何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

ベーシックインカムの可能性、お金がないから不幸なのではなく、お金にとらわれるから不幸なのである

最近立て続けに大変良いTED presentationを観ました。そして、ベーシックインカムの可能性に心をとらわれています。

ベーシックインカムとは、「国民の最低限度の生活を保障するため、国民一人一人に現金を給付する」という政策のコンセプトなのですが、仕事で最近教育や福祉のことを考えることが多いため、このモデルの可能性を感じているところです。ソーシャル・インパクト・ボンドだけでなく、常に新しく、革新的なことを考え、少しでも実践につなげたいと考えています。

ベーシックインカムの導入をすれば、いわゆる安全や安心の欲求が満たされない状態の経済的貧困にある人々が変わるだけでなく、安全や安心の欲求が満たされている人にとってもお金の概念を考え直す特効薬になるのではないかと考えているのです。

お金がないから不幸なのではない、必要以上にお金にとらわれるから不幸なのです。

f:id:chikata0329:20170709121842j:plain

生産性が落ちるのでは、などの批判も多いベーシックインカムですが、AI等の劇的な発展により、そもそも働く必要があるのか?人間はなぜ生きているのか?といったもっと高い視座で議論をする必要があると考えています。そして私は、ベーシックインカムが全ての人が芸術家になることを可能とする一つの手段でもあるとも考えています。

さて、本論に入る前に、まずTEDを3本共有しておきます。とてもわかりやすく、面白いので観ることをお勧めします。

①Michael Green: What the Social Progress Index can reveal about your country
日本語版を貼っておきます

www.ted.com

②Michael Green: How We Can Make the World a Better Place by 2030
日本語版を貼っておきます。1本目と同じ人の。Social Progress Indexというシンプルな指標とSDGs達成の関係性を数値で表しています。数値に基づいての説明がとても興味深いです

www.ted.com
③Rutger Bregman: Poverty isn't a lack of character; it's a lack
3本目は英語版しかないので、こちらを。ベーシックインカムについてその意義をわかりやすく伝えています。彼は“UTOPIA for realists”というベーシックインカムに関する本を書いていてオランダではブームになっていたようです

www.ted.com

 

これらのMovieを観てまず考えることは、お金がお金が・・・って、「お金」という言葉をきちんと整理して考える必要があるのだ、ということです。10円か1億円かといった大きさはともかくとして、「お金」の概念を少なくとも3段階に分けて考えるべきだと思います。

①衣食住といった安全の最低保証のために必要なお金

②教育、情報や医療福祉といったWell-beingのために必要なお金

③それ以外の余暇・贅沢・楽しみ、といったことを享受するのに必要なお金
※ここで3番目をGreen氏のフレームワークでいうところの目標、夢、とならないのは、お金だけに注目すると必ずしも目標や夢につながらないからです。

そして、社会的なWell-beingを満たすためには①、②のお金がまず最低限必要で、加えて人生を豊かに、人間の尊厳を保って生きるためには、③のお金ではなく、「自らの意志」が必要なのだ、と私は理解しました。つまり、お金はあればあった方がそれは選択肢が広がるとは思うのですが、安全・健康な生活が保証される金銭があれば、その後人々が豊かかどうかを決定するのは金銭ではなく、「真の意志」なのだと思うのです。

お金、と意志、とについてブレークダウンして考えてみたいと思います。

まず、お金について考えます。
現在多くの人が考えている「お金」とは、①、②、をすっとばして、③、のことが多いのではないでしょうか?特に①、②をたまたま生まれた家庭のおかげで潤沢に享受してきている人たちは何も考えることなく、③のことばかり考えているように思います。事実、私もそういう側面をもっていた時期もありました。つまり、お金が稼げれば稼げるほど楽しいぜー、ぐへへー、みたいな感覚ですね。Simon Kuznetzが1930年ころに提唱した後、GDPという概念が人々にとっての「簡便な目標」として、この80年間の世界を牛耳ってきたのです。

