せに育ってほしい、とか、みんなが創造性にあふれた世界、みたいなVisionがあることはとても大事だと思います。でもこれは必ずしも創造性とリンクしない。創造性は、このVisionに向かう時に、よりFlexibleに、かつ、より多くの選択肢を作れる、ということなのだと思います。そして批判や他の意見にもオープンであれることでもあると思います。また加えて、さらに複雑系の中で進んでいく中で、Visionさえも見直す、ということをより可能にする力なのだと思います。

とにかく、私は相手に対して心の中で勝手にジャッジして、批判をあきらめる、というようなことはもうやらないぞ。

相手が偉い(ようにみえる、もしくはそうみせている)人でも、自分の信念に従って、伝える。それが危険な道を選ぶということなのです。

実行するのは難しいです。でも、そう生きる。そして自分も批判していく。

楽しさと喜びは違う~歓喜の追究と追求のススメ~

楽しさと喜びは違う。特に、「楽しみ」と「歓喜」とするとよりその違いが感じられると思う。辞書で動詞の比較をすると、以下のような違いがわかります。

楽しむ:
①楽しいと感ずる。心が満ち足りる。 「青春を-・む」 「余生を-・む」 「清貧を-・む」
②自分の好きなことをして心を満足させる。娯楽にする。趣味にする。 「釣りを-・む」 「油絵を-・む」
③将来に期待をかける。 「娘の成長を-・む」
④満ち足りた気持ちで、心が安らぐ。 「深くよろこぶ事あれども大きに-・むに能はず/方丈記
⑤豊かになる。裕福になる。
デジタル大辞泉より

 

よろこぶ【喜ぶ・慶ぶ・悦ぶ】:
①よい事に出合って快い・楽しい・うれしいと思う。また、その思いを言動に表す。 「お目にかかれてとても-・んでいました」
②祝福する。 「無事な生還を-・ぶ」
③ありがたいと思いつつ受け入れる。 「彼は他人の忠告を-・ばない」 
④(出産を喜ぶ意から転じて)出産する。子を産む。 「懐体して兄を-・びしより/浮世草子・桜陰比事 1」
デジタル大辞泉より

楽しみとは、どちらかというとライトで、娯楽、などに使われる言葉なのだと思う。一方で喜びとはより深い意味で、創造や誕生の喜び、など、ちょっと宗教・神秘的な響きがある言葉だと思う。音のイメージで語ると、楽しさは、シコペーテッドクロック(ティックッティックッ、みたいな感じ)、喜びは、ベートーベンの第九(ターラーラーラー、みたいな感じ)。

私は、真に生きるために、「楽しみ」だけではなく、「喜び」「歓喜」というものに触れるということがとても大切だと思います。生きているだけで素晴らしい、というのは最もなのですが、(自分にとっての)喜びの追究と追求のススメです。自分が何をするときにエネルギーが湧くのか、「歓喜」を感じられるのかが生命体をより精力的に動かすキーなのだと思います。

例えば、部屋にこもってBig Bang Theoryを見たり(最近よくやってしまう)、一日中ネットゲームをしたり、徹夜でカラオケすることは、「楽しい」とも言えますが、「歓喜」とは言えません。一方でうんうん唸って最終的に物語や論文を完成されることや、子どもの成長を感じること、興味深いですが熱心なスポーツ観戦で勝利することなどは「歓喜」に分類されるでしょう。「楽しさ」はどちらかというと消費活動に結びつく言葉で、喜びという感情は創造・誕生・思考と結びついている感情だと考えます。自分にとっての「歓喜」が何かを探り、そしてそれを求め続けること、というのはまさに自分の生きている理由に対峙していることだと思います。歓喜に結びつくことは、必ずしも楽しいとは限らない。苦しいことも、辛いことも乗り越えていかなければならないと思います。これは本当に興味深いですが、スポーツが一般的でイメージしやすい。錦織選手が勝つことは、歓喜だと思います。そして自分がフルマラソンを完走することも、歓喜。創造とは一見異なる行動ですが、ある意味「限界突破」というか、あるチャレンジを成し遂げることで「自らを再創造(成長)」していることとも言えます。(応援やAudienceの考察についてはまた今度ちゃんとしたいと思います)

ここで改めて言いたいのは、今後、世の中の働き方が変化していく中で、経済的に・心理的にある程度安定した環境にいる人々は、仕事をするとき・選ぶときに、自らの歓喜に基づいて決定することが社会全体の生産性、QOL、幸福度を結果的に上げるのではないかということです(そしてゆえに持続可能性を向上するはずです)。確かに舞台監督やダンサーとして、歓喜を求めて(基づいて)仕事をしている友人は経済的に困っている場合があります。しかし彼らの歓喜・創造性が本物であればあるほど、周囲の人を勇気づけ、周辺を変えていける力を持っていることを知っています。一方で、仕事が楽しいと語る友人がもちろん経済的に多くの貢献・生産に関わっていると思いますが、周囲の人を変えるような強いエネルギーを持つ人はごくわずかだと感じています(そして強いエネルギーを持つ人の場合には、仕事の中に真の「歓喜」を見出しています)。

