何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

無知の知と自己肯定

最近色々書くけど、結局自分はどうしようもない存在で、単に自分の書きたいことを書いているに過ぎないのだな、と思う。考えたいように考えているようで、自分が今ある場所で流されるままに、意志なく考えているのだろうな、とふと思うこともある。

誰かに影響を与えたいと思うこともあるし、そう思わない時もある。人とたくさんぶつかって、たくさん考えては、こうして自分を振り返ったりする。特に利害関係のある人との関わりの中で、自分は何をどうしたいのか、よくわからないことの方が多いように思う。

色んなことを深く深く考えたりして、よくわかった気になることも多いけれど、結局わかっていないことの方が多いと、なんとなしに突然、思うこともある。

自分に自信があることもあるし、自分自身を受け入れているとも思うけれど、全く自分に自信がないとも思う。自分が大嫌いだと思うこともしばしばある。たくさん笑ったり、たくさん食べることもあるけれど、たくさん泣いて、もう明日起きられないかもしれない、と思うこともある。

お金なんて一定程度もういらない、と思っているけれど、それは働いていて、お金を稼げる立場にある驕りかもしれないと、ふと改めて気付くこともある。そして仕事がなくなることが急に怖いと思うこともある。

美しいものを追究し、歓喜を追求し、他に何もいらないと思うこともあれば、ただその日は安心してお風呂に入って温かくして眠りたいとだけ思うこともある。

毎日踊り狂いたいと思うこともあれば、ただひたすら分析して数値計算していたいと思うこともある。

強い強い情熱に突き動かされる時もあれば、無に近い気持ちで淡々と作業をこなす時もある。

人のことを激しくジャッジしてしまう時もあれば、本当にすべての人を受け入れる度量が持てる自分に近づく時もある。

ふがいない、醜い、小さく、揺らいだはかない存在だと思う。それなのに、たまにすごく大きく強い存在だと思うこともある。歓喜に近づき、天にも昇る気持ちになることもある。

私は何も知らないし、誰かになることもできないのに、なぜだか自分を肯定することも否定することもできる。そして、自分を肯定や否定という軸から解放することもできるはずである。

ただ自分は、そうしたしがないたった一つの生命体にすぎないのだ、ということを肯定して生きていたい(生きるために肯定せざるを得ない)のだと思う。たくさんの揺らぎと宇宙的に渦巻く感情を持ちながら、ただただ点のように生きるのだと思う。全くわからないけれど、何も理解できていないけれど、ただここにあるという事実に直面しているのだと思う。

