何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

カオナシ度~手放して、スリム化して、自分を知る~

今年はとにかく色々手放す、と思っています。年始めには素直に素直に、と書いたのですが、それはつまり色々不要なものとか、自分が惰性で物理的にも精神的にも持ち続けているものを色々手放していく、ということとも同義だと考えています。そして、自分の不要なものを物理的にも精神的にもため込んじゃうことを、私は「カオナシ」で判断しています。

カオナシってあの、かのジブリの「千と千尋の神隠し」のカオナシなんですけど、カオナシ度=不要なものの溜め込み度、という感じで使っています。つまり、本当は必要ないはずなのに、あれも欲しい、これも欲しいでどんどん太っちゃって、ていう状態です。自分の本当に関心のあることと違うことをどんどん器用にやったり、頑張り続けたりして、太り続けちゃうこともカオナシ度が高い状態と思っています。本編の意図することとはちがうかもしれないのですが。私は社会人になってから、カオナシの波を繰り返して生きていると思っています(下記の図のイメージ)。色々無暗に頑張って、太りすぎてから、もうこれ違う!これをやりたい!と言ってスリム化して、また色々やり始めたら楽しくなって、もっともっとと思って太りすぎて、またおや違うぞ、となってスリム化する。そして繰り返すにしたがって、太る限界がか小さくなってきている気がします。今はどちらかというと、「あ、、あ、、、」のカオナシに近くなっている(と思いたい)。

f:id:chikata0329:20180121154730p:plain

何で太ったりスリム化したりの転換点が来るのか、というと、(カオナシとして)太りすぎると、体調が悪くなったり、趣味や創造活動へのあこがれが強くなるからだと感じています。そしてスリム化しようと思う。それから、スリム化してもまた太ってしまうのは、「社会の中できちんと生きたい」という欲がどんどん出てきてしまうからではないかと思っています。実はこの「食べ過ぎカオナシ⇒スリムカオナシ」への転換点を、自分で気づいてきちんとコントロールすることがすごく難しいと思っています。ついつい太っちゃう、そして誰にも止められない状態になってしまう。自分じゃない自分になってしまう。

よく断捨離、という言葉が聞かれます。断捨離って簡単に言うようですごく難しくて、できない。要は太ったカオナシのままでいてしまうことの方が多いと思います。これってなぜかっていうと・・・

リスクを取りたくない、という精神構造があるからだと思います。「この本いらないなー、一年も読んでないし。。。でも、もしかしたらまた誰かに貸すかもしれない」とか、「この洋服もう全然来てないから売っちゃおうかな、でも、また〇〇の機会に着るかもしれないし」とか。いつか必要になるかも、とか、お金を稼ぎたいから、とか。いろんな理由をつけて手放せないことが多いです。こうした誘惑というか、幻想をずばっときれないから、難しいんだと思います。

昨日父親と日本のリニアモーターカーの開発の話をしていた時にも、もったいないから、もうこれだけ開発費かけちゃったから、という理由でずるずると開発している感が否めないよね、、、という話をしていました。カオナシがどんどん食べていっている絵が浮かびます。日本人って何かもったいない、人とのつながりを特に大事にしたい、という良い面もあると思うのですが、時間やお金をかけたことへの無駄な執着も多い気がしています。(守り抜いてきた伝統などは守り抜くべきだと思いますが)

私はこうして整理することで、自分にとって自然体である道を選ぶ。本当はこうした方がいいんじゃないか、でも、、、ということを手放す。カオナシみたいに全部吐いちゃう。これは頑張らない、というのではなくて、頑張りすぎない、ということ。また、強欲ではなく、謙虚、ということにも近い気がします。

今年は昨年末にミヒャエル・エンデの「モモと時間泥棒」を読んだこともあり、時間を自由に扱う、というのも一つのミッションになっています。時間の精神的な空きを作りたい。これもやりたい、あれもやりたい、これもやらなきゃ、ではなくて、本能に従って手放す。それから、自分の反省でもある惰性的になんとなく見ているFacebookとか、そういう時間を手放す。ゼロベースで考える時間を作る。仕事もあるし、お金も稼がなきゃとか思うけれど、自分の本能の赴くこと(パッション)、大切にしたいこと(美学)に、時間を使う。没頭する。逆に言うと、まだまだ没頭できていない、大切にできていないということでもありますが。。。 どんどん関係のないことを手放しながら、自分のコアを耕し続けて、愛して、私はこうしたいからこう生きるのである。と言える生き方をする。何かにつながるかどうかはさておき、強欲のはしごの足を、自分で外し続ける。

裸一貫で生きていく、というわけではないけれど、できるだけシンプルに美しく生きていきたいなと思うのです。スリムなカオナシになって、自分の居場所を自分で認識していきたいです。