何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

考えなくなっている怖さ

AIが人を凌駕するのではないか、といった議論がよくある。将棋とかチェスでAIにプロが負けるとか、といった話もあった。その時に、(たしか)加藤一二三さんの「負けるかどうかは関係ない。将棋とは、さすことそのことに意味があるのです」といった言葉に、そのとおりだなと思うことがある。

AIが、今人がうんうん考えているようなことを代替してくれるようになって、より、効率がよくなる可能性はたしかにある。今でさえ十分便利なのに、もっともっと便利になる可能性は高い。人間よりも、AIの方が、処理能力が高いというのは事実かもしれない。でも、だからといって、人間が考えなくてよいのです、ということにはならない。人は、生き、そして考えている。考え、そして生きている。

政治的無関心に関する記事を今日偶然読んだが、日本は特にものごとを深く考えない人が、増えているような気がする。政治のことも、よくよく考えれば、それが自分の将来を決めることなのに、まるで関係ない、よくわからないこと、とさじを投げている人が多いように思う。もしくは、イメージ戦略におどらされて、何も考えずに投票している人も多いだろう。その記事は、政権に対して批判をしないメディアを批判する記事であったが、私は教育のシステムを批判したい。公教育の中では特に、子どもは考えないように育てられる傾向が強い。「社会」といった科目は、本来は社会のことを考えるように設計されるべきのはずなのに、詰込み、記憶をうながすような教育がされている。倫理や哲学の授業よりも、実学志向のものが偏重されているように思う。

人は、考える。みずからがどのように生き、死ぬか、それを考えて生きていくのだと思う。便利さや見せかけの幸福に甘んじて、考えなくなり、それが、自分以外の人や、自然に悪影響を及ぼしかねないということを、意識しなくてはならないと思う。たとえAIなどで便利になっても、考えなくてよいということではない。寧ろ、重要なことをより深く自分の頭で考える時間ができたということなのだと思う。一人一人が考えるということは、多様性を生み、多様性は、生命の美しさなのだと思う。私たちは今日も、考えなくてはならない。考える。考える。考える。