何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

どうしようもないけれど、とにかく一緒に考えること・やることが大事だということ

どうしようもない、というのは、生まれた家庭にある程度自分の人生が依存することがどうしようもないことだ、ということです。世界が絡み合う社会によって成り立っているので、良い(と思える)にせよ悪い(と思える)にせよ仕方のないことです。私はたまたま(たぶん)中産階級のおうちに生まれて十分すぎる教育を受けました。私の両親はそもそも教育に大変理解のある人で、たくさんの本や芸術に囲まれて育ちました。ヤンキーで16歳で結婚して、子どもも二人いてもう離婚もしちゃった、みたいな小学校の時の友達もいますが、その子たちもみんな生まれた家庭にある程度類似している人生を歩んでいると感じます(みんな本当に素敵な人なのですが)。小さい頃に社会認識が形成されていく中で、本当にこれはある意味仕方のないことだと感じます。

9月中、イギリスに滞在しているのですが、貧困の連鎖に関しては、イギリスも似たような状況みたいです。カエルの子はカエルだし、王様の子は王様の子、という野が確率的に当たり前、ということ。日本でも貧困の連鎖は最近よく話題に上がるようになりました。

私が仕事で関わるのは、「教育プログラムを複数年度やると子どもの希望進路進学率が高くなる」といったような「xxをやったら〇〇がよくなる」ということをどうやって進めていけるか、という可視化についてです。どうしたらそういう活動の成果をちゃんと可視化できて、より効果が出るようにマネジメントを良くして、そして寄付や助成金や投資をちゃんと促せるのか、ということに大きな焦点があります。これはこれで大事なことです。ただ、改めて今回思ったのは、「そもそも違う世界から違う世界への(ある意味上から目線の)支援」というのは、最も高い効果をもたらせない可能性がある、ということです。それは、別の誰かが正しいと思うことを押し付けているからで、相手を尊重しておらず、共に作り上げることに焦点が当たっていないからです。国際開発の分野でもずっと言われてきたことなのではないかと思います。たまたま奨学金があって、たまたま良い教育に巡り合えて、たまたま良い人に巡り合えて、ということがあれば、人は変われる可能性がある。でも、欧米型の教育に慣れたからといって、それは彼や彼女が生まれたコミュニティを変えることとは無関係です。 

何を言いたいかというと、それぞれを尊重するのであれば、トップダウンの考え方、(ある一点で)エリートが正しい、高い教育が正しい、という考え方を一旦脇に置いて、共に作り上げる姿勢を持つことが重要、ということです。結果的にトップダウンで進める方が効率的な可能性もありますが、姿勢としてまず共にある、ということが重要だと思います。社会主義でも共産主義でも右翼でも左翼でもありません。互いの文脈を理解する姿勢を持つ。それから、それらの文脈を理解できるような思考能力を持つことだと思います。

La Biennale di Veneziaに行く機会があり、そこで強く感じたのは、社会的に困難な状況なほどに力強い芸術が生み出されているという事実です。「言えないけど言いたい、やりたいけどできない」という状況が彼らの作品には痛いほどに表れている。何のために生まれてきたのか、どうして生きたいのか、痛いほどに考えている、感じているが故の作品なのだと思います。

日本は今一般的に言って、相当な「思考停止」に陥っています。というより、幼少の頃からの教育によって陥らされています。私達はとにかく考えるべきです。なんで生まれてきたのか、なぜその仕事をするのか、なぜお金を稼ぐ必要があるのか。赤字国家に生きる市民として、でも先進国としてたくさんの人々を救える可能性がある存在として、考えるべきなのです。

「“茶色の朝”を迎えたくなければ、思考停止をやめることです」 哲学者・高橋哲哉さん|KOKOCARA(ココカラ)−生協パルシステムの情報メディア

日本人は、平均して世界的にかなり恵まれた状況にあるといえます。私たちが考えるべきは「自分にとってなにが便益か」、ということだけではなく、自分は何がしたいのか、自分は「誰かのために」何ができるのか、ということです。そしてもし、その「誰か」が見つかったのなら、「一緒にやる」ということをとにかく考えることだと思います。自分の文脈も相手の文脈も、十分に考えた上で、何をするかを改めて「選択」すべきなのです。

 どうしようもないんだけれど、とにかく考えて、一緒にやることが大事なのです。互いに考えることが大事なのです。自分は頭が悪いから、とか、自分は考えるのが遅いから、とか、そういう言い訳ではなくて、とにかくそれぞれの文脈で、最大限考えることが重要なのだと思います。そして、それぞれが発言・表現して、共に作り上げることが大事なのだと思います。頭が良すぎる(と思っている人)は、一緒にやる、というスタンスに徹底することが大事だと思います。

そして、「共に作り上げる」プロセスにおいて、芸術的・創造的なプロセスが最重要だと思うのですが、この点については、また次のブログで書きたいと思います。