何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

私が作りたいのはコミュニティではない、人と人をつなげる意志であり、それぞれを個として尊重する意志である

コミュニティの再興を、という言葉を何回か使ってきた。しかし、今、沖縄に来て、やはりコミュニティのネガティブな側面を強く感じることも多い。つまり、排他的、強制的にになってしまう、ということである。コミュニティが強ければ、人は孤独になることはほとんどない。今よく問題になる、孤独死ということもないだろう。しかし、そのコミュニティが他を包摂せず、何かについて妄信し、コミュニティの外にまで押し付けてしまうようなあるいは中からの批判的視点を受け付けないようなコミュニティになってしまうと、そのネガティブな側面はぬぐい切れない。コミュニタリアニズムの欠点、と言われることでもある。「コミュニティ」という言葉が狭義なのかもしれない。改めてそういった「コミュニティ」を目の前にして、私が作りたいのは「コミュニティ」ではなく、個々人で互いを尊重し合い、時には包摂し、時には離れることのできる温かくもフラットな環境、個人の在り方なのだと思った。勅使川原三郎ダンス・メソッドのワークショップで感じたような、誰もが一人一人集中し、真剣に生きていて、同じ空間の中にいながら、融合もせず、反発もせず、時に共鳴し、干渉し、ただそこにある、ありたい姿を互いに尊重し合う。そんな環境である。互いが選択し合えるような空間が広がっている、本当のやさしさの空間。私たちが互いに人と人をつなげる意志を持ち、必ずしもつなげようとしなくても、それぞれを個として尊重し合い、つながる必要があるときにはつながれる、つながる必要がない時にはつながらない、そんな世界でありたい。そして、表層的なニーズに応えるのではなく、深層のニーズに気づき、感じ、満たし合える間柄でありたい。どうすれば、そういった環境を作れるだろうか。どうすれば、そういった人が、そういったままで存在し続けられるような社会を作れるだろうか。もう簡単に、乱暴に、人と人がつながる社会を実現したいということはできない。人と人が、つながるという美しさを知りながら、個々を尊重するからこそ、そしてその深層ニーズを真に相手の立場に立って読み解いた上で、つながらない、という選択肢をも取れる社会の一員になりたい。