何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

芸術と自分自身:Art, Born Creative, Engagement

 前の記事の①を書いてから、結構時間が経ってしまいました。そして続編になる②を書こうと思っていたのですが、その前に別のことを書きます。この1~2週間とても貴重な経験を通して自分の思うことがかなり言語化できたため、文章として書き残したいと思っているのです。

 この1~2週間、あらゆるダンスのワークショップに参加しました。その理由は2つあり、1つは『ダンスがとにかく楽しいので、年齢や経験にとらわれずにもっとやってみたい』と思ったから。そうしてもう1つは『本当にダンスが好きなのか、確かめたい』という気持ちがあったからです。そして異なるダンサーのワークショップ(いずれもコンテンポラリーのダンサー)に参加しました。そうして、予期せずダンスの枠組みにとらわれない形で、自分の『やりたいこと・やるべきこと・やれること』がクリアになってきたので、それをまとめようと思います。これが題目の、芸術と自分自身、ということです。

 それは、私自身がやりたいこと・やるべきこと・やれることは、『全ての人が"Born Creative"であるということを証明する・普及する・発育する』ことだと思ったということです。(この言葉は、2017年5月に東京芸術劇場で開催される藤倉大さんディレクターの"Born Creative Festival 2017"にそのままインスピレーションを受けています。参考:https://www.geigeki.jp/performance/concert107/)私はまさにこの言葉通りのことに活動の主軸を置きたい、ということを経験を通して思いました。

 私は4人の異なるダンサー(ダンス・カンパニー)の開催するWorkshopに参加しました。それぞれ面白い・面白くない、と思う瞬間があり、それらがなぜ起きているのかを掘り下げました。答えは単純でした。私が面白いと思うかどうかは、『誰もがクリエイティブだと感じられるか』に依存していたのです。いずれのWorkshopも、世界的に活躍するダンサーによるものです。クラシックバレエ出身の方もいますし、国籍もばらばらで、障がいを持つ方もいます。参加者も全く雰囲気が異なります。この、講師の違いや場の違いで、私が共にありたい芸術の姿が明確になりました。

 私が最も好きなワークショップには、年齢はもちろん若い子も、50代・60代の人もいて、男女もばらばら、たぶんそれもあって、誰も「これができなければいけない」ということは思わない。そして何より、WSの設計が『とことん自分に向き合うこと』に設定されています。「これが正解、たくさんターンができた方がいい、高く跳べる方が良い」といったテクニカルな話は全くありません。何も教えてもらえない。枠組みがない。それぞれが異なり、自分にはできることとできないことがあり、意識や音楽によって自らの身体がどのように変化するのか、それにとことん向き合う。自分で探さなければならないのです。自分の中にこそ、Creativityが存在するのです。その空間の中で同じ状況に取り組む人がいながらも、みんなが違う形で身体を動かし、またそこから影響を受けて自身が変わる。こういったことを呼吸や歩くことを通してひたすら行う。その空間の中でこそ、自分自身のCreativitiyを探求できるのです。これはもっと言えば、自分自身の存在意義・生きる意味を探求することと同義だと思っています。私はこのWSに1年ほど参加していて、ここが私のダンスへの興味の始まりでした。ただ今回、他のWSに参加したり、ダンサーに出会うことで、私は決していわゆる"ダンス"に強く惹かれているわけではないのだと、改めてわかりました。このWSで起こっているような、『全ての人が"Born Creative"であり、自分らしさを探求するもの、他の人との違いを認識しながら空間の創造を感じること、そのプロセスこそが美しい』という感覚に興味があり、信じていることなのだと改めて分かったのです。(そして余談ですが、藤倉大さんが相馬で行う「エル・システマ作曲教室」もまさにこの、Born Creativeの具現なのだと、改めて認識することができました)