その前にまず考えるべきは、①、②が保障されていない人がいる、ということです。昨今話題になっている子どもの貧困問題、ホームレスの問題や、日本だけでなく先進国でもオバマケアを筆頭に社会保障制度が議論の中心となることはまだまだあります。①、②が担保されていない場合、人々は目の前のことに必死になります。教育プログラムに参加して、「勉強って面白い、よし、勉強がんばって、ちゃんと良い高校にいくぞ」という風に思っても、明日のごはんが食べられるかがわからない、親は学費を出してくれないかもしれない、病気になっても病院に行くのを我慢しなければならない、となると、勉強が頑張るどころかまずはお金を稼がなければ、とか、勉強よりもまずはお金が大事だ、という思考回路になるでしょう。これはGreen氏が述べるように、(変曲点を迎えるブラジルの手前のカーブの)GDPの成長は一定数社会性の進歩に貢献する、ということです。これはまたBregman氏も言っていますが、努力、根性論の話なのではありません。貧困であるのが「彼らのせい」というのは、社会の中で生きる人間が持つ原理的な特性を無視した乱暴な意見です。ごく一部の人が努力で貧困を脱しますが、ほとんどの場合は生理的欲求、安全の欲求を満たさない限りは次のステップに行くのが困難なケースとなるでしょう。

ところで私はたまたま中産階級に生まれ、親に学費を出してもらって大学院までいった完全なすねかじりなのですが、、、実は自分の夢をいつもお金のせいにして諦めていたこともあります。①、②に困ることはなかったですが、「親が絶対にお金を出してくれないから」留学をあきらめる、ピアノを買うのをあきらめるなど、、、馬鹿みたいに見える欲望の塊ですが、自分にとっては満たされない思いでとにかく早く自立して稼げるようになりたい、といつも思っていました。(高校で禁止されているバイトを1週間だけやってみたり(すぐ親にばれて辞めさせられた)、大学院を途中でやめて就職しようとしてみたり(結局親に猛反対されて考えてやめた)、くだらないエピソードをたくさん持っています)。父親は特に厳しく、親の意思に反することをしようものなら、「家から出ていけ、生活は保障しない、学費はもちろん全て出さない」といった手段をとられたものです(別に恨んではいません)。思春期、青年期は「学費や生活費を全て親が出してくれているのだから、勉学にだけ励むのが当たり前、くだらない欲望は我慢」という禁欲主義的な考えが染みつきました。

そんな背景がありつつ、晴れて社会人になって企業できちんとお金を稼いでみると、初めて自分の意志を存分に発揮できるようになりました。初めて抑圧がない「自由意志」を発動した感覚です。海外旅行にいったり、ほしいものを買ったり、貯金したり、なんとも自立とはこういうことか、という晴れ晴れとした気分を味わったものです(つまり③のお金を自ら使用できるようになった)。そしてしばらくして初めて、さて「夢」とは「目標」とは「人生」とはなんだったのかを改めて考えるようになりました。小さいころからなぜ生きるのか、なぜ死んではいけないのかをずっと考えていたので、自然な流れだったのですが、ここで初めて書物の上の話ではなく、自分の人生として、自らの知覚として、「なぜ生きるのか」を猛烈に考え直し始めたのです。マズローの欲求5段階説でいうと、自己実現を求め始めたのですね。ここで初めて、③のお金の話ではなく、本当の自らの意志に対して向き合うことになったのです。

さて、ようやくここにきて「自らの意志」についてを整理したいと思います。
ここで一旦考えたいのは「マズロー欲求6段階説」です(マズローは晩年に「自己超越」の第6番目の欲求階層を追加しています)。必ずしも順番で欲求が満たされるわけではないとも言いますが、整理する必要があります。考えれば考えるほど、「こうした人間の基本的な欲求を、どのように満たすか」、「どこまでを人間の権利として保障するのか」ということが政策や税金の使い道をどうするのか、ということなのだとも思えてきます。

私の意見としては、生理的欲求及び安全・安心の欲求は、権利として保障されるべきであり、そのために税金が投入されるべきだと考えています。つまり、上の議論でいう言うところのまず①は政府によって保障されるべきだ、という考えです。衣食住が生まれた環境に関わらずに保障される。これは人間が生まれ持った基本的な人権と考えます(もちろんその程度は議論すべきで、そこが難しいのですが)。加えて、人は「考え、そして発信する」権利を有している、と私は考えます。これは欲求階層でいうところの、社会的欲求よりも高次の欲求に縦断的に関わるものです。考えて初めて人間であり、言語を有し複雑な社会を築き上げる中で生きるためには、思考能力を養い、それを発することが不可欠です。考えれば考えるほど、意見をぶつけあえばぶつけ合うほど、健全な人間、社会となり、より種の保存に有利と考えます(これは障害の有無に関わらず当然権利として保障されるべきです)。よって、この健全に「考える」を権利として保障するためには、医療福祉、教育や情報に関しても、税金投入がされるべきと考えます。「私は教育が受けられるからそれでいい、他の人には考える権利がなくてよいのだ」といった考え方は、初めから格差を助長する考えであり、「自分さえよければよい」という持続可能性の低い思想であると言えます。

