何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

アウトプットを増やす

奨学金の面接をした。もはや留学熱が徐々に冷めていた頃だったのですが、せっかくいただいた機会なので、頑張って受けてきました。

ですが、全然しゃべれない。

英語だからって言うのもあるけれど、普段考えてる、深く深く考えているはずのことが出てこなくて、体験談とかももっと色々語れたはずなのに、全然答えられなかった。

結果がどうなるかさておき、本当に良かったと思ったのは、学びになったのは、アウトプットをもっとしていこうということ。

私はこういう人間なのです、こういうことを考えていますっていうのは、ある程度考えているだけで(人相などで)伝わる部分もあれば、そうじゃない部分もある。

今後、もっと自分の考えをいろんな人に知ってほしい。いろんな人をつなぐために。それは虚栄でありエゴであるけれど、それでもやりたいし、やるべきだって思う。

フィギュアスケートの宇野さんが、「どんな状態でもきちんとできるように、そういう練習を重ねてきた」と言っていたことが印象的。私も、どんな状況でも自分の考えをきちんと伝えられるように日々精進したい。

希望格差をなくすために生きる

世界劇場会議国際フォーラム2018に参加しました。アカデミックではないけれど、とてもたくさんの学びのあるフォーラムでした。

中でも心に大きく残ったのは、可児市文化創造センターの衛館長の「希望格差」という言葉。自分自身が希望にあふれているのに、それに満足して勝手に仕事していたなぁ、と反省しました。もし、小さな子どもが希望をもっていなかったら、もし、就活生が希望をもっていなかったら、それは自分が希望格差に甘んじているんだな、ということだと思いました。

これからは、No one left behindの精神で、誰も希望の格差に苦しまない、希望の格差を見過ごさない、誰もが現状に希望を見出せる世界のために、仕事をしていきたいと思います。

中庸の感覚と歓喜をもたらすものメモ

個人的なメモですが、自分自身に中庸の感覚(好きだけど落ち着いて淡々と永遠にできそうな感覚)をもたらすもの・ことを書いておきます。(うしろの〇番号は、その強さの順位)

  • 自分自身の思想をうんうん考えること①
  • ダンスワークショップ(コレオグラフィーとかではなく瞑想に近いもの)②
  • ランニング(30分~2時間くらいのもの)③
  • 読書(主に哲学、社会学など)④
  • 料理(特にフルーツ、そば粉とか米粉とかのお菓子)⑤
  • フランス語(かわいくて優しい先生と話すこと)⑥
  • ピアノの演奏(練習、遊び弾きなどなんでも)⑦

そして歓喜(光が差し込むようなよろこび)をもたらすものを書いておきます。(同じくうしろの〇番号は、その強さの順位)

  • 自分自身の思想でAhaモーメントを迎えるとき(そしてそれを書き、まとめること)②
  • ダンスワークショップ(コレオグラフィーとかではなく瞑想に近いもの)①
  • ランニング(1時間より長いもの)④
  • 読書(特に岡本太郎などのお気に入りの本)⑤
  • ピアノの演奏を相当集中して弾き上げるとき、発表する時③
  • 誰かと食べる料理がたいそうおいしい時⑥

こうして整理してみると面白く、中庸的な感覚をもたらすのに、歓喜をもたらさないものとしてフランス語があります。

また、中庸の感覚をもたらす順位と歓喜をもたらす順位とでも差があることもわかります。

中庸と歓喜を大事にしたい。

 

カオナシ度~手放して、スリム化して、自分を知る~

今年はとにかく色々手放す、と思っています。年始めには素直に素直に、と書いたのですが、それはつまり色々不要なものとか、自分が惰性で物理的にも精神的にも持ち続けているものを色々手放していく、ということとも同義だと考えています。そして、自分の不要なものを物理的にも精神的にもため込んじゃうことを、私は「カオナシ」で判断しています。

カオナシってあの、かのジブリの「千と千尋の神隠し」のカオナシなんですけど、カオナシ度=不要なものの溜め込み度、という感じで使っています。つまり、本当は必要ないはずなのに、あれも欲しい、これも欲しいでどんどん太っちゃって、ていう状態です。自分の本当に関心のあることと違うことをどんどん器用にやったり、頑張り続けたりして、太り続けちゃうこともカオナシ度が高い状態と思っています。本編の意図することとはちがうかもしれないのですが。私は社会人になってから、カオナシの波を繰り返して生きていると思っています(下記の図のイメージ)。色々無暗に頑張って、太りすぎてから、もうこれ違う!これをやりたい!と言ってスリム化して、また色々やり始めたら楽しくなって、もっともっとと思って太りすぎて、またおや違うぞ、となってスリム化する。そして繰り返すにしたがって、太る限界がか小さくなってきている気がします。今はどちらかというと、「あ、、あ、、、」のカオナシに近くなっている(と思いたい)。