 対比のために、残念ながら興味を持てなかったダンスのWS(の一部)を例に挙げます。ここでは振付が存在し、その振付に沿って行わなければならない。そうして『できなくてもよい』という感覚はありません。足が高く上がった方が良いし、長く跳躍できた方が良い。その方がより"イデア"に近く、美しいからです。これは何をダンスと規定するのか、何を美しいと感じるのかにもよりますが、一般的により強くEngageすることが美しいとすれば、その高みに挑戦する・それができるという意味では、Audienceは明確により強いEngagementを感じることができ、美しいことなのだと思います。一方で、『xxでなければならない』『xxであるほうがよい』という前提があるために、個人の差は一定のレベルに行かない限り『それぞれの違いなのでそのままが美しい』とはならないのです。それは努力の不足とは異なります。年齢や性別、生まれた環境や身体機能の差により、できること・できないことがあるというのは努力とは全く別の軸で存在することだと思います。そしてまた、興味深いのはいわゆる"ダンス"色が強いWSほど(例えばダンス経験者が非常に多いとか、講師がコンサバ志向であるとか)、例え意図していなくても、私のような経験が浅いものは、なんとなく引け目を感じるのです。これは場の設計に依存しますが、「初心者歓迎」と書いてあっても、WSの作り方として、「これは型を目指しているものではない」とか、「そのままでよい」とか、そういった誘導がないと、なかなか『全ての人がBorn Creative』な場にはならないわけです。覚えなきゃ、こうしなきゃ、ああしなきゃ、と心が支配されていくのです。周囲の若いダンサーを目指す方々がいる中で、できなくて悔しい思いもありますし、あれ、私って場違いだな、と思ってしまうのです。ただこの体験を通じて、私が目指しているものは違うものなのだと痛烈に感じることができました。もっとクラシックバレエを続けておけばよかったな、という後悔がないのは嘘になりますが、だからこそ、私にしかできないことが別にあるのだと再認識できたわけです。

 異なるWSに参加することを通して、CreativityやAestheticというのは、何かの型や枠があってそれができることで生み出されるのではなく、個々人が独自に生み出せるものだということ、それを探求することこそに、私が求める真実があるのだと思ったのです。

 スコットランド人のダンサー、Claire Cunningham氏(彼女は足に障がいがあり、松葉杖と共に踊ります。)のWSの中で、2つの言葉が特に印象的だったため、引用します。一つは、『各人の有する時空は異なる』ということと、もう一つは、『美しさはEngagementから生まれる』ということです。

 一つ目の言葉は、個々人の持っている能力や感じ方はそれぞれ異なるので、それは異なっていて当然だ、ということです。ですので、耳が聞こえない人のためには手話通訳の時間をみんなが当然待つし、トイレの時間が長い人は、当然その時間を待ちます。そこには絶対的に『xxしなければならない』という世界観はありません。生物学的に個体は異なっており、その人にしかできないことがあり、その人にはできないこともあり、それぞれを真に尊重していると私は感じました。彼女はまた、自分の障がいは一つのAdvantageでもある、とも言っていました。足が弱く、松葉杖だからこそ、自分にしかできないダンスがあるというのです。

 二つ目の何に美を感じるのか、何が芸術を美しくさせるのか、という問いは常々私も持っているものですが、彼女は『Engagement』という言葉を使いました。これは本当にシンプルで、納得のいく素晴らしい考えだと感じます。「何々ができること」「これこれの形」ということには、私たちは直接的に感動していないのではないでしょうか。その背景にある、そのダンサーの強い信念、まさにEngagementを感じて、そこに強く心を奪われるわけです。よってAIの作る芸術模倣品は我々の心を強く動かしはしないでしょう。そのAIを作ったEngineerには、あるいは美しさを感じるかもしれません。これは芸術を超えてもなお単純に語れることで、先日の全豪オープン決勝のRoger Federer・Rafael Nadal戦の美しさも、そのEngagementから伝わってくるものだったと思います。何度も引用しているDaniel Barenboimの言った言葉、「私たちはテクニックはなんでも教えることができる。でも、『好き』という気持ちは教えられないのです。」という言葉も、芸術家各人のEngagementにつながるからこそ重要であり、「好き」という気持ちが芸術の美しさに直結するのだ、と改めて思いました。

