何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

もう逃げるのはやめにする。自分の考えを持つ、創造する、表現する、発信する、という覚悟

題目の通り、自分の考えを持つ、創造する、表現する、発信する覚悟を持ち始めている今日この頃です。
(他者への意図的な攻撃、批判や否定ではなく、自分の心から湧き出る考えや思いを表現したり創造したりする、という意味です。)

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特にここで言いたいのは、自分が生まれてきた意味や自分が心から突き動かされることについて考え続け、創造し続け、表現し続け、発信し続けることが大事だということです。決まった答えやこれだというものがなくても、現時点での想いを素直に表現することを勧めたい。全ての人に勧めたいですけれど、何よりも自分の大切な友人に対して伝えたいと思っています。

まず言葉の定義から。
・自分の考えを持つ⇒思考すること(頭の中で主体性をもって考える。あらゆる経験や知識を活かして考えること)
・創造する⇒思考の有無に関わらず新しいものを作ること。衝動的な創造欲に基づく創造も含む(詩、絵やダンスや音楽など、非言語)
・表現する⇒言語等の媒体を通して思考を整理、形式化、具現化すること(言葉、文章、詩、絵やダンスや音楽など、非言語も含む)
・発信する⇒表現をより広い人に向けて周知する(パフォーマンスを行う、表現の頻度・範囲が広い状態)
※最近ではSNS等により表現と発信が同一になっていることもあります

なぜ、考え・創造し、表現し、発信する、ということが重要なのか。それには3つの理由があります。
①自分の考え=世界がより深まるから(より深く考えようとするから)
②創造や表現に触れた相手の世界も広がるから
③人と人とがつながるから、共鳴できる相手に会う確率が上がるから

一方で考えないこと、創造しないこと、表現しないこと、発信しないことには下記のような損失があると考えられます。
①考えないことによる損失:流されて生きることになる⇒全て受け入れらればよいが総じて不満を持つ確率が上がる
②創造しないことによる損失:創造がどんどん遠いものになり、不健全になる
③表現しないことによる損失:自らの殻に閉じこもったままの未熟な思想で留まってしまう。周囲の人とのコミュニケーションにつながらない
④発信しないことによる損失:単純に共鳴し合う仲間に会える機会損失となる

「自分の考えを持つ」ことには「何かについて自分の頭の中で色んなことを反芻して組み替えて、ぐちゃぐちゃだけど、ぐちゃぐちゃなままでも考えつくす」ということに大きな価値があると思います。私がこうして書いている考えは、元をたどれば様々な本や人との出会い、経験から紡ぎ出されています。でも私がぐちゃぐちゃ考えていることが大切だと思っています。自らのみが経験できるものを基に思考し、整理することにこそ意味があると思うのです。「A」ということについて誰かが自発的に考えたときに、もうそれはアインシュタインが考えたことだから意味ないよとか、リンカーンが言ったことだから意味ないよとか、そういうことではなくて、その人がその人の文脈の中で「A」と考えたことに大きな価値があるのです。全ての人が、その人だけしか持ちえない知識や経験を通して、その人にしか考えられない思考回路、表現手法を持っています。誰もが違って当然です。一見何かと同じ、既に誰かがやったと見えることでも、自分の頭の中で反芻して組み替えて、ぐちゃぐちゃな状態で常に考え続けることが重要だと考えます。

そしてさらに、そのぐちゃぐちゃなものを表現することが大事なのだと思います。尊敬するコンテンポラリーダンサーの勅使河原三郎氏はよく「作品はお客さんあって初めて完成されます」と言いますが、それと同じことだと思います。これは思考の有無によらない創造についても同じことが言えます。
新しいものを創造するのは怖い。自分の想いを表現するのは怖い。批判に晒されることもあるし、カッコ悪いという意味不明なイメージもある。「自己顕示欲の塊みたぁい」とか、創造、表現、発信していることを冷めた目で見る慣習。文章の場合には自分の論理が破綻している可能性に対する恐れもあります。表現しない理由を挙げればキリがありません。でも、表現しない意味は特別な状況を除いてそんなにありません。一方で表現することの意味を私は生きていることと同義だと考えています。自分の考えを持ち、それを表現することは、何より深く自分自身で考え、自分なりの世界の捉え方があるということです。そしてそれは特別なことではなくて、誰でもができるし、誰でもが日々実践するべきことだと思います。子どもにだって、それはできます。寧ろ、社会的な枠組みにはまりきっていない子どもの言葉こそ、私たち大人に大きな影響を与えてくれると思います。また、そもそも創造することについては、人間の基本的欲求なんじゃないかな、と私は思っています。自己実現等は関係なく、子どもの頃からなんでもたくさん新しいもの作ってみたい、という欲求は誰にでもあるものだと。ところがこれが社会的枠組みの中でどんどんあれしちゃいけない、これしちゃいけない、という形で抑制されてしまうものなのだと思います。そしてついに忘れてしまうのではないかなと。思考に基づいているかどうかはさておき、創造こそ、その人にしかできないことです。というよりも、その人にしかできないから、創造なのです。最後の方でも述べますが、社会の枠組みの中でどう生きるか知った大人だからこそ、創造する価値があるのだと考えています。

