何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

自分を批判する。相手が鉄壁に見えても、他人への批判をきちんと伝える。

(毎週ブログ書く書く、と言い続けるのをやめることにしました。ただ、ブログは書き続けるので、ひと月に1~5本くらいは書くようにしたいな、と思います。。。)

ここ2週間で自分のAttitude(態度というか姿勢というか)に対する反省をしていました。

何かというと、「とことんジャッジし、相手が鉄壁に見えると批判せずに逃げてしまう」という姿勢です。最近創造性や芸術に対する理念を結晶化しようとすればするほど、シックスセンス(直観)で人のことを見て、「あ、この人すごく感性が開いている!」「あ、この人は開いてない・・・」など、そんな目で人をジャッジしていることがすごく多いのです。それは自己という視点を通している限り仕方のないことだ、とも思っているのですが、問題は相手のことを心の中でだけ批判(というか非難)して伝えずに、自分が傷ついていることです。元々の性格もあるのですが、この人おもろい、つまらん、と分けて面白いと思った人としか付き合わないようにしようとしているのですよね。

それを省みていました。それでいいやん、と思ってきたのですが。。。よくない。

これをしていると自分のVision(全ての人が創造性を思い出して自分自身のエネルギーの源に立ち返ること)に対して矛盾しているはもちろんのこと、誰にとってもよくないのです。つまらん、と心の中でむっつり非難するのではなく、私がやるべきことは「自分の価値観からみた批判をきちんと伝えて、その人の創造性を引き出すようにする」ことなのだと思います。人をつまらんと切り捨て続けていることがイコール自分自身(の持つ信念)を切り捨て続けていることと同等であり、とても疲れていました。

自分が最近特に辟易してきた相手は、「いい(正しい)ことやっている」を信じて疑わない人です。彼(女)らはその「自分は(自分が正しくないことも知っているからこそ)正しい」という信念の元、自らを批判しない(ようにみえる)ので、一緒にいるとそのエネルギーにとても疲れてしまうのです。つまり本当は違うよね、ということを伝えることができないような鉄壁のオーラを感じるんです。要は全然柔軟じゃないように見える(と私はジャッジしてしまう)。その人たちが柔軟じゃないと思うからこそ、そういう人たちに直接の批判を言うことが難しく、創造性を引き出すことが難しいと思っています。結果的に逃げてきていました。

創造性がないことを嘆いて、勝手に非難して、逃げていればそれは消極的な破壊です。

素直だろうが、鉄壁だろうが、そうじゃなかろうが、全ての人の創造性を信じて見つけ出そうとする、そういうAttitudeでこれからはいきたいなと思いました。苦手な人でも、鉄壁でも、出会ったからにはそういう姿勢で生きたいと思うのです。それは自分自身を健全に保つことでもあり、自分の信念を大切にすることでもあり、私が描いているVisionに向かうために重要なことです。

さらに、こうして書いてみると、創造性があることはVisionaryであることである、と以前書きましたが、そうでもないなと思いました(Visionaryでも超鉄壁な人がいるからです)。例えば子どもがみんな幸せに育ってほしい、とか、みんなが創造性にあふれた世界、みたいなVisionがあることはとても大事だと思います。でもこれは必ずしも創造性とリンクしない。創造性は、このVisionに向かう時に、よりFlexibleに、かつ、より多くの選択肢を作れる、ということなのだと思います。そして批判や他の意見にもオープンであれることでもあると思います。また加えて、さらに複雑系の中で進んでいく中で、Visionさえも見直す、ということをより可能にする力なのだと思います。

とにかく、私は相手に対して心の中で勝手にジャッジして、批判をあきらめる、というようなことはもうやらないぞ。

相手が偉い(ようにみえる、もしくはそうみせている)人でも、自分の信念に従って、伝える。それが危険な道を選ぶということなのです。

実行するのは難しいです。でも、そう生きる。そして自分も批判していく。