 私はダンサーになりたいわけでもないし、いわゆるダンサーにはなれないのかもしれません。ただ、全ての人が自分はCreativeだという自信を取り戻せるための活動をしていきたい。それは大きな社会の枠組みの中で、全ての人が生きる・生まれた意味を取り戻していくこととも言えるでしょう。自分自身があらゆる創造のプロセスを繰り返すこと、子どもや、Creativityを忘れたり・かき消したり・押し殺している大人に対して、Creativityを引き出せる場をたくさん作ること。そういった活動をしていきたい。『自分にしかできないことがあると実感する』『自分の存在意義を実感する』『他者との関係性を実感する』ということは、自分自身に向き合う芸術活動を通してこそ、最も効果的にできるのだと思います。誰もが、自分も他者も、それぞれその人にしかできないことがあることを思い出せる場を作りたい。そのために芸術があるのだと思うし、私が芸術活動に向かう意義があるのだと思います。何より、私がそうして自分自身のCreativityを今、実感として取り戻しているのだとも感じます。

 まだまだ書きたい気持ちもありますが、大変長くなりましたので、終わりにします。冗長な部分もありますが、自分の思うことをたくさん書いてまとめて、大変充実した嬉しい気持ちです。

社会的インパクトとは、社会的インパクト評価とは、そして「芸術・文化」領域に関して思うこと①

 この1週間、様々な団体のお話を聞いてそのロジックモデルを書く、という仕事をしていました。"ロジックモデル"とは、各団体そのものやその事業の波及効果、社会へもたらす変化を、何をして、何が起きているかを、「インプット、アクティビティ、アウトプット、アウトカム(初期・中期アウトカム)、インパクト(最終アウトカム)」の流れで論理的に追えるモデルのことです。例えば最近では、日本の社会的インパクト評価を推進しているプラットフォームから、若者就労分野に関するロジックモデルが公開されています(参考:社会的インパクト評価イニシアチブ)。各団体がロジックモデルを作成することで、各団体の運営改善、キャパシティビルディングにつながる、というメリットが挙げられます。そしてその先にある「何を指標としてどう評価するのか」というところに論理的につなげることができます。

社会的インパクト評価とは | 社会的インパクト評価イニシアチブ

 この概念はもちろんNPOの成果の可視化のニーズから注目されてもいますが、2008年のサブプライムローン金融危機の後から、ビジネスの領域においてもESG投資を含め、非財務指標が注目されており、今後益々広く重要性が増すと考えられています。

 団体ヒアリング(NPO向け、資金提供者(財団や企業)向け)を行う中で、気付いたことがあるので、メモとして残しておきます。

 気づいたことは、「ロジックモデルはミッション・ビジョン明確化のためにも、組織運営の意味で整理できていて然るべきもの」ということと、「その先にある指標の設定と測定は、一定程度必要だが厳密さや指標の数は各関係者のニーズに依存する、そしてインパクトを可視化する上では(必要)十分条件であるが、組織を理解する上では必要条件でも十分条件でもない」ということです。前者のロジックモデルを論理立てて書けるということは、各企業でいうところの設立趣意書があって、何らかのフレームワークを用いて(マッキンゼーの7S等)組織・事業をきちんと整理できているかどうか、と似ています。それが論理的に整理できいればいるほど、マネジメント、事業はきちんと回るものです。反対に、それをやっていないかといって、組織・運営基盤がきちんとしていないわけではない。論理的に整理できれば、イコール組織・運営基盤が強いという証明にもなるということです。ですので、どんなフレームワークでもいい。ロジックモデルがしっくりこなければ別のフレームワーク(例えばThery of change等)を利用すればいいと思います。論理的に事業とインパクトがつながっていて説明できればよいということです。そして後者の「指標を設定して測定する」という話ですが、成果の可視化のため、いくつかの指標を設定しておくことは重要だと思います。説明責任を問われた時にも非常にわかりやすい。企業でいうところのP/L、B/Sちゃんとしていますか、売り上げ目標ありますか、顧客満足度等、そんなところだと思います。ただ、全てのアウトカムに対していくつもの指標を設けることや、対象者や関係者に負担になる測定方法(多大なアンケート等)は関係者の意向によってやるべきかどうかを判断すればよいのだと思います。ここは結局誰のために評価をするのか、という問いで最終形態をイメージする必要があると思います。

