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何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

全てが意味のないことであると思うこと

 日々いくつかのミーティングに参加する。多くの報告書を作成する。そうしてそれは意味のないこと、茶番だと感じることが多い。一方で、ピアノを弾いているとき、好きな音楽を聴いているとき、コンテンポラリーダンスのワークショップに参加しているとき、絵を描いているとき、誰か力になりたい人のために動いているときに、時間をきちんと過ごし、自分の存在を感じていると思う。それ以外は、とても苦しいことの方が多いように思う。

 こういった考えは、小さなころから持っていたように思う。学校の勉強も、くだらないと思っていた。友だちづきあいやまじめにやる部活動もどこかくだらないと感じていた。全て意味がないと思っていた。いかにそれが豊かな人生に結びついていようと、どんなに"ロジックモデル"で説明されようと、意味がないことだと思っていた。ピアノや読書が自分の心の拠り所であり、自分の世界を文字通り広げてくれていた。3歳から音楽を続け、小学校からは太宰治夏目漱石をよく読み、中学に入ってドストエフスキー谷崎潤一郎などを読み、高校に入ってからは中島義道氏の本をよく読み、ギリシャ哲学からフーコーニーチェもよく読んだ。楽譜、生きることや時空についての文章の中に意味を見出し、生きる意味など見出せないと思いながらも、必死に多様なことで時間を過ごしてきた。

 そうして仕事についてからは、1日のほとんどの時間が意味のないことに費やされていると感じてきた。粛々と仕事をこなし、あらゆる人とコミュニケーションをうまく行い、日々充実しているように過ごしていても、絶対的に俯瞰をしている自分が『意味がないことだ』とつぶやいていた。そしてより意味がありそうな仕事を探し、少しずつ動いた。R&Dで環境の役に立ちたい、コンサルタントで会社の役に立ちたい、子どもの教育支援で人の役に立ちたい。一方でやはりこれらはいつも突き詰めるとすべて意味がないのではないかと思ってきた。どんな仕事をしても、集中して楽しめる時間が一定程度続いた後は、『こんなことはすべて時空のかなたに消えていく』という絶対的な問いに支配されていく。真面目に仕事を完遂したい想いと板挟みになり、結局は発狂寸前まで自分を追い込み、新たな『意味がありそうな』刺激へと向かう。

 こんなことを繰り返してきて、だんだんと自分のパターンが読めてきたのは、良かったと思う。私にとって重要なのは、全てが本当に意味のないことかどうか、ではなく、『意味のないことかどうか』を忘れられるものである。あるものごとがいかに意味があるかをあらゆる手段で説明しようとすることではなく、こうした絶対的な問いに支配されることなく、全神経を『あるものごと』に向けられるものである。仕事であるかどうかは論点ではない。私にとってそれは音楽であり、芸術であり、そうして自分よりも弱い存在についてである。

 今日も茶番と感じることがあった。こうして進んでみても意味がないのではないかと思うことがあった。そこに資金が投入されることに嫌悪感さえ抱くこともあった。でもそれが意味があるかどうかは、私が決めることではない。自分にとって意味のないことであったとしても、共に生きる誰かが灼熱のごとく情熱を燃やしている対象であるかもしれない。それを歯が砕けるほど食いしばって求めている人がいるかもしれない。よってそういった誰かの大きな情熱に私が感化され、何らかのご縁によって関わることが許されている限りは、自分にとって大きな問いに支配されようと、粛々と実行する。

 私にとって全てを忘れられる『ものごと』は、それが意味があるかないかは誰にでも簡単に判断できることである(そして誰にも決定できない)。しかしそれは常に『私』が存在する意義を思い出させてくれる唯一の存在であり、どんな教育よりも、論文よりも、称賛や資金よりも、一人一人にとって最も重要な要素であると思う。はてそれがパチンコでもいいのか、と考えると、またそれは一度思考してから書こうと思います。ここには「何かを創造する」そして「誰かのためになる」という意味合いが内包されているのかもしれません。