何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

なぜ今、芸術活動が最重要だと思うのか。それは人間の内面をまざまざと映し出す鏡であり、人が美しくあるために残された手段だから

 SNSなどで情報の個人による公開・集積化が進むことで、声がでかい人ほどでかくなれる、という経済学のピケティ理論が情報の世界でも見受けられる気がしている。一定程度のエビデンスをもっていさえすれば、「オレがすごいんだ」と言えば言うほど、見せれば見せるほど、えらいと思われる、すごくなれる、民主的にもすごくなれてしまう世界である(虚言はもちろんだめでしょうけど)。
 「蓋然性が高そうな」「因果関係がありそうな」情報を持っている者ほど強くなれる、「信頼性が高いといわれる人と」「世界的に有名な組織で」働いていることを公開する人ほど強くなれる、まさに「神は死んだ」世界の到来である。
 私自身、事業の効果検証の仕事に携わっている中で、いかに「確からしエビデンス」を持っているかが重要になる世界を作り上げることに加担していると思う(定性にせよ、定量にせよ)。そして、効率性や経済性のためにそうした動きが重要だと思いながらも(これは経済的貧困にあえぐ人を救うために絶対的に重要だと思っている)、やはり加速しすぎることは怖いと思っている。つまり、冒頭に述べた世界を支援してしまう可能性があるのである。そこで私が、自らの仕事を過度に誤った方向に導かないためにも、根本的に取り組んでいるのが、芸術活動の推進である。
 私が芸術活動を強く支援し自分自身も活動に勤しむのは、それが人間性の「心」とか「想い」を、そのまま、まざまざと映し出しているからである。技巧や技能を超越して、シックスセンス的な話になるが、誰かの芸術作品(動的でも静的でも)を見れば、「あ、この人はこう考えているのだな」とわかってしまう感覚である。作曲にせよ、演奏にせよ、絵画にせよ、伝わる。特にわかるのはダンスだ。その肉体表現から、その人がどの程度の虚栄心があり、どのくらいダンスを愛していて、なぜ生きているのかが、伝わってくる。裸以上のはだかである。「私はxx大学院卒のxxxピアニストです」とキラキラのドレスを着て演奏する方よりも、「50歳からピアノ初めて3年だけど、どうしてもベートーベンの月光が弾きたいのである」という鬼気迫るアマチュアの方の演奏の方が美しいと感じるのは、その精神性からだと思う。実際に私もいくつかピアノコンクールを経験しているが「楽曲のみに向かう真摯な気持ちで演奏したコンクール」と「私は賞も取ってるしできるのよ、技巧はこうできるのよすごいのよ、で演奏したコンクール」では、結果も観客からの反応も、全く違っていた。外的圧力が強くなく、ピュアに取り組んでいる子どもの作品が時として爆発的な威力をもって迫るのは、そもそも精神的に何も着ていないことが多いからだと思う。彼らはそもそもピュアで、柔らく美しい心を持った「人」なのである。大人は、社会の中で多くの虚栄や関係性を纏う中で、芸術と対峙する時に、普段いかにそれを脱いで生きているかを問われるのだと思う。優しさであり、美しさであり、何のために生きているのかを、深く問われる。
 どんなにSNSできらきらしようが、インスタ映えしようが、たくさんのステータスや賞を持っていようが、芸術創造では誰もがはだかである。ただの一つのはだかの生命体である。もし、全ての人が一堂にインプロヴィゼーションを行う場があったとして、そこはおそらく虚栄心の具現化がはびこるSNSの世界とは、ほぼ反比例するような世界になる気がしている(もちろん美しいSNSの使い方もある)。コンタクトインプロをやればもっとわかりやすいかもしれない。どんな相手かにもよらず、どれだけ互いを信頼できるか。ジャズのセッションもそうかもしれない。どんな相手かにもよらず、どれだけ相手と美しさを、歓喜を、作り上げられるか。
 経済成長を目指し、経済的貧困に苦しむ人を救うのは、喫緊の課題である。極度の経済的貧困は根本から人の希望を奪うからである。一方で、経済成長があるからといって人の心は美しく育つとは限らない。寧ろ、行き過ぎると多くの虚栄やエゴを重ね着し、希望のない誰かを深く傷つける刃となる可能性がある。私は現状、経済的に潤っている、社会的地位が高い人ほど、大きな刃を振りかざしている場合が多いように感じる(もちろんそうでない人もいる)。だから私は、誰もがはだかで平等になる、芸術活動が重要だと思っている。技巧や技能を超えた美しさは、心の美しさだ。バレンボイムは言っている。「その瞬間、その一音を鳴らす瞬間、いかにその音だけに集中できるか、いかにそのことだけに集中できるか、そこに音楽の美しさが宿っている」と。今日買い物を頼まれてたな、とか、誰かに評価されたい、とか、そういうことをいかに全て忘れ去れるか。(信頼性があるにせよないにせよ)大量に生産される「情報」という目に見える・理性でわかるものを過信することは、格差を助長し続けると思う。だから、人をはだかにする芸術活動こそ、人が人らしく生きていくために毎日感じなければいけない「内面をまざまざと映し出す鏡」だと、私は思う。