 加えて、何より興味深かったのは、「最終的に団体に会わなければ社会的インパクトを目指しているのか、起こせそうかどうかはわからない」という感覚です。団体内のビジョンの共有や運営改善のためならば団体内の議論によるロジックモデルの作成(+指標測定)だけでよいと思います。ただ、それを用いて資金提供者や寄付者に対して説明する、助成金補助金を申請するための資料として用いる、行政に報告資料として提出する、となると、それだけでは十分ではないのです。異なる2団体が似たようなロジックモデルを書くこともあり、しかしその2団体の印象は非常に異なるのです。ここをうまく差別化できるかと問われると、紙面上ではとても難しい。これは社会的インパクト投資を実施する時にも重要な論点だと思います。何を社会的インパクト投資と呼ぶかによっても議論がずれてしまうのですが、いわゆる「社会的インパクトを本当に目指す投資」、ひいては資金提供(助成・融資等含む)においては、シード期のスタートアップへのベンチャー投資にも似た「経営者・組織の哲学」を尊重するような、非常に丁寧なDue deligenceが必要だということです。公的資金をまとまって提供するようなものの場合、ある程度決まったフレームワークでの各評価が必要だとは思いますが、真正に「社会的インパクトがある」かどうか判断するのであれば、単純にフレームワークを見て、というのはなかなか難しい。そして測定された指標のみを見て、紙・データベースで判断するのは困難を極めると思います(そこにある指標がどれだけうまく設定できているかだと思いますが、その測定方法も統一されないため、どこまで透明性を担保できるかなど、議論は残ります)。

 ここで私が主張したいのは、丁寧なDue deligenceとはDialogueの必要性を包摂しているということです。経営者・組織・関係者、彼らの目指す「社会的インパクト」とは何か、どれだけそこに意志があるのか、そういったことは、会わずして、話さずして、感じること、理解することはほぼ不可能だと思います。それは、我々が何によって心を動かされるのか、生きている意味を感じるのか、ということともつながります。「社会的インパクト」を起こすには、中心となる人々、組織がどれだけそこに"Engage"できているかということが重要です。その求心力がなければ、多くの人々を巻き込んで成り立つ「社会的なインパクト」は到達できるものではありません。そしてこの"Engagement"の強さは、ロジックモデルや指標測定、紙やデータベースではわからないものだと思っています。例えばそれは、爆発的な絵画を批評した文章を読んだり受賞数をカウントするだけでは、その絵画の爆発性を感じることができないように、例えばそれは、華麗なサッカー選手のプレーを書き下した文章で読んだり、得点数だけで判断できないように。あくまでそのものに触れることによって実感できるのだと思います。我々は心を文字通り動かされ、感動し、そうして初めて自分の意志で選択して行動することができます。「社会的インパクト」を志向しているのか、実現できるのか(つまり、持続可能な世界を実現するために解決すべき社会的課題があり、解決を実現できるのか)を判断するのには、紙やデータベースの仕組み・枠組みだけではなく、確実にそのものに触れる、Dialogueのプロセスが必要だと、私は感じています。

 この文章のタイトルにさらに「芸術・文化」領域に関して思うこと、とつけていますが、"Engagement"の考えは、Claire CunninghamというDancer/ Choreographerから得た発想であり、評価に関してかなりつながる部分があると思ったからです。でも文章が大変長くなりましたので、この辺で一度終了にして、第2部としてまた書きます。

「意識する」ことで自分が広がる、世界が変わる

 近頃「意識する」ということの重要性を実感しています。「意識する」というのは、「理解する」とも、「同意する」とも違う。ただただ、そこに何があるか、感じるかを「意識する」ということです。

 これは最近のダンスのワークショップでよく学ぶことなのですが、普段意識している手や、首や、眉毛など、そんなところだけでなく、耳の後ろ、足の指の付け根、鼻の穴の中の奥側など、意識したこともない、動かすことができないようなところも、意識すると、動きが変わったりする。自分の感じ方が変わったりする。それは「見る」とか「触る」とか、五感で感じられるものではないのですが、ある部分に、自分の中にあるビームとでもいうようなものを向ける、という感覚です。私は、「意識する」ことを行うと、自分自身の心の場所がわかるような気がして、不思議で楽しい感覚になります。頭蓋骨の裏側、食道の奥底、うちくるぶしにくっついている腱。そうして自分の身体が変わる、広がることに気づき、自分の身体が感じられる世界が変わる。この感覚を追い求め続けたいから、ダンスに強く惹かれているのだとも思います。

