何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

そして自分を自分の子どものように育てる、愛する

 何がしたいかわからないわからないと言いに言い、年末年始に2週間程度、大きな休暇の中で芸術に広く触れました。(というのは前回も書いていますが。)

 さて普段の生活に戻ってみて、初めて自分自身が『本能的に・直観的に』やりたいことを、大人になってやっと言語化できたきたような気がします。ブログを始めてから2か月程度ですが、すごく言語化が進んだと思います。そして、やりたいことは、すごくシンプルで、当たり前のことだと感じました。やはり小学生の時や中学生の時に言っていた夢の延長線上だな、とも思います。転職してみようと思ったり、新しいことに何かチャレンジしてみたいと思う時はいつも、この夢を実現したかっただけなんだな、と、改めて腑に落ちました。

 要は、表現者になりたいわけです。でも、年齢的に遅すぎるから、とか、ちゃんと学んでないから、とか、なり方がわからないから、とか、そういういろんな理由を並べて自然と諦めて、そうして普段の生活に刺激がないとか、仕事に意味がないとか、ねじれたことを言っているんだな、と気づくことができました。そういうひねくれた人相になっているな、とはっともしました。「やりたいけどできないんだ。なぜなら諦めさせられたから。本当はあの時大学にいっていればできたもん。」とか、そういったことを言い続けたいわけです。でももうこのねじれも、もうやめます。じっくり活動を行います。

 また、芸術表現に関わる『周辺のこと』がしたいわけでもないことがわかりました。芸術を表現することそのものがやりたい、と。でもやり方がわからないとか、そういうことを言ってその周りを突っつく仕事や活動に手を出し続けていた。だから自分の爆発的な想いをどこにもぶつけられていないんだな、急につまらなく感じたりするんだな、と思いました。

 ですから、今年はとにかく自分が目指す表現を一つ一つ形にしていきます。それはゴッホのように。シェークスピアのように。あるいはもしかしたらロザリンド・フランクリンのように。時間も空間もそうして使っていきます。

 それからまた、やりたいことが見つからないなら、やりたいことを見つけることを諦めないで追い続けることがまず大事だと思いました。私も社会人になったからと言って、諦めることができない人でした。大企業にいるときも、小さなコンサルで働いているときも、ずっと考え、探し求め続けていた。お金が稼げればいいや、子どもができたから大変だから、とか、それも選択ですが、私はどうしても自分自身のやりたいことが他にあるとわかっていました。週40時間働いて月給をもらって、という生活を続けていくことがどうしても無理だった。自分らしい生き方を見つけることを、諦められなかった。そしてずっと考えて、書いて、いろんなことを吸収して、生きてきました。

 今ようやく言語化が出来はじめて、まず生きる上で大切にしたいと思ったのは、自分自身を自分の子どものように扱い、育てるということです。だから、自分自身に、遅すぎるなんて言わないし、無理だよなんて言わない。必ず何かあなたにしかできないことがあるよ、頑張って、応援してるよ、大丈夫だよ、と言い続ける。なぜみんな自分の子どもに言える、できることが、自分自身にできなくなってしまうのかとも、不思議に思います。

 話は飛びますが、戦争や争いといった暴力的なものは、こうして自分自身を愛せない大人たちが生み出しているもののようにも感じます。

 私は、自分自身を、これから自分の子どものように大切に扱い、育て、愛したい。今からでも、遅くはないよ。

何がしたいかわからない時は強く感動するものに近づき続けること

 2017年、相変わらずこれだ!と一つのものに向かうんだ!というような強い目標を持てずにいます。仕事もまぁ好きだし、えぇと、趣味のこれとそれは面白いし、というような。。。

 でも、何がしたいかわからなくても(言語化がきちんとできていなくても)、とにかく強く感動するものに近づき続けることが、私にとって大切なんだな、と思うようになりました。

 年末年始に物理的にも精神的にも多様な文化に触れる旅をしました。その中で長年海外で芸術家として活躍する方(日本人)の精神に深く触れることができました。そこで強く感じたことは、何をやっても、それが正解なのか、本当にやりたいことなのか、わからなくなる時は来る。やってもやっても評価されない、理解されない、経済的にも精神的にも苦労ばかりがある。それでも、自分が『これは美しい・これはすばらしい・これはとにかくわからないけど感情を動かされる』というものがあり、それに少しでも近づいていくことが大切だと感じました。また、一人でも二人でも、自分を応援してくれる人が重要だということも実感しました。