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何で太ったりスリム化したりの転換点が来るのか、というと、(カオナシとして)太りすぎると、体調が悪くなったり、趣味や創造活動へのあこがれが強くなるからだと感じています。そしてスリム化しようと思う。それから、スリム化してもまた太ってしまうのは、「社会の中できちんと生きたい」という欲がどんどん出てきてしまうからではないかと思っています。実はこの「食べ過ぎカオナシ⇒スリムカオナシ」への転換点を、自分で気づいてきちんとコントロールすることがすごく難しいと思っています。ついつい太っちゃう、そして誰にも止められない状態になってしまう。自分じゃない自分になってしまう。

よく断捨離、という言葉が聞かれます。断捨離って簡単に言うようですごく難しくて、できない。要は太ったカオナシのままでいてしまうことの方が多いと思います。これってなぜかっていうと・・・

リスクを取りたくない、という精神構造があるからだと思います。「この本いらないなー、一年も読んでないし。。。でも、もしかしたらまた誰かに貸すかもしれない」とか、「この洋服もう全然来てないから売っちゃおうかな、でも、また〇〇の機会に着るかもしれないし」とか。いつか必要になるかも、とか、お金を稼ぎたいから、とか。いろんな理由をつけて手放せないことが多いです。こうした誘惑というか、幻想をずばっときれないから、難しいんだと思います。

昨日父親と日本のリニアモーターカーの開発の話をしていた時にも、もったいないから、もうこれだけ開発費かけちゃったから、という理由でずるずると開発している感が否めないよね、、、という話をしていました。カオナシがどんどん食べていっている絵が浮かびます。日本人って何かもったいない、人とのつながりを特に大事にしたい、という良い面もあると思うのですが、時間やお金をかけたことへの無駄な執着も多い気がしています。(守り抜いてきた伝統などは守り抜くべきだと思いますが)

私はこうして整理することで、自分にとって自然体である道を選ぶ。本当はこうした方がいいんじゃないか、でも、、、ということを手放す。カオナシみたいに全部吐いちゃう。これは頑張らない、というのではなくて、頑張りすぎない、ということ。また、強欲ではなく、謙虚、ということにも近い気がします。

今年は昨年末にミヒャエル・エンデの「モモと時間泥棒」を読んだこともあり、時間を自由に扱う、というのも一つのミッションになっています。時間の精神的な空きを作りたい。これもやりたい、あれもやりたい、これもやらなきゃ、ではなくて、本能に従って手放す。それから、自分の反省でもある惰性的になんとなく見ているFacebookとか、そういう時間を手放す。ゼロベースで考える時間を作る。仕事もあるし、お金も稼がなきゃとか思うけれど、自分の本能の赴くこと(パッション)、大切にしたいこと(美学)に、時間を使う。没頭する。逆に言うと、まだまだ没頭できていない、大切にできていないということでもありますが。。。 どんどん関係のないことを手放しながら、自分のコアを耕し続けて、愛して、私はこうしたいからこう生きるのである。と言える生き方をする。何かにつながるかどうかはさておき、強欲のはしごの足を、自分で外し続ける。

裸一貫で生きていく、というわけではないけれど、できるだけシンプルに美しく生きていきたいなと思うのです。スリムなカオナシになって、自分の居場所を自分で認識していきたいです。

お金持ちにならなくていいから、カメのようにゆっくりと着実に仕事がしたい

最近年度末ということもあって、忙しい。とかいって、忙しい時ほど、個人的な文章とか、創造活動とかに精がでてしまうのですが・・・

それはさておき、最近新規事業とか、自分のやりたいこと、とか次年度に向けて色々整理もしているのですが、とにかく思うのは、お金持ちみたいにならなくていいから、良い仕事を着実にじっくりとしたい、ということです。心を亡くすようなことは、したくない。追われるように、さらわれるように業務をこなすのは、どんどん手放していきたい。これを言うと、やっぱりあなたは研究者向きよね、とか、アーティストぽいよね、とかいう人もいますけど、それは相対的な見方でしかなくて、わたしは素直にそう思っています。

