何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

「批判」とその表現方法について

もう半年ぶり位、全然ブログを書いていなかった。あまり書いて整理したいと思ったことがなかったのと、あと仕事で書きものが多くて欲があまりでなかったという感じなのかもしれない。

久しぶりにどうしても書きたいなと思ったのが、「批判」という気持ちについて思うこと。それから、その気持ち界隈の、表現の仕方について。

まず、「批判」という気持ちについて。私は批判的な考え方を自ら心がける方だと思う。当たり前と思われていることは懐疑的に捉えて、批判的な視点を持ってみる。仕事でもプライベートでも、いつもそんな感じで物事を捉える癖がついていると思う。そして、それは新たな考え方を生むことなので、私自身は良いと思っている。

「○○のコンサートは高くて当たり前に良い」⇒「みんなスタンディングオベーションする」といった状況に対しても、一歩下がって、もっといえば自分自身が感動していても、俯瞰的に、「でも本当にそうなのかな」と思うこともある。

批判的思考、という言葉もあるくらいで、批判そのものは周囲に害を与えるものではないと思っている。寧ろより良いコミュニケーションを促す可能性を秘めている。

問題は、その伝え方だと言いたい。

例えば、私が○○のコンサートが思ったよりも良くなくて、「全然ダメ、本当に期待外れだった」と言うことは、周囲に何の意味ももたらさず、寧ろその○○さん自身にはネガティブな影響を与えかねないし、もっと言えば、そのコンサートを良いと思った人に対して、気分を害する影響を及ぼすだけかもしれない。これではもはや、批判(Critics)ではなく、ディスり(Disrespect)となってしまう。ただここで、「大好きなピアニストである○○のコンサートをすごく期待していたけれど、楽曲が彼女に合わなくて、私が期待していた彼女のSoulが見られなくて、すごく残念」という言い方をすれば、それが周囲にネガティブな影響を与えることはほぼなくなるだろう。この場合で言えば、コンサートの構成そのものが課題なので、もし本当に彼女のSoulを多くの観客が期待していたのであれば、楽曲を変える、もしくは楽曲が重要な構成要素なのであれば、アーティストを変える、という建設的な改善を行うことができるからである。

こんなことを述べたいと思うのは、自らが批判(というかディスりを)されたときに、困惑することが大変多いからだというのもある。建設的なものであれば、そうだな、と思って改善することが可能だが、単純に「あんなの全然ダメ、しょぼい」というような言われ方をされると、傷つく上に、何をどう改善したらよいのかわからないのである。反撃態勢を反射的に取りそうになるし、精神的に互いに良くないと思う。

それから、批判的意見が結局そこに生まれたものをより良くするためにあるのであれば、その伝え方は一歩進めて、肯定的に、愛を持って伝える方がより効果的だなと思うことも多い。叱られて伸びる、という人も多いとは思うが、SNS等で不特定多数からの意見にさらされることが多くなっている昨今、さすがに縁もゆかりもない人から叱られ続けるのはきつい人の方が多いと思う。話を聞いてもらうにはどうすべきか、ということと同じだが、まず良い点、そこにある存在を肯定する言葉を述べてから、その上で改善点を淡々と述べるのが、有効に機能する可能性があるだろう。

批判とは、そもそも「良い所、悪い所をはっきり見分け、評価・判定すること」らしい。そうしてその先にある目指すものは、「より良くすること」なのだと思う。既に誕生したものに対して、どのように愛をもって、より肯定できるように促すことができるか。それがそもそもの批判の役割だと思う。

自己肯定のための、自己防衛手段として相手を貶めるような表現の「批判(と言われているもの)」は、自分の生を肯定するために周囲を否定してしまっているただの「ディスり」だと思う。多くの人が、「批判」をきちんとでき、かつ、より効果的に「批判」の力を発揮するために、愛にあふれた表現方法を取れるようになると良いなと思う。私も、冷静に批判し淡々と論じるところを超え、伝えたい相手に愛を持って届けられるような表現方法を模索したい。