 その人にとってはそれがある芸術作品だったわけですが、私にとっては、音楽であり、新しいものを生み出し続ける芸術作品であり(特に現代音楽・現代舞踊)、そして具体的な活動としてはピアノの演奏とコンテンポラリーダンスなのだな、と思いました。絵もやりたい。

 何になるかわからないし、仕事でもないのだけど、それをやることによって、自分の美学を追求し、自分自身で感情を動かし続けることができる。それをめんどうくさいとか、評価されないとか思ったとしても、そこにYuja Wang、上原ひろみ藤倉大、勅使河原三郎、Gustavo Dudamelとか、自分が感動し、尊敬し、実際に世界を実現している人々を見聞き、感じることによって自分も自分の世界の表現をあきらめないでいられる。

 私にとって、2017年は、強く感動するものを感じ続け(藤倉大さんの曲を聴く、Dudamelの演奏を聴く、上原ひろみの演奏を聴く、Karasの作品を見続ける)、そして表現し続ける(ピアノを弾く(ClassicもJazzも)、ダンスを踊る)年にしたいと思っています。

 留学(専門は芸術×教育学・心理学)は、『学問する』ことそのものが、自分の中の本当の美学に基づくわけではないなぁと思う。ただヨーロッパの文化に触れられる続ける期間としては魅力的だなと思ってしまうけど。強く感動するわけではない。から保留です。専門分野が本当に学びたいことなのかがまだ疑問なのですね。

 2017年初の記事はこれまでです。

美学に向かうということ②

 前々回の記事では、『崇高な美学を持つということ』という題で個人的美学の重要性を説きました。

 本日、九州大学の数学者、千葉逸人准教授のインタビュー記事で面白いものがあったので、メモのために引用しておこうと思います。

 ”最終的には自己満足ですね。周りにも「俺は数学で世界を救うんだ!」みたいに立派なことを言う人は全然いなくて、知的好奇心だけでやってる人がほとんどです。だから、結局は自分が死ぬときになって、自分の人生に満足できているかどうかですかね。「俺はいい数学人生を過ごしたなぁ」って思えるかどうか、みたいな。
 ”うーん、この世の全てには数学が隠されてるんですよ。いま座っている椅子も、構造計算とかですね。ビールの泡の流れ方もそうです。現実にある難しい問題には、絶対に美しい数学が隠れてるんです。それを見つけた時の喜びがすごいんですよ。
 ”ロマンだけじゃありません。さっきも言った通り、現実の問題を解決する時に数学は役に立つんです。新しい数学の理論ができて、それを応用にフィードバックして、それで世の中が動いていくっていう。そして、その裏にはやっぱり美しい数学が隠れてるんですよ……!

 現実にある社会・世界を描く数学、私にとってはその他の社会科学(特に芸術)は、本当に美学そのものだと思います。

 

崇高な美学を持つということ

 私は学問が好きです。それはある程度「真理」として残り続けているものだからです。「誰が言った」とか、そういうことはもはや論点として消失し、「これは宇宙の真理である」という形で残り、そしてまた新しく鍛冶打ちをされ、そうしてより深い、高い心理に近づいていくのだと思います。

 そういう意味で、、、仕事に美学を見出すということが非常に重要だと最近思います。美学を目指し続けられることというのが、最も仕事、生きることそのものに、高い価値を創出できると思います。

 三角形は何をもって三角形なのか。コンサルティングとは何をもってコンサルティングなのか。ダンスとは何をもってダンスなのか。音楽とは、何をもって音楽なのか。

 そこに強いImaginationを持ち、それがイコールその人にとっての美学であり、それをEmbodyするための強い力があること。

 何がやりたいかわからなくても、不明瞭でも、それを何度も繰り返しても。

 自らが強くイメージができるものに対し、ただ、しつこく向かうこと。

 私にとっては。

何がしたいかわからないが本日が美しいということ

 今日も何がしたいのかよくわからなかった。けれども、精神的なバランスがよく、ただここにある、仕事がある、友人がある、ということがとても美しいと思えた日々だった。

 つい数日前までは、『誰かのために何かしなければ』という想いが大きく、なんだか少し息苦しかった気がする。何かしなきゃ、何かしなきゃ、誰かのために、誰かに認められるために、という焦りがあった。