なぜ今、芸術活動が最重要だと思うのか。それは人間の内面をまざまざと映し出す鏡であり、人が美しくあるために残された手段だから

 SNSなどで情報の個人による公開・集積化が進むことで、声がでかい人ほどでかくなれる、という経済学のピケティ理論が情報の世界でも見受けられる気がしている。一定程度のエビデンスをもっていさえすれば、「オレがすごいんだ」と言えば言うほど、見せれば見せるほど、えらいと思われる、すごくなれる、民主的にもすごくなれてしまう世界である(虚言はもちろんだめでしょうけど)。
 「蓋然性が高そうな」「因果関係がありそうな」情報を持っている者ほど強くなれる、「信頼性が高いといわれる人と」「世界的に有名な組織で」働いていることを公開する人ほど強くなれる、まさに「神は死んだ」世界の到来である。
 私自身、事業の効果検証の仕事に携わっている中で、いかに「確からしエビデンス」を持っているかが重要になる世界を作り上げることに加担していると思う(定性にせよ、定量にせよ)。そして、効率性や経済性のためにそうした動きが重要だと思いながらも(これは経済的貧困にあえぐ人を救うために絶対的に重要だと思っている)、やはり加速しすぎることは怖いと思っている。つまり、冒頭に述べた世界を支援してしまう可能性があるのである。そこで私が、自らの仕事を過度に誤った方向に導かないためにも、根本的に取り組んでいるのが、芸術活動の推進である。
 私が芸術活動を強く支援し自分自身も活動に勤しむのは、それが人間性の「心」とか「想い」を、そのまま、まざまざと映し出しているからである。技巧や技能を超越して、シックスセンス的な話になるが、誰かの芸術作品(動的でも静的でも)を見れば、「あ、この人はこう考えているのだな」とわかってしまう感覚である。作曲にせよ、演奏にせよ、絵画にせよ、伝わる。特にわかるのはダンスだ。その肉体表現から、その人がどの程度の虚栄心があり、どのくらいダンスを愛していて、なぜ生きているのかが、伝わってくる。裸以上のはだかである。「私はxx大学院卒のxxxピアニストです」とキラキラのドレスを着て演奏する方よりも、「50歳からピアノ初めて3年だけど、どうしてもベートーベンの月光が弾きたいのである」という鬼気迫るアマチュアの方の演奏の方が美しいと感じるのは、その精神性からだと思う。実際に私もいくつかピアノコンクールを経験しているが「楽曲のみに向かう真摯な気持ちで演奏したコンクール」と「私は賞も取ってるしできるのよ、技巧はこうできるのよすごいのよ、で演奏したコンクール」では、結果も観客からの反応も、全く違っていた。外的圧力が強くなく、ピュアに取り組んでいる子どもの作品が時として爆発的な威力をもって迫るのは、そもそも精神的に何も着ていないことが多いからだと思う。彼らはそもそもピュアで、柔らく美しい心を持った「人」なのである。大人は、社会の中で多くの虚栄や関係性を纏う中で、芸術と対峙する時に、普段いかにそれを脱いで生きているかを問われるのだと思う。優しさであり、美しさであり、何のために生きているのかを、深く問われる。
 どんなにSNSできらきらしようが、インスタ映えしようが、たくさんのステータスや賞を持っていようが、芸術創造では誰もがはだかである。ただの一つのはだかの生命体である。もし、全ての人が一堂にインプロヴィゼーションを行う場があったとして、そこはおそらく虚栄心の具現化がはびこるSNSの世界とは、ほぼ反比例するような世界になる気がしている(もちろん美しいSNSの使い方もある)。コンタクトインプロをやればもっとわかりやすいかもしれない。どんな相手かにもよらず、どれだけ互いを信頼できるか。ジャズのセッションもそうかもしれない。どんな相手かにもよらず、どれだけ相手と美しさを、歓喜を、作り上げられるか。
 経済成長を目指し、経済的貧困に苦しむ人を救うのは、喫緊の課題である。極度の経済的貧困は根本から人の希望を奪うからである。一方で、経済成長があるからといって人の心は美しく育つとは限らない。寧ろ、行き過ぎると多くの虚栄やエゴを重ね着し、希望のない誰かを深く傷つける刃となる可能性がある。私は現状、経済的に潤っている、社会的地位が高い人ほど、大きな刃を振りかざしている場合が多いように感じる(もちろんそうでない人もいる)。だから私は、誰もがはだかで平等になる、芸術活動が重要だと思っている。技巧や技能を超えた美しさは、心の美しさだ。バレンボイムは言っている。「その瞬間、その一音を鳴らす瞬間、いかにその音だけに集中できるか、いかにそのことだけに集中できるか、そこに音楽の美しさが宿っている」と。今日買い物を頼まれてたな、とか、誰かに評価されたい、とか、そういうことをいかに全て忘れ去れるか。(信頼性があるにせよないにせよ)大量に生産される「情報」という目に見える・理性でわかるものを過信することは、格差を助長し続けると思う。だから、人をはだかにする芸術活動こそ、人が人らしく生きていくために毎日感じなければいけない「内面をまざまざと映し出す鏡」だと、私は思う。

情報の非対称性が広がる、でかい声と声なき声が広がる世の中

情報の非対称性が広がっているなって思う。しかも、いびつに。

自画自賛の情報発信を自らすることがおかしくない(オレオレ!ていうことがダサくない)世界になっているので、Facebook内やTwitter内で声のでかい人(数の多い人?)=すごい人、みたいな世界になっている。それが、別に作品作りを発表したい、というのではなくて、作品のすごさを自ら自慢している、ということの方が多く、私は苦しいなって思っている。

実直に仕事をしていても、そういう歪なメディアがごりごりの世界だと、自己評価ぎゅんぎゅんな人、肩書べたべたべたな人が評価されていたりとか、そういう世界ができあがっていると感じる。それでもなお本当にわかる人たち=社会できちんと回っていけばよいけれど、そうじゃない世界を私は見ることが結構ある。私はそういう世界、とても嫌い。なぜって、美しくないし、格差を助長するし、自分がどっちの側にいても、本当に疲れるから。だから少なくともフェアに思えるアカデミアの世界とか、芸術の世界の方が、いいなって、思えている部分もあると思う。

私のリアルな友だちは、誰もSNSをしていない(高校の時の仲良し9名、大学の時の仲良し4名)。みんなアカウントは持っている子もいるけれど、完全に休眠。私みたいに見て疲れちゃう、みたいなことからも解脱している。たまにインスタとかしている場合もあるけれど、風景のきれいなやつだけさらっと載せているだけ、そんな感じ。私はまだ、SNS呪縛から逃れられないで、そういう風に自画自賛しないと、仕事(個人事業的)で負けちゃうかも、でもそんな美しくないことできない、とかそんな残念なことを思っている。もう解放されたいな、と思う。作品発表はたんたんとしたいけれど(論文とか文章とか絵とか)。自分自身、合わないのであるから、いちいち、そういうところで張り合わないようにしたい、と思う。

