何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

良い子ちゃん女子、法外を追求しよう

 題名は、宮台真司氏とニ村ヒトシ氏対談の「どうすれば愛しあえるの」を読了したときに思ったことです。言葉が乱暴な文章が多い本ですが笑、とても学びは多かったので、自分なりに感じたことを書き留めておこうと思います。

 法外とは何かをまず置いておいて、“良い子ちゃん”と括る必要について。括る理由の一つは、私自身が日本でいうところの良い子ちゃんで育ってきて、周囲の“良い子ちゃん”女子の法内苦悩が最近本当にすさまじいから(私立中高一貫女子校、理系大学、大学院コース。事実中高では本当に“かわいこちゃんを目指せ”と育ちました)。もう一つは、いわゆる良い子ちゃんほど法内の言語によってがんじがらめになっているからです(社会的に良い子になろうとしているから。自明ですけれど)。そしてさらになぜ女子か、といわれると、女子ほど社会の求める(法内の求める)生き方と、本能的な自分自身の生き方にギャップを抱えているケースが多いからです。これについてはまだ自分なりに整理して説明できないのですが、周囲の男子はごりごり「サラリーマン」として生活することに何の違和感もなくガンバッテいるのですが、女子は「サラリーマン」にも「サラリーウーマン」にもなりきれずに、無理してガンバッテいる人があまりに多いのです。

 法内、法外、というのは宮台さんの言葉で、簡易に「社会システムの中」と、「社会システムで規定されない外」ということです。つまり、違法駐輪はしてはならない、飲酒運転はしてはならない、という法で裁かれる行為に加えて、企業の中でどう評価されるか、両親や家族にどう思われるか、ということが「法内」となります。対して、「法外」とは、変性意識と宮台さんは呼びますが、社会システムに規定されないトランス状態のことです。宮台さんは「性愛」「まつり」といった世界を描いて説明しますが、私にとっては特に性愛、まつりに加えて、歓喜を伴うダンス、フュージョンの感覚をもたらすジャズ、と理解できました。つまり、「翔べる」という感覚をもたらすものです。

 最近、友人の良い子ちゃん女子たちから仕事やプライベートについて悩み相談を受けました。私が自由人ぽいから、あるいは普通の企業にずっと勤めていないからなのかもしれないのですが、とにかく苦しみを共有したい、何か話したい、どうしたらいいと思う、という感じ。みんなの悩みは、「仕事が苦しい、つまらない、けど、頑張らなきゃ」「仕事辞めたいから、結婚して子どもも作らなきゃ」といった内容です。さらには、本当はつらくて仕方がないけれど仕事を楽しいと思い込んで乗り越えて(洗脳して?)頑張り続けている場合もあります。非難しているわけではなく、事実、私も2年前までそういうメンタルモデルでした。また、29歳~30歳になるにかけて、5名の友人が、2・3か月付き合ってすぐに結婚、というケースを目の当たりにしました。詳しく話を聞いていないので、もしかしたら運命の出会いなのかもしれないのですが、これまた社会システムの見えない圧力(親・友人などからの意味のない同調圧力)によるものが大きいと感じています。

 そういうお前はどうなのよ、となりますが、私は(今は)無理して仕事もしていない(つもり)ですし、結婚もしていません。どちらも別に同調圧力に抗って、というよりも、たまたまそういうめぐりなだけだと思います。そのめぐりの理由は、私は法内の正しさを疑い続けて、自分の生きる理由を大局的に見続けてきているからだと思います。それがいいか悪いかはわからないのですが、少なくとも法外の縛りに苦しんでいる人を見ると、法内の圧力に惑わされず、自らの喜びや美学(法外)を追求することはとても重要な能力だと思えてきます。私は小さいころから負けず嫌いで父・兄にとにかく理論武装して勝ちたい、と思ってきました。中高では鬼のような校則を守り続けてがり勉をしてきましたけど、高3の夏に受験ノイローゼでダウン、2か月引きこもりになりました。で、徐々に法外の感覚をコントロールできるようになったのが大学に入ってから。希望の大学ではなかったけれど、とにかく自由に楽しく大学時代を過ごして、初めての彼氏もできて、本来大好きだったピアノに打ち込むようになって、法外の世界に自ら行く感覚をつかめました。その後も(今でも)、子ども時代の癖でしばしば法内の圧力に苦しめながら生きていきますが、その度我慢できずに飛び出したり、あぁこれね、とつきあえるようになってきました。

 法内で生きることがどうでもよい、と言いたいわけではありません。法外を追求して、法内で生きる術を身に付ける(宮台さん的には「社会に適応するフリ」)ことの大切さです。言い換えれば法内だけを一生懸命に生きるのではなくて、法外をできるだけ追求することの大切さです(これは岡本太郎氏の危険な道を選ぶ、ということとほぼ同義)。法内を一生懸命に生きると、歪な自分になります(大規模定住の開始は3,000年前、ということでそもそもホモサピエンスの感情の能力は社会だけを生きるようにはできていない、というのが宮台氏の持論)。例えば小中高大と超エリート街道で、外資金融入って海外駐在してその世界でだけ疑いなく一生懸命だけな人は、実は性愛や人間関係に問題がある場合も少なくない。例えばその法内の人生に何の疑いもなく生きれていればそれはそれでよいのかもしれないけれど、そうでない場合は大問題(何の疑いもなく生きていることについては別の問題がある可能性もある)。「法外」つまり、性愛(恋愛)であり、まつりであり、芸術でありを追求する必要がある。

 ここからは個人的な意見だけれど、(法内に苦しんでいる)良い子ちゃん女子にとって最も近い法外の追求方法は、芸術だと思う。楽器を弾くのでも、歌を歌うのでも、陶器を作るのでも、ダンスをするのでも。カラオケのような「ただの発散」に終わらない、自分なりの美学を追求するもの。それが「翔べる」感覚、「エク・スタシス」をもたらすからです。カラオケとかみんなで適当にクラブにいくというより、自分なりの美学を追求して、作り上げるもの。個人的には(ハードルが高いと思うけれど)コンテンポラリーダンス(インプロでももよい)と、絵を描くことと、あとは芸術ではないけれどランニングがよいと思っています。楽器演奏もそうだけれど、これは自由に弾ける能力がないとなかなかとべないので、すぐには難しい気もします。あとは翔べるような恋愛なんですかね。

 芸術活動に触れたり、ランニングすれば、良い子ちゃん女子の苦しみがすぐに解決するとか、女性の社会活躍が進むとか、そういう話ではないのですが、少なくとも法内だけで生きなければならない、という感覚から、法内に適応するフリをすればよい、という感覚にシフトすることができるのではないかな、と思います。

 あと、サラリーマンに変わる言葉を作るべきだと思います。

 日本人女性がくだらない(≒差別的な)法内の仕組みにとらわれすぎて、今を生きづらいのであれば、自分自身も含めて少しでも今に向き合えるように、引き続きインプットとアウトプットを増やしていこうと思います。