何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

自分が何がしたいかやっぱりわからないからブログを始めました

 ちゃんとブログを始めることにしてみました。理由は、『シェイクスピアも現代に生きていたら、Twitterで発信しただろう』、という文章*を読んだから。つまり、うんうん哲学的なことを思っていても、芸術的なセンスがあっても、それを頭の中で考えているだけでは、存在しないも同然、と思ったからです。

 

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 私はブログを通して、「自分の感性に素直に生きる」および「淡々と日々一瞬を積み重ねる」ことの双方の大切さを、自分自身とその他多くの人生に悩み抜く人と共有したい、と思っています。それは自分もそうですけど「何がしたいか・どうすべきかわからない」とうんうん悩みながら、満員電車で苦しみながら、ただ流されて生きるのは不健全だと思っているからです。なぜそんなことを思うのか、ちょっとだけ自分の過去を説明します。

 1987年、中流階級の家庭に生まれ、小さいころからピアノと勉強を必死にし、近所の小学校では常に優等生でした。いじめにもつっけんどんに耐え抜き、受験戦争を勝ち抜いた末、中高は超ごりごりの進学校に。硬式テニス部とピアノを両立して心身を鍛え、途中部活のドロップアウトも経験しながらも、ピアノとガリ勉だけは根性で続けるタイプ。音楽の道に進みたい想いを抱えながらも周囲に言えないまま、受験ノイローゼで精神を壊し、約2か月の引きこもりを経験しました。結局深く考えないまま父と兄の影響を受けて、理系の大学に進学、大学院まで行き企業で研究職に就きました。そして社会のために働くやるせなさを感じ、いてもたってもいられず3年半で転職。巷のみんなが目指していた「とりあえずなるべき」経営コンサルタントになりました。大変優秀な先輩や同僚に恵まれ、楽しく仕事をし、成長する一方、「生きるとは何か」という命題の中でビジネスに着目し続けることへの不信感や、体調の限界もあり1年弱で退職。自分のビジネスでもゆるりとやってみようと、何も決めずにふらふらしました。ここで初めてお金がないままふらふらすることの怖さを知り(本当に怖かった)、知人のつてで、大学での研究員のポストに収まります。それが2015年の夏。そうして仕事を続けていく中で、個人事業主として様々なプロジェクトに携わるようになりました。テーマは社会的インパクト評価、社会的インパクト投資、それから教育系NPO等、いわゆる「社会をもっとよりよい方向に」という"意識高い系"。 

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こう書いてみると、なんとも流されて生きてきた感じがしますが、現在の仕事は本当に恵まれており、日々楽しく過ごしています。

 さてこのように、(個人事業主のような形で)自由に仕事をするようになって1年ちょっと経ちました。幸運にも日頃「これは私の天職!」「なんて素敵な仕事!」と思えるような局面に毎日出会う一方で、忙しすぎたり、自分が意味を見出しづらい仕事でいっぱいになったりすると、「違う!やっぱりずっとピアノ弾いていたい!」「やっぱりもっとデザイン系の勉強をしよう」とも思ったりします。そうしてそれは仕事にならないかもしれない、と同時にも思っている。このアップダウン、いつまで続けるんだろう、自分、といつもなんだかやるせない気持ちにもなっています。

 社会人になってからは、自分が本当にやりたいこと、できること、社会のためになること、が全部重なっているスイートスポットを仕事にしたい、と思い続けてきました。そうして転職をしたり、独立したりしてきたんだと思います。

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 一方で、29歳も後半に近づいて、最近思うことは、どこまでいっても何をやっていてもこのスイートスポットは、永遠にわからない・つかめない、ということではないのかと思っています。わかったり探したりするものではなく、選択するものなのかな、と。自分がやりたいことも、自分ができることも、社会のためになることも、刻一刻と変化し、「これだ」と決まることはない。逆に決めた後で自分を責めて動きづらくなるときの方が多い。心のアップダウンも自分の選択なのだと思います。一瞬一瞬の選択に対し、どれだけ自分の直観に従えるかということなのではないかと思います。

 あらゆる書籍を読んだり、芸術に感性でぶつかることで最近思うことは、「ただ直観に従って生きる」ことと、「日々目の前のことにただ向かう」ことの組み合わせの重要性ということです。一見背反する二つの事象ですが、相互に関与しあっており、これをただ実践し続ける理性・清潔さこそが人生を美しく生きる秘訣なのではないかと思っています。

 つまり、うんうん悩んで、わからない~う~ん、と嫌々満員電車に揺られるだけ(もしくは何も考えずにただ満員電車に乗るだけ)ではなく、直観ではこうだからこうなのだ!自分はこうする!と動きながらも、日々直面することにはう~ん、と悩んで過ごすことの重要性を書き溜めたいと思っています。

 自分自身も日々実践なので、日々を綴り、書き溜め、また自分自身で読み直すことにより、より粛々と積み重ねようと思っています。

 日本で実直に生き続けることは息苦しい局面も多いと感じます。自分しか読まない小さなノートに書き溜めるべきことかもしれないのですが、「自分が何がしたいか・どうすべきかわからない」と思う全ての人と、あるいは、無感動に思考なく日々を過ごしている人々と、「自分がどうすべきかわからなくてもそれについて考え、表現する」および「いやでも結果何も変わらないから日々粛々と過ごそう」という想いを共有していければと思います。

 そんなわけで、日々ぼちぼち書き溜めていこうと思います。