創造性の低い仕事はこの先どんどんAIにとってかわられる。「創造的」と思われる仕事も、ディープラーニングが進めば「とってかわられる」可能性はある。でも私はこれがやりたいんです、こういう人たちとこういう関係をつくりながらやっていきたいんです、というスタンスがこの先とても重要になってくるんだと思います。なぜやるのか、なぜ生きるのか。

利潤を追求して、あるいは社会的に意義のあることを掲げて、時間を勢いよく燃やすように使いたいと思っていません。そういう情熱的な人も周りにはいるけれど、私はそういうタイプではない。ランプの灯のように、あるいは蛍の光のように、ゆっくりと、着実に何かを照らすように時間を使いたいと思っています。

思えば私は小さい時からマイペースでした。みんなが行っていた塾もなじめなかったし、ピアノとかダンスとかも個人でやることが好きだった。朝練も一人でコツコツやるのが好きだった。人より先を行くためとか、出し抜くためとかそういうのではなく、早い遅いではなく自分のペースでやるのがしっくりくるタイプなんだと思います。大人になって、流されること非常に多くなってきていますけど(それはほぼフリーのように働いている今でもよくあることですけど)、今年は特に着実に自分で時間をかみしめて生きていきたいな、と思っています。カメのようにゆっくりでのろい、と思われてもいい。でも万年、続いていくような愛を残したい。ウミガメのような雄大さをもって、周りにいる人たちとじっくりことに取組んでいきたい。なんだかそういう、美しく、ゆっくりとした、雄大なイメージが浮かんでいます。

呼吸と知覚と肉体とのレゾナンス

コンテンポラリーダンスコンテンポラリーダンス、って言ってきたんですけど、年始に何回かワークショップに参加して、あー、えと、コンテンポラリーダンスをマルっとまとめて好きなわけじゃないんだな、と認識したので、それを書こうと思います。

私が好きなのは、呼吸と知覚と肉体のレゾナンス(共振)。存在と知覚の調和といってもよいのかもしれません。

色んなコンテンポラリーダンスがあるので、そしてそれはダンサーに依存すると思うので、結局どういう哲学でコンテンポラリーダンスとして踊っているのか、ということが好き嫌いを分けていると思っています。

私は踊ることは好きですし、見ることも好きなんですけど、The コレオグラフィー、みたいなのは好きじゃない。踊るのも見るのも好きではありません。例えコレオグラフィーがあっても、そこに呼吸と、その本人から来る知覚と、そこにある肉体の共振から生まれているものが好きなのです。さらにここに音楽が合わさると、もちろん呼吸や知覚に変化が生まれるので、肉体としてとても面白い。

よく良いダンサーは音楽に合わせて踊るのではなく、自分自身が音楽なのである、といったりもしますが、そうした波動、波長であり振幅であり、そうした有機体としての存在をいかに呼吸と知覚とで生み出せるのか、ということに尽きると思っています。(私の美学として) 

だから今年は、コンテンポラリーダンスという名の下にはなるけれど、やっぱり結構偏って、自分が好きだと思うものばかりを語り、踊り、観て感じていこうと思うのです。コレオグラフィーを頑張る系のワークショップにはいかないと思います。

また、自分の中で音楽とダンスの考え方、感じ方が全然違くて、そこもまた面白いと思っています。音楽はピアノの演奏という意味で超・基礎を学んできたがゆえに、即興演奏といっても自由になんでも、とうまくできない気がしています。一方でダンスはむかーしバレエとバトンをやっていた基礎はあっても、ほぼ覚えていないので、インプロが感じるままにできるので、超楽しい。音楽は一定範囲の気持ちよさ、というものを(私は)追求してしまいがちなんだけれど、ダンスは無限の可能性を感じる、というのもまた違う点だとも思います。

ひとまずピアノもダンスも自分の呼吸、知覚と肉体とで、ぽつぽつと、やっていこうと思います。そしてこうした感覚を研ぎ澄ましながら、自分のプリンシプルとして、仕事や知的生産である研究についても適用していきたいなと思っています。