今日の勅使河原三郎さんのブログで、以下のような説がありました。

新作とは新たな発言です。決意です。
それが疑問形であろうとなかろうと作品とは発言です。
「月に吠える」は私にとって実に危険で幸福な作品であると予感しています。
 [メールマガジンNo.872より] 

  発言であり決意である。危険で幸福である。

それは創造するからこその言葉だと思います。(幸福、という言葉よりも歓喜、という言葉の方が感覚に近いと思うのですが、それはさておきです)

皆が芸術家になるべきである。

それは一人一人が創造というプロセスを通し、発言・決意をし、自らに危険と歓喜をもたらす行為を行うことを意味しています。

私は、自らが一秒一秒、毎日毎日を過ごす中、どれだけそうしたプロセスに没頭できるかが、良く生き、良く死ぬことと同義だと考えています。

そしてそれは「楽しさ」という消費活動とは異なり、「歓喜」という創造活動を追究・追求することだと考えています。

次回は文化政策、文化経済の話、創造性と経済性の関係性についてDr. David Throsbyの文献を用いながら考察しようと思います。とても面白いです。

特に書きたいことがない週末もある

特に書きたいことがないのである、と書いている。

毎週日曜日にブログを書くことを決めて、ひとまずマラソンのように続けてみようと思っています(いや、いました・・・)。苦しいけど、苦しいけど、何かこれがゴールである!これが42.195kmのゴールテープなのである!と思うまでは走ってみようと思っているので、毎日曜日に何かを書きたいとは思っているのです。がしかし、早くも既に火曜日になってしまった、、、日曜日に書きたいことがなかったので、書きたいことがない、と書いたまま更新していなかったのです、、、でもここで諦めるわけにはいかないので、とにかく火曜日でも、遅れてでも更新しようと思います・・・マラソンでも一回歩いたとしても、また走り出すのが大事なのです(いいわけ)。

さて、週末に特に書きたいことがなかったのですが、せっかくなのでその理由を考えて書いてみようと思います。

ぱっと、思いつくだけで3つ。

1つ、週・週末に大変面白い出張があり、仕事で大変わくわくしたのですが、その内容はあまりブログに書けないから。書きたいけど、書けない。。。

2つ、自分の目標に直結することに関する締め切りがいっぱいあり、実際そればっかり考えていて、純粋な思考時間が減っているから。これはあんまりよくないかも。でも何かのフレームワークに則って好きなことを考えるのはそれはそれで楽しいです。自分の将来は~、とか、自分が特に興味があるのは~とか。

3つ、なんか世の中っていいなって思っている自分がいたから。先週末には甥っ子姪っ子が来たり、母親の誕生会をしたり、新しい人が快く会ってくれたり、仕事でも面白い人にたくさん会ったり。なんだか充足感で、あまりこう、思考がうんうんならなかったように思います。

 なんとなくこの3つから言えるのは、すごく面白いことがあったり、新しく素敵な人とのめぐり逢いもあり、とても充実していたのですが、自分の予想外・斜め上をいくような出来事が起きなかったのだと思います。自分の思っている通りのことというか、思考の枠からはみ出ないできごとが多かったように思います。平穏はそれはそれで美しく、大事なのですが、なんかこう、うぉー、書き留めたい~というところまではいかないのかな、とも思います。年上の思慮深い人にたくさん会っていて、これはこれでサロンドテのようでよいのですが、なんかこう、爆発、という感じとは違うと思います。

結局前の週末にぐっとくる書きたいことが無かったのは、自分の考えを深めようとしすぎて、視野狭窄になっていたせいなのではないかと思います。文化政策とか文化芸術領域の地域での取り組みのことばかり考えたり、そういうアポイントメントばかりあったのですね(これは本当に素晴らしいし、自分がちゃんと勉強していきたいことなのですけれど)。今週は若い人に会ったり、普段会わないor自分の仕事領域とは全然違う人に会う予定が数件あるので、それが改めてとても楽しみです。最近歳をとったのか、若者・馬鹿者・よそ者が好きです。爆発的ですし。今週はこう、自分とは全然違う領域にいる人に会ってみて、ぐっとくる瞬間を見つけたいな、と思います。

専門を深めたい、一つの確固たる軸をもちたい、と思うと同時に、自分の全然知らないことも幅広くどんどん知りたいし、いろんな人の感情にもっと多く触れてみたいなと思っています。没入と俯瞰を繰り返す。最近専門性を高めたくて忘れていたのですけど、改めてとても大事だな、と思った次第でした。