そのためにブログ書いてるんだったなぁ、て思う。

今日は、そんな世界をリアルでも感じることが多くて、すごく生気を失っちゃったので、仕事をせずに、文章を書いている。ふぅ、自分がすごいんだよ、とかっていうことじゃなくって、こういう気持ちを誰かと共有したいな、共鳴したいんだなって思う。私はそして、自分が発信するよりも、声なき声を吸い上げていきたいなと思う。でもその結果結局発信しないといけないだろうけど。

SNS核分裂の技術とかと同じで、Innovativeだけれど、使い方を間違えば大変なことにもなる。時代的には善悪の彼岸、かもしれないけれど、私はそれでも希望の灯が消えそうな時には支えたい、自分がめらめら燃えているときは、誰かに分けたい。そうやって生きていきたいし、やっぱりそれは自画自賛ではないなって思う。誰かの灯が消えそうならば、それは自分がきちんと使命を全うできていないことだと思う。

アウトプットを増やす

奨学金の面接をした。もはや留学熱が徐々に冷めていた頃だったのですが、せっかくいただいた機会なので、頑張って受けてきました。

ですが、全然しゃべれない。

英語だからって言うのもあるけれど、普段考えてる、深く深く考えているはずのことが出てこなくて、体験談とかももっと色々語れたはずなのに、全然答えられなかった。

結果がどうなるかさておき、本当に良かったと思ったのは、学びになったのは、アウトプットをもっとしていこうということ。

私はこういう人間なのです、こういうことを考えていますっていうのは、ある程度考えているだけで(人相などで)伝わる部分もあれば、そうじゃない部分もある。

今後、もっと自分の考えをいろんな人に知ってほしい。いろんな人をつなぐために。それは虚栄でありエゴであるけれど、それでもやりたいし、やるべきだって思う。

フィギュアスケートの宇野さんが、「どんな状態でもきちんとできるように、そういう練習を重ねてきた」と言っていたことが印象的。私も、どんな状況でも自分の考えをきちんと伝えられるように日々精進したい。

希望格差をなくすために生きる

世界劇場会議国際フォーラム2018に参加しました。アカデミックではないけれど、とてもたくさんの学びのあるフォーラムでした。

中でも心に大きく残ったのは、可児市文化創造センターの衛館長の「希望格差」という言葉。自分自身が希望にあふれているのに、それに満足して勝手に仕事していたなぁ、と反省しました。もし、小さな子どもが希望をもっていなかったら、もし、就活生が希望をもっていなかったら、それは自分が希望格差に甘んじているんだな、ということだと思いました。

これからは、No one left behindの精神で、誰も希望の格差に苦しまない、希望の格差を見過ごさない、誰もが現状に希望を見出せる世界のために、仕事をしていきたいと思います。

中庸の感覚と歓喜をもたらすものメモ

個人的なメモですが、自分自身に中庸の感覚(好きだけど落ち着いて淡々と永遠にできそうな感覚)をもたらすもの・ことを書いておきます。(うしろの〇番号は、その強さの順位)

  • 自分自身の思想をうんうん考えること①
  • ダンスワークショップ(コレオグラフィーとかではなく瞑想に近いもの)②
  • ランニング(30分~2時間くらいのもの)③
  • 読書(主に哲学、社会学など)④
  • 料理(特にフルーツ、そば粉とか米粉とかのお菓子)⑤
  • フランス語(かわいくて優しい先生と話すこと)⑥
  • ピアノの演奏(練習、遊び弾きなどなんでも)⑦

そして歓喜(光が差し込むようなよろこび)をもたらすものを書いておきます。(同じくうしろの〇番号は、その強さの順位)

  • 自分自身の思想でAhaモーメントを迎えるとき(そしてそれを書き、まとめること)②
  • ダンスワークショップ(コレオグラフィーとかではなく瞑想に近いもの)①
  • ランニング(1時間より長いもの)④
  • 読書(特に岡本太郎などのお気に入りの本)⑤
  • ピアノの演奏を相当集中して弾き上げるとき、発表する時③
  • 誰かと食べる料理がたいそうおいしい時⑥

こうして整理してみると面白く、中庸的な感覚をもたらすのに、歓喜をもたらさないものとしてフランス語があります。

また、中庸の感覚をもたらす順位と歓喜をもたらす順位とでも差があることもわかります。

中庸と歓喜を大事にしたい。

 