そしてさらに広く発信すれば、思いもしない運命の出会いがあるかもしれません。批判や否定により多く出会うかもしれない。でも、発信しなければ何も生まれません。私は同調よりも、建設的な批判によって得られる価値の方が寧ろ高いと感じます。まさに自分の考えが深まり、物事はどんどん進むのです。世界は変わらないのかもしれませんが、自分が捉える世界は劇的に変わります。

岡本太郎氏はわかりやすく、こう言います。「危険な道を選べ」と。自分が「危険だ、やっぱりやめよう」という道は『自分が本来求めているが社会の枠組みと違う(=自分にしか考えられない)道』だとも言っています。だからこそ選ぶ意義があると。社会に対して挑戦しながら、創造する、自分の想いを表現していく。

「危険、怖い」と思うのは、その先に社会的な死を想起させるものが垣間見えるからです。批判を受け、否定され、評価されず、嫌われる、『かもしれない』という社会的な死に対する想起。そして自分の真の想いにフタをし続けて生きていく人が多すぎます。

もう逃げるのはやめにする。真の想いにフタをすることは、自らエントロピーを下げることです。不自然であり不健康です。みんなそれぞれが多かれ少なかれ自分ならではの考えを持っているのに、それを育てず表現せずに、日々流され諦めて生きるのは、もったいなさすぎるのです。

でも、嫌いな仕事をさぁやめようとか、嫌いな人とは付き合うのをやめようとか、そういうことではない、とも思っています。私には仕事に悩める多くの友人がいますが、いろんな状況があってやめられない、けど自分の真の気持ちとは違う、という彼女たちの気持ちがとてもよくわかります。私自身も5年間に渡りうんうん悩みながら転職を繰り返しました。社会の枠組みの中で苦しみ考え続けて、本当にやめたい人はやめるし、闘う人は闘う。決断というのは常に結果であり、大切なのは考え、創造し、表現し続けているプロセスの方です。

つまり私が勧めたいのは、まずちょっとした思考・創造・表現を続けるということです。ブログ、TwitterFacebook、絵、音楽、ダンス、詩、あるいは仕事で本当に思っていることを同僚や上司にぶつけてみる勇気を持つだけでも良いと思います。パートナーに、本当はいつもこう思っているよ、と素直に言ってみる。誰かに認められたいとか、好かれたいとか、他者に起点のある想いではなく、自らのために、自らの心から湧き上がる声を表現する。ほんの少しでよいから、自分の心の声に従って危険な道を選んでみる、ほんのちょっとだけ、はしごの足を踏み外してみる。その積み重ねで、いつかもっと自分の想いに素直になれるのだと思います。私も自分自身がまだまだもっと素直になれると信じています。社会という大きな力を知らないで自由に創造・表現する子どもでなく、社会の中でどう生きるかを身に着けた大人だからこそ、そのあとで創造する、危険な道を選ぶことに大きな意味があるのです。

既に作られてきた社会の枠組みを当然と思い、それに迎合するのはやめる。世界は理想郷ではない。今自分がこの世界にいるということは、世界に対して影響を与えているということです。とにかく思考し、表現する。一部の天才と自分を分ける意味はありません。誰もがその人にしかできない思考、創造、表現ができるのです。

冒頭に述べたように、最近、一部の友人たちが無暗に自分の感情を抑えつけて苦しんでいることや、社会の枠組みに従ってのみ思考し、予定調和的に同じことばかり言うことが、私にとって不可解であり、疑問、いらいら、もやもや、課題となっています。このようなAttitudeが日本社会の中でがん細胞のように増殖しているように見えてなりません。何が善いのか悪いのかということは判断できませんが、彼らが子どもの頃に有していた明るいエネルギーの10%も持ち合わせていないように見えます。優秀で裕福な人々ですが、仄暗く時に苦しそうに見えます。

一方で、裕福で『奥ゆかしい』日本文化で生きてきてからこそ、自分なりの思想、創造、表現を取り戻すことができれば、とても強くなれるのだと思います。私たちは空気を読み、配慮し合い、争いを嫌います。でもそれと表現しないことは別のことです。一度自由に創造、表現することに慣れれば、互いにより美しい創造、表現を生み出すことができると思います。加えて、自由に思考し表現できる権利は尊いということも忘れてはいけないと思います。世界には自由に表現したり発信したりすることを制限されている人もいるのです。

思考し、創造し、表現し、発信する。みんなで意見をぶつけ合う。
そのためにはまず自分自身が勇気を持つ、覚悟を持つ。
そして書いてみて、創造欲というものに新たに興味が湧いたので、今度はこれをテーマに書きたいと思います。