何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

何のために働くのか、人の痛みを共有する勇気、覚悟

年度末の報告書の量に自分でも圧倒されている。こんなにも自分の仕事を管理できていなかったのかと思い知らされる。そして、細かい仕事への指摘や対応に、自分自身の体力というよりも、精神力がついていかないこともある。改めて論点整理をしたり、プロジェクトメンバーと共に質向上のために細かい確認をすることは、報告書の数が増えれば増えるほど、時間と労力を伴う。あぁこういう状態を忙殺と呼ぶのだな、と思ったりする。これを痛いと思うかどうかは人それぞれだが、私の場合は、結構苦しいと思うことが多い。例えばゲームをやりすぎて徹夜してしまうような感じの痛みと近いのかもしれない。

こんな時には、「何のために働くのか」、「何のために生きるのか」を自ずと改めて考える。今日、テレビをつけながら仕事をしていると、女装メイクを専門に行うメイクアーティストのドキュメンタリーをやっていた。彼女が言っていたのは、「(女装のためにメイクに来た人が)『家族にも言っていなかったけれど、ここに来て初めて言えた』、という相手の声をきいて、女装メイクなら、私ができることがあるんだと思った」ということ。メイクが好きで仕事をしていたけれど、何度も転職を繰り返した末に見出した自分のミッションであったようだ。「誰かの想いに寄り添う瞬間」に自分の仕事の意義を見出すのは、私の感覚とも近いな、と思った。

この2週間、忙殺の時期の中で思っていることが2つあるので、書き残しておきたい。1つは、私は「人が痛みを共有できる仕組みを作る」仕事をしたいのだ、ということ。もう1つは、全ての人が社会に関わっている限り、少なからず全ての人が社会的課題と隣り合わせだということだ。

自分が苦しい、つらいと感じた時でも、私はそれが誰かの痛みを緩和することな繋がるのであれば、そのために自分の仕事を完遂したい、と思っている。共有する勇気であり、覚悟と人としての温かさを持っていたいと思っている。また、自分自身がつらいときにも、誰かと共有できる社会であってほしいし、そうしていきたいと思っている。あらゆる辛い仕事があっても、それが誰かの痛みを緩和するためであり、誰かの希望につながることなのであれば、私は進んでやりたい、やらなければならないと考えている。

そしてもう一つは、社会課題は特殊性があるものではない、と思う気持ちである。私自身も精神的に波があったり、昔にいじめや鬱の経験があったりもする。それは自分のせいなのか、あるいは社会の構造によるものなのか切り分けることはできないが、死にたい、どうしようもなく苦しい、あるいは引きこもりのような状態になったときには、とにかく「誰もわかってくれない」という気持ちがあったのだと思う。人が生きるということは、あらゆる生命体が共存しているのだから当然、楽しいことも、喜びも、悲しみも苦しみもあると思う。それが「社会的課題」となるかどうかは、痛みや悲しみを「誰かと共有できない」状況がある場合なのだと思う。「孤独のない社会へ」とか、英国でも孤独担当相とか言うけれど、もっと厳密には、「つらいことを共有できるか」が大事なのだと思う。パリピがいかにも友だちがたくさんいて楽しそうでも、辛いことを誰とも共有できない可能性だってある。幸せな家庭を持っているように見える男の人も、女装をすることで自分と痛みを共有する、メイクアーティストと痛みを共有する、という瞬間があるのかもしれない。絶対に弱音を吐かない管理職の人が家で泣くとき、ペットと想いを分かち合っているのかもしれない。LonlinessとSolitudeは違うのである。

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もちろん社会構造の問題で、本人の意思によらない理由で教育を受けづらかったり、国の情勢などによって安全・安心な生活を送れない場合には、資金支援や構造改革を担える側(個人でも組織でも国家としても)がサポートする必要があると思う。そこからさらに踏み込んで目指したいのは、衣食住、安全の欲求がある程度満たされた上で、精神的に孤独にならない社会である。「社会課題」という言葉はなんだか大きくて遠い世界のように思えるが、自分自身も含め、常に共存している状態なのではないだろうか。

2つの気づきは、1つ目の話からつながるが、私は「誰かと痛みを共有できる社会の構築」のために働きたいということだ。私は、本当に幸運なことに、家族や友人と痛みを共有できる。たとえ物理的に一人で、家族が亡くなってしまったとしても、精神的に小さいころから受けてきた家族からの愛情を想像し、その痛みを共有できる。緩和できる。幼少期から学校やピアノの先生に恵まれたおかげで、心の中にある彼女たちの言葉と、痛みを共有できる。岡本太郎太宰治などの精神的な言葉が蓄積されている。それから、ピアノやダンスなどを通して、自分の世界を創造できる。

子どもや青少年の非行などの課題に対して、幼少期に母親的愛を受けるための早期介入が重要だというのは、ある意味「痛み共有に関する精神的システム」が構築されるのが幼少期だからだ。現実の世界でも、想像の世界でも、創造の世界でも、「誰か・何かと痛みを共有できる社会の構築」のために働いていきたい。私がなぜこんなにも突き動かされるのか正直わからないけれど、誰かが痛みを共有できない状況にあるのであれば、そうした構造を変えたい。誰もが、「こういう風に生きたい」と、少なくとも希望を抱けるような現実を描きたい。