 そうして、これは別に自分の身体の話だけではなく、あらゆることを「意識する」ことで、たくさんの気づきにつながり、世界そのものが変わる、ということだと感じます。別に全部のものを好きになれないし、何でもかんでも愛おしいとは思えない。むかつくことだって、嫌な人だっている。でもそれをまず「意識する」ことが大事。そこから自分が変わっていく。自分は回りより偉いと思っている、頭がいいと思っている、そう思っていることを意識する。そしてだんだんと別に偉いとか頭がいいとか、だれも決められないことだと気づく。自分がそう思い込んでいることだけだと気づく。そしてまた、そういう自分の感情によって周りの人が嫌悪感を持っていることに気づく。そういうことを意識する、居心地が悪くなる、そうして自分のプライドがどうでもよいと実感していく。だんだんと自分の毒素が抜けていく。世界はもっと広いことに気づいていく。そうして気持ちは波及して、コミュニティ全体が変わる、広がって、世界が変わっていく。通りすがりの人を意識する。その人の洋服や立ち居振る舞いを意識する。自分自身のことに気づく。周囲の人の悩みや喜びに気づく。そうして徐々に、パズルのピースが居心地の良い位置に近づいていくのではないかと思います。

 新しいことに意識を向けると、人生が何倍も広がる気がします。事実、日々何の変化もなさそうに見えて、あっという間に過ぎていた一か月が、この一か月、本当に長いように、変化に富んでいるように感じています。

 今日も、耳の中、左中指の第二関節、レストランのレンガの漆喰、横に立つ店員さんの表情、そういった一つ一つに意識を向けて、自分の変化を楽しみたいなと思います。

自分の感じること考えていることしていることは世界を創っていること

 東北出張で雪がすごく、早朝と夜に長くBBCラジオをホテルで聴いていました。

 そこで、最近ISに入った若い男の人のインタビューが流れてきた。その内容、何かの雑誌で読んだ内容とも近いのですが、本人の声で聞いたということが自分にとっては衝撃で、色々思ったことがあるので、書き留めておこうと思います。

 それは、自分自身が今生きていて、感じて考えて行動していることは、全て世界とつながっていて、世界を創っているということの圧倒的な実感です。風が吹けば桶屋が儲かる、砂漠の蝶の羽でハリケーンが生成される、そういった感覚が自分にとって圧倒的に実感されたインタビューでした。

 彼が言っていたことは簡単で、「自分は難民の立場にある、仕事を見つけるのが難しくて、一生懸命探してやっと就職したのに、そこにある環境は、周囲の人から無視されるという状況だった。精神的、経済的に困窮し、自分にとってIS以外道がないように思えた」といった内容です。乱暴かもしれないけれど簡潔に言えば、「周囲の人々に排他的にされたから、ISを選んだ」ということだと思いました。

 これは自分にとってすごく身近な言葉として耳を貫きました。自分が普段の生活の中で何気なくやだな、と思って避けている人、田舎の中学生を見たときに、教育レベルの差を感じ、あぁ自分は東京の教育を受けてよかったな、と思っていること、そういうこと一つ一つ、そういう考え一つ一つが、誰かに影響を及ぼして、その人の人生の尊さを奪っている可能性があること。同じ職場の中で明らかに職場いじめ的な環境があるのに、なんとなく部署が違うから声を上げづらいこと。そんなこと一つも同じだと。誰か一人でも理解してくれる、声をかけてくれる、ハグしてくれる、そんな人が一人でもいれば、きっと違うのだと。そんな風に思いました。

 私は「まず自分にとってのcallingにつながること」、「自分を愛すること」が人生の中で最も重要だと思っているのですが、同時にそれが直接的に世界につながること、世界を創っていることを理解し意識することの重要性を、今朝のインタビューを聴いて痛烈に実感しました。私たちは別に誰かの他の人の人生のために生まれてきたわけではなく、自分の人生を(自分自身の心で選んで)生きるために生まれてきたと思っているのですが、その事実そのものが世界創造であるという認識が、私には不足していたと感じました。社会的課題解決のために、貧困状態の子どもたちのためにダンスを踊るわけではない、自分自身のためにダンスを踊るわけだけれども、誰かの悪影響、誰かからの愛の欠落により別の誰かがcallingに近づけない状態にあることは、自分自身加担してはならない、という意識を持ちました。