カオナシ度~手放して、スリム化して、自分を知る~

今年はとにかく色々手放す、と思っています。年始めには素直に素直に、と書いたのですが、それはつまり色々不要なものとか、自分が惰性で物理的にも精神的にも持ち続けているものを色々手放していく、ということとも同義だと考えています。そして、自分の不要なものを物理的にも精神的にもため込んじゃうことを、私は「カオナシ」で判断しています。

カオナシってあの、かのジブリの「千と千尋の神隠し」のカオナシなんですけど、カオナシ度=不要なものの溜め込み度、という感じで使っています。つまり、本当は必要ないはずなのに、あれも欲しい、これも欲しいでどんどん太っちゃって、ていう状態です。自分の本当に関心のあることと違うことをどんどん器用にやったり、頑張り続けたりして、太り続けちゃうこともカオナシ度が高い状態と思っています。本編の意図することとはちがうかもしれないのですが。私は社会人になってから、カオナシの波を繰り返して生きていると思っています(下記の図のイメージ)。色々無暗に頑張って、太りすぎてから、もうこれ違う!これをやりたい!と言ってスリム化して、また色々やり始めたら楽しくなって、もっともっとと思って太りすぎて、またおや違うぞ、となってスリム化する。そして繰り返すにしたがって、太る限界がか小さくなってきている気がします。今はどちらかというと、「あ、、あ、、、」のカオナシに近くなっている(と思いたい)。

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何で太ったりスリム化したりの転換点が来るのか、というと、(カオナシとして)太りすぎると、体調が悪くなったり、趣味や創造活動へのあこがれが強くなるからだと感じています。そしてスリム化しようと思う。それから、スリム化してもまた太ってしまうのは、「社会の中できちんと生きたい」という欲がどんどん出てきてしまうからではないかと思っています。実はこの「食べ過ぎカオナシ⇒スリムカオナシ」への転換点を、自分で気づいてきちんとコントロールすることがすごく難しいと思っています。ついつい太っちゃう、そして誰にも止められない状態になってしまう。自分じゃない自分になってしまう。

よく断捨離、という言葉が聞かれます。断捨離って簡単に言うようですごく難しくて、できない。要は太ったカオナシのままでいてしまうことの方が多いと思います。これってなぜかっていうと・・・

リスクを取りたくない、という精神構造があるからだと思います。「この本いらないなー、一年も読んでないし。。。でも、もしかしたらまた誰かに貸すかもしれない」とか、「この洋服もう全然来てないから売っちゃおうかな、でも、また〇〇の機会に着るかもしれないし」とか。いつか必要になるかも、とか、お金を稼ぎたいから、とか。いろんな理由をつけて手放せないことが多いです。こうした誘惑というか、幻想をずばっときれないから、難しいんだと思います。

昨日父親と日本のリニアモーターカーの開発の話をしていた時にも、もったいないから、もうこれだけ開発費かけちゃったから、という理由でずるずると開発している感が否めないよね、、、という話をしていました。カオナシがどんどん食べていっている絵が浮かびます。日本人って何かもったいない、人とのつながりを特に大事にしたい、という良い面もあると思うのですが、時間やお金をかけたことへの無駄な執着も多い気がしています。(守り抜いてきた伝統などは守り抜くべきだと思いますが)

私はこうして整理することで、自分にとって自然体である道を選ぶ。本当はこうした方がいいんじゃないか、でも、、、ということを手放す。カオナシみたいに全部吐いちゃう。これは頑張らない、というのではなくて、頑張りすぎない、ということ。また、強欲ではなく、謙虚、ということにも近い気がします。

今年は昨年末にミヒャエル・エンデの「モモと時間泥棒」を読んだこともあり、時間を自由に扱う、というのも一つのミッションになっています。時間の精神的な空きを作りたい。これもやりたい、あれもやりたい、これもやらなきゃ、ではなくて、本能に従って手放す。それから、自分の反省でもある惰性的になんとなく見ているFacebookとか、そういう時間を手放す。ゼロベースで考える時間を作る。仕事もあるし、お金も稼がなきゃとか思うけれど、自分の本能の赴くこと(パッション)、大切にしたいこと(美学)に、時間を使う。没頭する。逆に言うと、まだまだ没頭できていない、大切にできていないということでもありますが。。。 どんどん関係のないことを手放しながら、自分のコアを耕し続けて、愛して、私はこうしたいからこう生きるのである。と言える生き方をする。何かにつながるかどうかはさておき、強欲のはしごの足を、自分で外し続ける。

裸一貫で生きていく、というわけではないけれど、できるだけシンプルに美しく生きていきたいなと思うのです。スリムなカオナシになって、自分の居場所を自分で認識していきたいです。