何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

言霊と、言語と思考

言霊という言葉は、小さいころから我が家の家訓だった。「馬鹿」「ばばぁ」「このやろう」など、小学生で流行るような言葉は、家では絶対に使ってはいけなかった。理由は、言葉には魂が宿るから、そういったことを言っていると、現実にも悪いことを影響を与えてしまうからだ。私はもちろん今まで悪い言葉も使ってきたと思うし、思春期の時などは友だちの悪口を言ったこともあるし、家訓だけれども、もしかしたらそんな言霊に人生を影響されてきたかもしれない。

今日同僚からの紹介で、梨木果歩さんの記事を読んだ。私自身が直近の1か月、英国に行ってから考え続けてきたことととても近く、自身の思考整理にとても良い影響を与えてくれた。彼女の言わんとすることは、

流行り言葉、力の大きな言葉の濫用により言霊力がすり減らされる

ということである。例えば「誠実に」と言えば言うほど誠実ではなくなるなどがわかりやすい。それからもう一つ。「日本語には日本らしさそのものが満ちている」ということである。彼女は最後に、

大切に、長く使われ、言霊を秘めた日本語の奥にこそ、それを使う私たちすべてに共通の祖国は存在する。そこに国境はない。普遍的な祖国。

と、「ナショナリズムではないボーダーを超えた考え」を述べている。

この2つの考えは、私自身の仕事、思考と密につながる部分がある。特に共感したのは、言葉の濫用への違和感である。ファンシーな(それっぽく聞こえるが中身がない)言葉、欧米諸国から簡易に輸入してきた言葉の濫用は、私が自身の仕事において非常に懸念していることである。

私の仕事は、経済的価値以外の本質的に人間が大切にすべき価値について、考え直し、表現方法を考え、評価していくための制度を整えることだ。こうした経済的価値以外の価値を社会性などと呼ぶことはあるが、社会的インパクト、インパクト、アウトカムなど、輸入言葉は驚くほど多い。最近では、「ソーシャルインパクト」という言葉が流行り、その実体が十分に議論されないまま、独り歩きしている。重ねて国連が発案したSDGsなど、さらに輪をかけてあらゆる概念が増え、日常生活でも情報の海に溺れそうなのに、社会的なんちゃら、ソーシャルインパクトなんちゃらの界隈の川も氾濫し、溺れそうな勢いである。

私がそれでもこうした社会性を可視化し、制度を整えていく仕事に携わりたいと思っているのは、経済性偏重で歩んできた戦後以来、もう限界だと本当はみんなが気づいているはずだと思うからである。今我々が考えなければならないのは、なぜ生きるのか、何を本質的に美しいと感じるのか、それを改めて考えることである。「社会性」とは、何を意味するのかを、経済性の波や情報の海に飲まれそうになる前に、再度考えるために重要な言葉だと考えている。つまり、本来「社会性」「ソーシャルインパクト」という言葉は、人類に再度「自分たちが何を大切にすべきなのかを考え直す」ためのきっかけになる力を持っていると私は認識している。哲学のための、言葉なのである。

ところが、現状の「ソーシャルインパクト」は、その整理、カテゴリ化と標準化を目指している。理由は簡単である。ビジネスと同じように、スケールするため、より投資家の関心を引き寄せるためだ。つまりソーシャルインパクトの考え方をより広めるためには、そういったことをあまり考えていない人に対しても、わかりやすくしなければならない、という思考である。もちろんそれは大事なことで、第一歩としては大切なのだけれど、最も伝えたなければならないことは、それを踏まえて「考える」ということだ。それなのに、「SDGs見ておけば安心」、「標準化されたものを利用すれば大丈夫」「寧ろ同一指標でないと、それぞれの事業が比較しづらい」などの志向になってしまう。

私の考えは、事業一つ一つ、あるいはコミュニティ一つ一つの「社会性」があり、さらにもう少し広い自治体レベル程度での「社会性」があり、さらに国際的な「社会性」があり、今で言うところの国際的な社会性が「SDGs」ということなのだと思う。

考えるべきは、自分の属する目の前の世界でもあり、広くグローバルな世界でもある。社会がどんどん複雑化して、目の前のことだけ見ていればよいわけでもない。また、グローバルなことだけをみていればよいわけでもない。でも、全部に対してアプローチできるわけでもない。ただ、「考える」ということが重要なのである。ソーシャルインパクト、という言葉には、そういったいろいろな社会に身をゆだねてみて、何が大切なのか自分の文脈で考えよ、という意図が含まれていると、私は解釈したい。

私たちに求められているのは、今、考えずに新たな言葉の販売やプロモーションを行ってでも影響力を大きくしていくことではなく、新たに言葉を生み出したうえで、深く考えることなのではないだろうか。多用、濫用で溺れる前に、立ち止まって、解釈を深める「時間」を持つこと。そのために私たちは言語をつかさどるのだと、私は考えたい。