何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

普通ということを考える

公益性、とか、社会的インパクト、社会に良いことを、ということを考え続けて、この4年間多様な仕事に関わってきて、色々思うことがある。もちろん、社会的なセーフティーネットからこぼれおちてしまったとき、支援する、行政の仕組みを見直す、などは、とても重要で、今後も私自身、仕事で関わっていきたい、と思っている。一方で、業務を通じて「よい」ということを定義し続ける中で思ったのは、やはり「よい」というのは、一定数のある方向からの、幻想にすぎないこともあるということである。ニュースで取り沙汰される激しい虐待のケースなどは、そもそも生命の安全・安心が侵されているから、多くの人にとって、「いけないこと」。助けることが「よい」という一定の価値観の一致があると思う。そういった感覚的な意味でも、Capbility approachで整理されていることや、世界人権宣言の中であるようなことの一定の価値観は、共有できるような気もする。一方で、「勉強ができた方が良い」「大学進学した方が良い」といったことは、価値観の押し付け、あるいは「言葉の中に含有されるすべての意味の無視」といったことにつながるのではないかというように思う。それは、一方通行の「よい」で、相互通行、あるいは全方位的な「よい」ではないのではないかと。わかりやすいのは、大学に行かなくても、幸せに過ごしている友だちがいるということ。進学校に行っても、自殺してしまった友だちもいるということ。束で捉えれえば、一定の確率で、大学に行った方が、「いい」学校に行った方が生涯賃金が増える、というのはあるけれど、必要なのは「大学に行けるという選択肢が取れる」「行きたいと思ったときに、本人がコントロールできないハードルがないこと」ことであって、大学に行くことではない。それから、以前英国でUberに乗った時の、運転手のパキスタン人の話で、なるほどなぁと思うことがあった。それは、「北朝鮮にあこがれる。金正日がいてうらやましい」という意見だ。彼は、アンチ米国、のような意見を終始述べていたけれど、要は核を持っている国と対等に話すために、小国でも核を持って「力」を見せることは、すばらしいことだ、という話をしていたのだ。小学生でよくあるような、「アイツが持っているけれど俺はもっていない」みたいな話が、国際的にもある、ということである。手段の話は置いておいて、彼らにとっての「よい」は、「米国と対等に話したい」ということなのであり、「核を持つな」という話は別に「よい」とかそういうことではない、むしろ自分たちの合理性を阻害する行為なのである。

そんなこんなを考える中で、いつも思うのは、この、「社会課題」とか問題、として捉えられない意味で、こぼれおちる何千何万という人の人生は、どういう形で息づいているかということである。社会課題は、言葉にされて初めて社会課題化される、という話もある。言葉にならない、素通りされる一人一人の生活に、意識を向けることが実は、社会課題解決と同等に、重要なのではないかとも思う。

普通、とは何か。人の人生や社会は深海と一緒で、全てを掬い取ることはできないと思う。ただ、そこには深海があるということ。それを知り、深海があるということへの実感を持とうとすること。それぞれの人生・時間の中で、自分がどこに関わっているのか知ろうとし、見ようとすること。そして全てを知ることができないということ、自覚すること。社会課題解決、という一言が実はものすごく危険な一面をもっているかもしれない。そういったことを自覚するためにも、普通ということは何かを、考えるのもとても重要なのではないかと、思う今日この頃である。