何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

フェイクが嫌い、生命体として美しくなく、持続可能でないから

 衝動的にフェイクが嫌い、という文章を書きたくなりました。嫌よ嫌よも好きの内、ということで自分の中にあるフェイクを許せることができない、という話なのかもしれないのですが、私はフェイクが苦手です。フェイクファーとか、そういうことよりも、フェイクな生き方が苦手です。

 ぎゃっと思ったのは、カフェでいかにも“フェイク”な人生を送ってる人が隣にいたからです。“フェイク”とは、考えてみると面白い言葉で、要は自己ではなく他己に起点があって「本当は違うけど、相手にそう思わせること」というものだと思います。カフェのその人は友人の子どもにネコナデ声で話し、周囲の迷惑をあまり顧みず自分が好きなように他の座席の椅子を持っていく。身なりは良いのですが、私の研ぎ澄まされた(笑)第六感的には、自分が外からどう見られるか、に焦点がある女性。フェイク的「ごめんね」「ありがとう」が特に耳障りで、カフェでの仕事が進まなくなってしまいました笑。

 個人攻撃はあまり意味がないことなので、なぜこんなに嫌悪感を抱くんだろう、を整理してみました。
①子どもにネコナデ声で必要以上に甘やかして話すのが好きではないから。「子どもはこういう話し方が好き」という他者起点だけれど、相手の気持ちを考えずに話していることがいや。(子どもの人権侵害だと私は勝手に認識している。)
②自分がどう考えるかよりも自分がどう思われるかに焦点がある人は自分の良さを十分に発揮できていないと思っているから。①と同じだけれど、立ち居振る舞いが他者起点で規定されていて、自分がどうしたいの、が特にない、フェイク。
①は、子どもが「ネコナデ声が好き」という勝手な解釈の元、普段は出さないような声を出して好かれようとする、ということ。ぶっちゃけていうと、おとぎ話に出てくる魔女や人食い妖怪のようで怖い。私は経験上、子どもはフェイクを見抜ける力があると思っています。②は、友人関係や仕事上などで、認められたい、というのは誰しもあると思うのですが、それを優先して自分のコアを捻じ曲げている、捻じ曲げた上でそれがスタンダードになってしまっている状態です。私はこれは長続きしないと思っています(健康寿命も長いのでは笑)。少なくとも最大のパフォーマンスが出せない。面白いことは面白いし、意味がある(と思う)ことは意味があるし、つまらないものはつまらない、とはっきりできる人が一緒にいてすがすがしいし、生命体として呼吸しやすいです。ただ、これが社会の中で一生懸命生きようとすればするほどねじれるのは当たり前で、それが過剰になると、常に外側に起点があって“フェイク”になってしまう。フェイクの人は、なんか本当は別のこと思ってるだろうな、とわかってしまう。ちなみに、フェイク人にがんばって切り込みますが、コアにたどり着くのはなかなか難しいことが多いです。

 私は素直に奔放にやりたい方で、素直さが受け入れられない場所には行けなくなってしまうタチです(引きこもり体質)。合理的な理由がないのに「xxしなければならない」という環境が苦しいのです。でも社会人になると(学校も結構そうですが)、周囲に合わせなきゃいけなくて、まずフェイクになる必要があるのが日本の社会、会社だと思います。でもこれを、何とか、自分のコアに近づけていく。何も考えずに相手が望むと思うものに合わせるのではなく、私はこう、相手はこう、でも互いの思考をメタ認知しながらたたいて、とやっていける関係性だととても良いなと思っています。

 カフェの彼女みたいに、フェイクで「そうなんだ~、すご~い(オメメぱちぱち)」とやってしまうのは、(日本の)社会の中でうまく生きようとすればするほど、直接的なコミュニケーションをせずに(自分はこう(あなたのことはあなたのこと)、ということを互いに言わずに)勝手に解釈して、自分が本来そう思わないのに同調する、ということが苦しい局面があるからなんじゃないか、と思います。無言で慮る、という美しい世界が、無言で勝手に自分が好かれるためにフェイクする、という虚像の世界になっている気がします。それはそれでいいんじゃないの、という考えもあるんですが、生命体として長続きしないと思っています(さらに言えばフェイクは死んだ後にははかなく消えると思います)。私たち日本人は、強い共産体制や独裁政権下にいて自らの意志を発揮できない国家にいるわけではないし、自分自身の考えは自分で決められる。たんぽぽはひまわりではないけれど、たんぽぽのままで美しいし、ひまわりはライオンではないけれど、ひまわりのままで美しい。それが好きな人もいれば、嫌いな人もいる。でも互いに尊重されるべき存在。

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 持続可能な社会を、という標語が国連を筆頭に最近巷でちらほら聞かれるようになりました。国連のSustainable Development Goals(持続可能な開発目標:SDGs)については色々考えていることがあるのでまた別途文章を書こうと思うのですが、SDGsとは違う軸で、一つ一つの生命体が自然であるがままであることは持続可能な社会にとってとても大切なことだと思っています。それは生き方についても同じで、有機体として健全で、美しく、そして持続可能であるために、フェイクではないとは何か、まず考えることから始めるのが大切だと思っています。