とことん自分に素直に生きる

今年の目標は、と耳にする機会が多い。
特に今年が始まったから、というわけではないのだけれど、一年の計は元旦にあり(もう元旦じゃないけど)、ということもあり、目標ではないのですが、大事にしたいスタイルを挙げたいと思います。

それは、とことん自分に素直、ということ。

昨年2017年もそのように生きてきた自負があるのですが、実は考えすぎると素直になるって難しくて、社会の中で共生して生きていると、自分に素直なことは実は自分勝手なだけじゃないかとか、果たしてこれが本当に素直なのか、とか、訳が分からなくなることがあります。結局必要とされることをやっていて、自分が素直にやりたいのかどうか、わからん、と考えたりすることもありました。

そうして今年はもっと、自分に素直ということを研ぎ澄ましていきたいと思っています。これは、岡本太郎の「危険な道を選ぶ」、というプリンシプルからもつながっているものです。自分にとって本当にやりたいことに加えて、「本当はやりたい、けど怖い」というような感覚のものに、もっと向き合う。とことん正直に素直にぶつかって生きてみたいなと思っています。

スマイルズの遠山さんの記事にも、似たような考えが書いてあり、嬉しくなりました。(私はSoup Stock Tokyoもネクタイブランドのgiraffeもすごく好きです)

2018年、ビジネスは「共感」から「素直」の時代へ スープストック創業者が描く次の一手

なんでそれをやるのか、やりたいからやるんだよ、というレベルでの答えが必要、不可欠になる時代が徐々にきていると感じています。お金になるから、子どものためだから、福祉のためだから、という社会のための言語化の枠を超えてさらに、なぜ自分がそれをやるのか、ということを改めて知覚、認識、具現化していく必要があると考えています。誰にも求められていないかもしれない、でも誰か他の人に迷惑をかけない、誰かを不幸にしない限りでの、自分がとにかくやりたいことを追究し、追求する。美の追求と同義かもしれません。そして本当は自分がやりたいことであればあるほど、公徳、公益とつながっているんだと私は考えています。

年末にゴッホの映画を見て、年始にゴッホの絵を見に行きました。元々、絵画の黄色とその生き様が大好きな人なのですが、年末年始でその世界を感じて、より好きになりました。奇人だったかもしれない、絵画を描いた年数は短かったかもしれない、絵を売ることはできなかったかもしれない。でもそれは時空を超えて、あまりにもまっすぐに我々に今生きる意味を問いかけてくれている。物体としては古くなっていても、新鮮にその絵画、街並み、人へのコミットメント、愛を伝えてくれる。鑑賞者がそう感じることを目的として彼は絵を描いていたわけではないと思います。ただ、自分がやりたいこと、描きたいこと、伝えたいものをやり続けていた。そして支えてくれる人がいた。そうした結果、時空を超え、予想もしなかった人々につながっているのだと思います。

冒頭にも述べているのですが、とことん自分に素直に、やりたいこと、というのはよくわからなくなってくるときもあります。そんな時、自分の中では一つの見分けるポイントを持っています。それは、誰かに話すときに、すっと言語化できているか、それから、いちいち誰かに言わずともやっているか、ということです。仕事で頑張っていることでやりがいもあることは、まぁすっと話せるんですけれども、話す相手によって深さが変わったり、あとは湧きあがるように話せなかったりもします。ただこれは絶対一生やりたいと思うこと(私の場合はコンテンポラリーダンス)については、知識も経験も浅くても、湧きあがるように、相手を問わずに話すことができるのです。これをパトス(降りかかるもの)と呼ぶのかな、とも思います。また、自分が素直にやりたいこと、というのは日々刻々と変化しているようで、実は小さなときからそんなに変わっていないのではないか、という気もしてきました。私の場合は幼稚園の頃からダンスや演劇が好きで、ずっと続けることはできませんでしたが、バトンやバレエや演劇、幼稚園のお遊戯会まで、今でも詳細に記憶の残っている場面が多いのはそんなことばかりです。いわゆる一生懸命やってきたことは全然別のことだったのですが・・・。時間を経るにつれて自分の美学を再発見しているような気もしています。

法外にせよ、法内にせよ(社会的に生きやすい物事にせよそうでないことにせよ)、常にとことん自分に素直に生きる。仕事を一生懸命やることが本当に自分にとって美しければ、素直にその美を追求する。何かの目標に向かうわけではなく、今の自分の美に素直に生きる。それを自分のプリンシプルにして生きていきたいと思います。