さて、こうして上述の概念でいうところの①、②に税金投入がされるべきだ、という考えを述べました。これは、社会全体の意志として必要なのです。社会全体が、「①、②をすべての人の権利として保障するよ」という意思表示として、政策として執行することが重要だと考えます。一方で、近年そのサービスの質と税金投入額は必ずしも比例するものではないことにも留意が必要です。IT等の発展により、同等の投資でかなり効率のよい効果的なサービス提供が可能となってきています。あくまで、「社会全体の意志として」税金が投入されるべきだ、という考えです。

マズロー欲求階層に戻りましょう。①、②の後にくるのは承認欲求自己実現欲求です。思考能力や表現のために必要なこと(教育等)は保障されるべきですが、これはわかりやすく資金を投入し、サービスで保障できる話ではなくなってきます。「認められたい」「達成したい」という想いは、外的サポートで達成できるものではありません。ましてや経済的支援が直接的な要因とはなりえません。つまりここからが「お金にとらわれるべきでない」ポイントとなってくると考えます。そもそも個人に属するお金とは信頼の形でしかないのです。衣食住や、考える能力を養うためのツールを、そもそも「信頼」によって買う、という話はおかしなことです。はじめから保障されているべきでしょう。一方で承認欲求自己実現欲求は、「時間×能力(仕事)」をどのくらいかけて「何かを生み出したか」という結果満たされるものなのですが、概して「お金」がこの「信頼」を肩代わりしてくれます。よって、転じて人は「お金を持っていると認められる・自己実現できている」と誤認しがちです。行う仕事の内容はとにかく何でもよいから、たくさんお金が稼げればそれでよいのだ、という誤認です。また、ブランドの品物や車を持っていることでステータスを満たしたいという場合もありますが、これらは常に承認の基準が「外」にあるため、根本的には自分自身が満たされているわけではありません。本当に自分自身が満たされるためには、自分自身が「(お金以外の)何かを生み出した」という実感が必要なのです。お金はあくまで換算です。お金を多く勝ち取れば勝ち取る程、多様なことに挑戦できるのもまたお金の醍醐味ではありますが、それが目的になっては、いつまでたっても自己実現欲求、ましてや自己超越欲求を満たすことはできないでしょう。

ばらばらと書きましたが、一度ベーシックインカムの概念を持ち出して、再度整理しましょう。

ベーシックインカムが導入されれば、全ての人が①と②の保障がされると考えましょう。その場合、次に人間が出会う欲求は社会的承認や自己実現です。この時、今まで通り「時間×能力(仕事)=金」の方程式だけに則って、ひたすら仕事をし続けることも可能です。一方で、この考えは人間が生きる上で「必要以上にお金に執着して」いるとも言え、実質的に自己実現を永遠に満たせないドグマの中にいるとも言えます。ベーシックインカムがうまく活用されれば、衣食住や思考能力が脅かされない状況になった上で、金の概念及び必要性を整理して考えることができ、「金」を得ることに必要以上に執着する必要がなくなるでしょう。自己実現、そして自己超越の実現へとつながる可能性があります。私には社会全体の健全な発展が目に浮かびます。もちろん単純にベーシックインカムが導入されたからと言って、お金の呪縛から解き放たれると考えるのは乱暴だと思います。そのためにも、まずは小規模地域で実験的に、活用してみる必要性があるのです。やりたいと思っています。まだまだ思考も浅いのですが、心理学的な側面への影響と政策としての実行可能性を引き続き整理して考えていきたいです。

さらに、私の野望としてもう一つ、ベーシックインカムと合わせて導入すべきだと考える「Creativity への探求」というものがありますが、長くなったのでひとまずここで終わりにし、次の機会にきちんと書こうと思います。