 でもなんか、一巡りして、仕事に集中したりして、まぁ、まずは自分のためにちゃんと心地よくて、ちょっとストレッチできて、夢があって、まっすぐで、そんなきらきらした毎日ならいいなぁって。そこが原点になるかなってシンプルに思った。

 たくさんPivotし続けているけど、高校生とか、大学生とかの時から描いていて、努力もしてきていた夢を、もう一度かなえるために頑張ってみようと素直に思えた日だった。シンプルに、ピアノと、フランス語と、英語を、もう一度丁寧にやろう、と思った。(ダンスと絵もそう)

 限られた人生の時間の中で、そんな風に贅沢に時間が使えることが許されているのだから、それを思い切りたくさんのびのびと、やってみよう。やってく途上でたくさんの人と出会えればいいし、それが周りの人にとってもよい波及効果があればそれでいいなって思う。経済的にも社会的にも安定してきて、時間的にも自分で決められるのだから、規律をもって、じっくり、向かい合ってみよう。

 何がしたいかなんてわからないのかもしれないし、日々ぶれるし、揺らぐし、考え直すけれど、いつも心の中に残り続ける軸は、Pivotしてもぶれない。そしてぶれないかどうかは、Pivotしないとわからない。

 悩み続けたい、迷い続けたい、考え続けたい、そうして受け入れ続けて、自分に素直に生き続ける。

 今日は本当に良い日。

 

生きているという実感とことに向かう意志

 『生きている実感』があることなんて、あるんだっけ、というのが現代社会の常なのかではないかと思います。私はあまり生きている実感、普段感じていないように思います。仕事をしても、日々ごはんを食べても、無感動に流され作業しているような感覚を持つことが多いのではないかなぁと思っています。ちょっと前にマインドフルネスをかじったりしたときには、「毎日が生きている実感」なんて思ったこともあったのですが、一巡りしてまたこうして無感動に生きる時間も多いなぁ、としみじみ思っているところです。

 それでも今を生きる上で私が『生きている実感』あるなぁ、と思うことは、いくらかあります。それはイコール没頭できているとき、のあと。その没頭から醒めたとき。ピアノとか、ダンスとか、(一部の)仕事とかに没頭した後、2・3時間して、はっとしたときに、夢から醒めたようになったとき。「あ!よかった、生きているってこういうことね」と思います。そうしてもっとそういった部分を突き詰めよう、と思います。

 そうしてこの感覚は、何かを求める欲求とも違っていると思っています。あぁ、ピアノを弾きたい、踊りたい、といった『欲』というよりも、あぁピアノを弾こう、ダンスをしよう、仕事をしよう、という非常に自然な『意志』が沸き起こる感覚なのです。これは大変貴重な「ことに向かう意志」だと思っています。これこそが、自分自身の人生の軸になり、自信になり、そして存在意義になるのだと信じています。

 子どものためのプログラムを仕事で企画したり、運営したりすることもあるのですが、何かのツールや枠組みにとらわれることなく、すべての子どもにとって、それぞれが「自分自身が自然にことに向かう意志」を発揮できるものを探すことが重要だと感じています。スポーツだけでも、音楽だけでも、勉強だけでもなかなか難しいこともある。でもスポーツだけでも、音楽だけでも、勉強だけでも簡単に見つけられることもある。これは子どもだけではなく、往々にして自分自身の夢や希望を忘れてしまいがちな働く大人に対しても大変重要なことです。何もしたくないからこれをやる、とか、非常に強い力で何かをしたい、とか、何か別の目的(特にお金とか)のためにやる、とかそういうことではなくて『自然な形で沸き起こる』『やるのである、という意志』がよく生きることにつながるのだと、私は思います。そして結果、そうであるからこそ、周りの人に多く連鎖し、より大きなうねりになるのだと思います。