 つまり自分自身の感じること、考えること、することには常に自分自身への愛と共に周囲の人への愛があることが必要不可欠であり、また、何か愛の欠落している状況に遭遇したときには、そこに愛を注ぐことが自分のその場での使命だと思って行動する必要があると思ったのです。

 きっとバレンボエム・サイード・アカデミーはそういう意識からgenerateしたのだと、そんな風に思いました。

 なんてことないラジオの一部によって、私の価値観が少し変わっていく予感のする一日となりました。

書いたレポートの英語訳を監訳していて思うこと Weird Japan

 2016年にとあるレポートを共著で書きました。これの英語訳版の確認を行っているのですが、気付いたことがあるので、メモ。

 日本語で書いていたことが、英語になると気持ち悪くなることがいくつもある。それは文章の意味でも、内容の意味でも。最近毎日BBCを見ているのですが、日本にいると良くも悪くも(どちらかというとネガティブな意味で)非常に視野狭窄になるなぁと思います。それがさらに裏付けされている感じ。自分で書いておいてなんなのですが。。。

 そしてレポートを英語で見てみて思うのは、「xx団体の設立」「xx委員会の設置」「xxにおける討論の開始」の乱立というもので、すなわちこれは「何の結論も出さないけど議論している形だけはあります!」ということの連続で少しずつ動いているものがある(多くは動いていない)ということを、まざまざと見せつけられた気がしています。

 さらに、このレポートは減税しよう~とか、制度の拡充をしよう~という部分を書いているのですが、これって何なんだ?と改めて問いたい。「イギリスではあるのに、アメリカではあるのに」、という前提から議論を始めていることも結構多いのですが、そもそも文化圏が違う中で、海の向こうの国ではそれが個人・組織・社会を通じて必要だからできていたこと。日本で必要な理由に関する説得可能なロジックが抜けているように感じるのです。公共セクターにも民間セクターにもできないことだから、NPOががんばるのだ!とか、社会的企業が、というのはよくわかるのですが、じゃあなんでそこのために法整備をする必要があるのだっけ?という。なんで”ソーシャルセクター”が必要なんだっけ?改めて自分でも説明が足りていない気がする、、、うーん。

 日本人は、欧米諸国から学んできたし学ぶことはもちろん多いのですが、その上で、戦争に負けながら欧米化を志し、国民のメンタリティも日々変化していながらも憲法は一度も改正しない不思議な国で、何をすべきなのかを、もう一度0ベースで考える必要があるのではないかと思った次第です。

 民俗学的観点も含めて、こういうことに関して論考を重ねた本、読みたいですね。

 

そして自分を自分の子どものように育てる、愛する

 何がしたいかわからないわからないと言いに言い、年末年始に2週間程度、大きな休暇の中で芸術に広く触れました。(というのは前回も書いていますが。)

 さて普段の生活に戻ってみて、初めて自分自身が『本能的に・直観的に』やりたいことを、大人になってやっと言語化できたきたような気がします。ブログを始めてから2か月程度ですが、すごく言語化が進んだと思います。そして、やりたいことは、すごくシンプルで、当たり前のことだと感じました。やはり小学生の時や中学生の時に言っていた夢の延長線上だな、とも思います。転職してみようと思ったり、新しいことに何かチャレンジしてみたいと思う時はいつも、この夢を実現したかっただけなんだな、と、改めて腑に落ちました。

 要は、表現者になりたいわけです。でも、年齢的に遅すぎるから、とか、ちゃんと学んでないから、とか、なり方がわからないから、とか、そういういろんな理由を並べて自然と諦めて、そうして普段の生活に刺激がないとか、仕事に意味がないとか、ねじれたことを言っているんだな、と気づくことができました。そういうひねくれた人相になっているな、とはっともしました。「やりたいけどできないんだ。なぜなら諦めさせられたから。本当はあの時大学にいっていればできたもん。」とか、そういったことを言い続けたいわけです。でももうこのねじれも、もうやめます。じっくり活動を行います。

 また、芸術表現に関わる『周辺のこと』がしたいわけでもないことがわかりました。芸術を表現することそのものがやりたい、と。でもやり方がわからないとか、そういうことを言ってその周りを突っつく仕事や活動に手を出し続けていた。だから自分の爆発的な想いをどこにもぶつけられていないんだな、急につまらなく感じたりするんだな、と思いました。

