何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

時空を超えること、愛するということ

 いつだったか、アインシュタイン相対性理論が「時空を超えること、それは愛ということ」を言っているのである、という記事を読みました。アインシュタインがそう言ったかの真偽は定かではないのですが、私の実体験から考えるとそれは本当で、そこに誰かの愛があること(あるいは情熱があること)は、実体がなくても、自分の心の中に永く生き続けています。近頃、この言葉を通して自身の生き方への気づきがあるので、それについて書こうと思います。

 愛は時空を超えるということ。例えば、小学校低学年時のユン先生との体験は、いくつも心に残っています。「身体に受けた傷はいつか癒えるけれど、心の傷はいつまでも癒えない」という言葉。彼女が愛を持っていじめっ子を怒ったときの顔、教室の雰囲気。それは彼女が熱意のあるかっこいい先生だったから、というよりも、彼女が深い愛を持って生きることを説いてくれたからなのだと思います。子どもへの愛を超えて、彼女の経験に基づいた人間そのものに対する愛があったからなのだと思います。また、私の母親は深い愛情を淀みなく注いでくれる人ですが、この感覚は、母の存在を超えて私の中で「いきて」いますし、私の子孫を通じて、周囲の人を通じて時空を超えていくと感じています。一方で、すごく優秀な(といわれる)先生や有名な人にお世話になることもありましたが、だからといって心に残り続けているものが多いわけではありません。

 最近は、自分の仕事についても同じように理解できるようになりました。理論的に説明すること、芸術活動をすること。今まではよくそれらを二元論で捉えて、つまり、「理論や仕組みを作ること」と「感情を動かすこと」はまったく違うもので、本質的には仕組みを作るよりも、感情を動かすことが大切なのである、と形式的に理解して選択しようとしていました。しかし、「仕組みづくり」や「感情を動かすこと」は、言葉として全く別のことを指しているようなのですが、それ自体は単純に形式的で差がないことなのだと思うようになりました。つまり、理論づくりにせよ子どもと踊ることにせよ、それは表層的な話であり、その取組において愛があるかどうかが重要なのだと思っているわけです。仕組みで人を変えることはできない、と言う人もいますが、それは少し乱暴で、どちらかというと、愛のない箱だけの行為では人を変えることはできない、ということなのだと思います。利己的な意図から生まれたものでは、人を変えることはできない。しかしそれがもし自己を超越した情熱や愛に基づくものであれば、何にせよ、それは時空を超えて残り続ける、人を変えることができるということなのだと思います。

 加えて、ここでいう「愛のある」というのは、必ずしも誰かのためにということではなく、自己を超越した感覚、生命や存在というものに対する深い敬愛、そういったものだと思います。ベートーベンの曲、アインシュタインの理論、ゴッホの絵、全ては実体のある存在を超越した深い敬愛に基づいて、時空を超えて残っているのだと思います。逆に言えば、褒められたい、認められたいといった自己へ向かう意識に基づいた行為の「いのち」ははかなく短いものだと思います。現に、そうした人の言葉、仕事や作品を見聞きしても、(どんなに「すごい」といわれることであっても、自分の中では一定期間残ったとしても、)はかなく息絶えています。

 自分自身、ふとした瞬間に「かっこよくみられたい」「自分は優れていると思われたい・思わせたい」という意識があります。「愛は時空を超える」という言葉を通して、なんと浅はかなのだろうと思うようになりました。自分が優秀だ、と思われたとして、それはおそらく数日、数か月のいのちです。でも自分が大いなる存在への愛を持って仕事を行えば、そのアウトプットが一見すごく小さいものだったとしても、一緒に仕事をした人の中に永く生き続けるのだと思います。私はそう生きたい、と思います。でかいことをしたい、誰かに影響を与えたい、認められたい、偉くなりたい、受賞したい、そういう表層的なことを目指してしまうのですが、表層的なことを意図して「すごく」なったところで、そんな「自分」は数年のいのちだと思います。対峙する相手の心の中に温かく生き続ける生き方をする。深い愛をもって、存在が時空を超える。生まれてきた意味とは、生きるとは、今の自分にとってはそういうことだと思っています。