 仕事は良くも悪くもお金目的で行うことが多くなっている時代ですが、『自然にこれをやるのである、そしてこれをやることこそが自分の生きる意志なのである』ということが仕事になれば、そういう人がもっと増えれば、社会はもっとねじれがなくなっていくのではないかなぁと思います。私もそうして日々自分自身をUpdateし続けています。

 とりとめがないですが、今日の思いはここまで。

全てが意味のないことであると思うこと

 日々いくつかのミーティングに参加する。多くの報告書を作成する。そうしてそれは意味のないこと、茶番だと感じることが多い。一方で、ピアノを弾いているとき、好きな音楽を聴いているとき、コンテンポラリーダンスのワークショップに参加しているとき、絵を描いているとき、誰か力になりたい人のために動いているときに、時間をきちんと過ごし、自分の存在を感じていると思う。それ以外は、とても苦しいことの方が多いように思う。

 こういった考えは、小さなころから持っていたように思う。学校の勉強も、くだらないと思っていた。友だちづきあいやまじめにやる部活動もどこかくだらないと感じていた。全て意味がないと思っていた。いかにそれが豊かな人生に結びついていようと、どんなに"ロジックモデル"で説明されようと、意味がないことだと思っていた。ピアノや読書が自分の心の拠り所であり、自分の世界を文字通り広げてくれていた。3歳から音楽を続け、小学校からは太宰治夏目漱石をよく読み、中学に入ってドストエフスキー谷崎潤一郎などを読み、高校に入ってからは中島義道氏の本をよく読み、ギリシャ哲学からフーコーニーチェもよく読んだ。楽譜、生きることや時空についての文章の中に意味を見出し、生きる意味など見出せないと思いながらも、必死に多様なことで時間を過ごしてきた。

 そうして仕事についてからは、1日のほとんどの時間が意味のないことに費やされていると感じてきた。粛々と仕事をこなし、あらゆる人とコミュニケーションをうまく行い、日々充実しているように過ごしていても、絶対的に俯瞰をしている自分が『意味がないことだ』とつぶやいていた。そしてより意味がありそうな仕事を探し、少しずつ動いた。R&Dで環境の役に立ちたい、コンサルタントで会社の役に立ちたい、子どもの教育支援で人の役に立ちたい。一方でやはりこれらはいつも突き詰めるとすべて意味がないのではないかと思ってきた。どんな仕事をしても、集中して楽しめる時間が一定程度続いた後は、『こんなことはすべて時空のかなたに消えていく』という絶対的な問いに支配されていく。真面目に仕事を完遂したい想いと板挟みになり、結局は発狂寸前まで自分を追い込み、新たな『意味がありそうな』刺激へと向かう。

 こんなことを繰り返してきて、だんだんと自分のパターンが読めてきたのは、良かったと思う。私にとって重要なのは、全てが本当に意味のないことかどうか、ではなく、『意味のないことかどうか』を忘れられるものである。あるものごとがいかに意味があるかをあらゆる手段で説明しようとすることではなく、こうした絶対的な問いに支配されることなく、全神経を『あるものごと』に向けられるものである。仕事であるかどうかは論点ではない。私にとってそれは音楽であり、芸術であり、そうして自分よりも弱い存在についてである。

 今日も茶番と感じることがあった。こうして進んでみても意味がないのではないかと思うことがあった。そこに資金が投入されることに嫌悪感さえ抱くこともあった。でもそれが意味があるかどうかは、私が決めることではない。自分にとって意味のないことであったとしても、共に生きる誰かが灼熱のごとく情熱を燃やしている対象であるかもしれない。それを歯が砕けるほど食いしばって求めている人がいるかもしれない。よってそういった誰かの大きな情熱に私が感化され、何らかのご縁によって関わることが許されている限りは、自分にとって大きな問いに支配されようと、粛々と実行する。

 私にとって全てを忘れられる『ものごと』は、それが意味があるかないかは誰にでも簡単に判断できることである(そして誰にも決定できない)。しかしそれは常に『私』が存在する意義を思い出させてくれる唯一の存在であり、どんな教育よりも、論文よりも、称賛や資金よりも、一人一人にとって最も重要な要素であると思う。はてそれがパチンコでもいいのか、と考えると、またそれは一度思考してから書こうと思います。ここには「何かを創造する」そして「誰かのためになる」という意味合いが内包されているのかもしれません。