何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

楽しさと喜びは違う~歓喜の追究と追求のススメ~

楽しさと喜びは違う。特に、「楽しみ」と「歓喜」とするとよりその違いが感じられると思う。辞書で動詞の比較をすると、以下のような違いがわかります。

楽しむ:
①楽しいと感ずる。心が満ち足りる。 「青春を-・む」 「余生を-・む」 「清貧を-・む」
②自分の好きなことをして心を満足させる。娯楽にする。趣味にする。 「釣りを-・む」 「油絵を-・む」
③将来に期待をかける。 「娘の成長を-・む」
④満ち足りた気持ちで、心が安らぐ。 「深くよろこぶ事あれども大きに-・むに能はず/方丈記
⑤豊かになる。裕福になる。
デジタル大辞泉より

 

よろこぶ【喜ぶ・慶ぶ・悦ぶ】:
①よい事に出合って快い・楽しい・うれしいと思う。また、その思いを言動に表す。 「お目にかかれてとても-・んでいました」
②祝福する。 「無事な生還を-・ぶ」
③ありがたいと思いつつ受け入れる。 「彼は他人の忠告を-・ばない」 
④(出産を喜ぶ意から転じて)出産する。子を産む。 「懐体して兄を-・びしより/浮世草子・桜陰比事 1」
デジタル大辞泉より

楽しみとは、どちらかというとライトで、娯楽、などに使われる言葉なのだと思う。一方で喜びとはより深い意味で、創造や誕生の喜び、など、ちょっと宗教・神秘的な響きがある言葉だと思う。音のイメージで語ると、楽しさは、シコペーテッドクロック(ティックッティックッ、みたいな感じ)、喜びは、ベートーベンの第九(ターラーラーラー、みたいな感じ)。

私は、真に生きるために、「楽しみ」だけではなく、「喜び」「歓喜」というものに触れるということがとても大切だと思います。生きているだけで素晴らしい、というのは最もなのですが、(自分にとっての)喜びの追究と追求のススメです。自分が何をするときにエネルギーが湧くのか、「歓喜」を感じられるのかが生命体をより精力的に動かすキーなのだと思います。

例えば、部屋にこもってBig Bang Theoryを見たり(最近よくやってしまう)、一日中ネットゲームをしたり、徹夜でカラオケすることは、「楽しい」とも言えますが、「歓喜」とは言えません。一方でうんうん唸って最終的に物語や論文を完成されることや、子どもの成長を感じること、興味深いですが熱心なスポーツ観戦で勝利することなどは「歓喜」に分類されるでしょう。「楽しさ」はどちらかというと消費活動に結びつく言葉で、喜びという感情は創造・誕生・思考と結びついている感情だと考えます。自分にとっての「歓喜」が何かを探り、そしてそれを求め続けること、というのはまさに自分の生きている理由に対峙していることだと思います。歓喜に結びつくことは、必ずしも楽しいとは限らない。苦しいことも、辛いことも乗り越えていかなければならないと思います。これは本当に興味深いですが、スポーツが一般的でイメージしやすい。錦織選手が勝つことは、歓喜だと思います。そして自分がフルマラソンを完走することも、歓喜。創造とは一見異なる行動ですが、ある意味「限界突破」というか、あるチャレンジを成し遂げることで「自らを再創造(成長)」していることとも言えます。(応援やAudienceの考察についてはまた今度ちゃんとしたいと思います)

ここで改めて言いたいのは、今後、世の中の働き方が変化していく中で、経済的に・心理的にある程度安定した環境にいる人々は、仕事をするとき・選ぶときに、自らの歓喜に基づいて決定することが社会全体の生産性、QOL、幸福度を結果的に上げるのではないかということです(そしてゆえに持続可能性を向上するはずです)。確かに舞台監督やダンサーとして、歓喜を求めて(基づいて)仕事をしている友人は経済的に困っている場合があります。しかし彼らの歓喜・創造性が本物であればあるほど、周囲の人を勇気づけ、周辺を変えていける力を持っていることを知っています。一方で、仕事が楽しいと語る友人がもちろん経済的に多くの貢献・生産に関わっていると思いますが、周囲の人を変えるような強いエネルギーを持つ人はごくわずかだと感じています(そして強いエネルギーを持つ人の場合には、仕事の中に真の「歓喜」を見出しています)。

今日の勅使河原三郎さんのブログで、以下のような説がありました。

新作とは新たな発言です。決意です。
それが疑問形であろうとなかろうと作品とは発言です。
「月に吠える」は私にとって実に危険で幸福な作品であると予感しています。
 [メールマガジンNo.872より] 

  発言であり決意である。危険で幸福である。

それは創造するからこその言葉だと思います。(幸福、という言葉よりも歓喜、という言葉の方が感覚に近いと思うのですが、それはさておきです)

皆が芸術家になるべきである。

それは一人一人が創造というプロセスを通し、発言・決意をし、自らに危険と歓喜をもたらす行為を行うことを意味しています。

私は、自らが一秒一秒、毎日毎日を過ごす中、どれだけそうしたプロセスに没頭できるかが、良く生き、良く死ぬことと同義だと考えています。

そしてそれは「楽しさ」という消費活動とは異なり、「歓喜」という創造活動を追究・追求することだと考えています。

次回は文化政策、文化経済の話、創造性と経済性の関係性についてDr. David Throsbyの文献を用いながら考察しようと思います。とても面白いです。