 ですから、今年はとにかく自分が目指す表現を一つ一つ形にしていきます。それはゴッホのように。シェークスピアのように。あるいはもしかしたらロザリンド・フランクリンのように。時間も空間もそうして使っていきます。

 それからまた、やりたいことが見つからないなら、やりたいことを見つけることを諦めないで追い続けることがまず大事だと思いました。私も社会人になったからと言って、諦めることができない人でした。大企業にいるときも、小さなコンサルで働いているときも、ずっと考え、探し求め続けていた。お金が稼げればいいや、子どもができたから大変だから、とか、それも選択ですが、私はどうしても自分自身のやりたいことが他にあるとわかっていました。週40時間働いて月給をもらって、という生活を続けていくことがどうしても無理だった。自分らしい生き方を見つけることを、諦められなかった。そしてずっと考えて、書いて、いろんなことを吸収して、生きてきました。

 今ようやく言語化が出来はじめて、まず生きる上で大切にしたいと思ったのは、自分自身を自分の子どものように扱い、育てるということです。だから、自分自身に、遅すぎるなんて言わないし、無理だよなんて言わない。必ず何かあなたにしかできないことがあるよ、頑張って、応援してるよ、大丈夫だよ、と言い続ける。なぜみんな自分の子どもに言える、できることが、自分自身にできなくなってしまうのかとも、不思議に思います。

 話は飛びますが、戦争や争いといった暴力的なものは、こうして自分自身を愛せない大人たちが生み出しているもののようにも感じます。

 私は、自分自身を、これから自分の子どものように大切に扱い、育て、愛したい。今からでも、遅くはないよ。

何がしたいかわからない時は強く感動するものに近づき続けること

 2017年、相変わらずこれだ!と一つのものに向かうんだ!というような強い目標を持てずにいます。仕事もまぁ好きだし、えぇと、趣味のこれとそれは面白いし、というような。。。

 でも、何がしたいかわからなくても(言語化がきちんとできていなくても)、とにかく強く感動するものに近づき続けることが、私にとって大切なんだな、と思うようになりました。

 年末年始に物理的にも精神的にも多様な文化に触れる旅をしました。その中で長年海外で芸術家として活躍する方(日本人)の精神に深く触れることができました。そこで強く感じたことは、何をやっても、それが正解なのか、本当にやりたいことなのか、わからなくなる時は来る。やってもやっても評価されない、理解されない、経済的にも精神的にも苦労ばかりがある。それでも、自分が『これは美しい・これはすばらしい・これはとにかくわからないけど感情を動かされる』というものがあり、それに少しでも近づいていくことが大切だと感じました。また、一人でも二人でも、自分を応援してくれる人が重要だということも実感しました。

 その人にとってはそれがある芸術作品だったわけですが、私にとっては、音楽であり、新しいものを生み出し続ける芸術作品であり(特に現代音楽・現代舞踊)、そして具体的な活動としてはピアノの演奏とコンテンポラリーダンスなのだな、と思いました。絵もやりたい。

 何になるかわからないし、仕事でもないのだけど、それをやることによって、自分の美学を追求し、自分自身で感情を動かし続けることができる。それをめんどうくさいとか、評価されないとか思ったとしても、そこにYuja Wang、上原ひろみ藤倉大、勅使河原三郎、Gustavo Dudamelとか、自分が感動し、尊敬し、実際に世界を実現している人々を見聞き、感じることによって自分も自分の世界の表現をあきらめないでいられる。

 私にとって、2017年は、強く感動するものを感じ続け(藤倉大さんの曲を聴く、Dudamelの演奏を聴く、上原ひろみの演奏を聴く、Karasの作品を見続ける)、そして表現し続ける(ピアノを弾く(ClassicもJazzも)、ダンスを踊る)年にしたいと思っています。

 留学(専門は芸術×教育学・心理学)は、『学問する』ことそのものが、自分の中の本当の美学に基づくわけではないなぁと思う。ただヨーロッパの文化に触れられる続ける期間としては魅力的だなと思ってしまうけど。強く感動するわけではない。から保留です。専門分野が本当に学びたいことなのかがまだ疑問なのですね。

 2017年初の記事はこれまでです。