何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

日本が沈みゆくのは、創造性というエネルギーが枯渇しているから

毎日のように、全ての人が芸術家、とか、創造性の爆発、とかいうことを言っていると、面白い人に会える+面白いことを教えて頂く機会が増えたように思います。(宗教家っぽいとも言われることもあり、それはうーんと思う・・・)

前回の記事で「創造欲求」について考えてみたい、という風に締めくくったのですが、そんなことをあれこれ口ずさんでいたら信頼する仕事仲間にこんな記事を教えてもらいました。

www.huffingtonpost.jp

より詳細にはこちら:

http://www.adobeeducate.com/genz/creating-the-future-JAPAN

これを読み、正直思った以上にショックでした。沈みゆく日本、いや、沈まない日本、という風に言われますが、若い世代がこんな状況では日本は沈みゆくだろうな、と。調査としては地域や平均学力等のデータがないので少し説得力に欠けるのですが、いずれにしても、これにはびっくりです。日本の12~18歳(以下、「Z世代」)は、自分のことを創造的だと思っていないのです。創造的だと回答したのはわずか8%。Z世代の教師もまた同じで、他国では25~30%程度が生徒を「創造的」と捉えているのに対し、日本の教師はわずか2%となっています。

加えて日本のZ世代は、卒業後の将来について「不安な気持ち(53%)」「緊張した気持ち(36%)」を最も多く抱えており、その他調査対象であったアメリカ、イギリス、オーストラリア、ドイツでは約50%を占めた「ワクワクした気持ち」が日本では31%となっています。特に顕著なのはアメリカとの比較で、上位5項目を占める将来に対する気持ちがアメリカでは全てポジティブなものなのに対し、日本では不安な気持ち、緊張した気持ち、怖い気持ちといったネガティブ/悲観的なものが3項目もランクインしています。欧米諸国(特に英国)で考えられるテロ等による不安という外部要因を考えると、日本は社会的に大きな課題を抱えているように感じます。

そして輪をかけるように問題なのが、「卒業後の将来に向けて準備ができているか」という設問に対する日本の結果です。他国では約50%~70%の生徒が「ある程度またはしっかりと準備準備ができている」と答えているのに対し、日本では僅か16%の生徒しか該当していません。具体的に目指している職業がある割合も最も低く、30%を下回っています。

これはAdobeの調査ですので、最終的にはアクティブラーニングを可能とするデジタルツール等へのお話となっていくのですが、単純にアクティブラーニング活用ツール導入、とか、オンラインポートフォリオ作成の重要性、とか、そういうことに留まらない、根本的な対策が必要な課題です。

Z世代に限らず、私たち(私は30代です)は、「こうすべき、こう答えるべき、覚えるべき」という教育の中で育ってきました。自由に論述することは少なく、大学受験で小論文が必要なことにあたふたしたことを覚えています。(手前味噌ですが)私は中高大とトップ5%に入っていた自負がありますが、そのほとんどはノウハウ、パターン学習によって獲得できたものです。私が大人になってあらゆる知識や思想を通して、自分の中でかみ砕いて表現する、ということをするようになったのは、学校教育のおかげではなく、趣味として文学(特に太宰治)や芸術(特に音楽)の世界に没頭する時間が単純に長かったからだと思います。"クリエイティビティ"、ゆとり教育生涯学習、などなど、様々なことがちらほら言われていますが、根本的には教育の仕組みはほぼ変わっておらず、みんな回答の決まった試験勉強・受験勉強にごりごり励んでいるのではないでしょうか。また、何より社会の仕組みが高度経済成長期からあまり変わっておらず、働く社会人がみんな右習え、真っ黒スーツ、大企業の中でのOne of themなのですから、Z世代がVisionaryになれるわけがないのです。余談ですが、数か月前にテレビで見てびっくりしたのは、就活生が手帳片手にみんな同じ黒い鞄を持って、「Work life balance」を謳う保険会社に一生懸命面接を受けに行っている映像でした。「安定した企業で、ワークライフバランスを求めて受けに来ました」とインタビューに答える映像に、えと、あれ、何のために働くんだっけ?安定ってそこにあるものなの?自分で作り出すものじゃないの?保険会社が日本の人口構造・医療の中でどうなるかとか考えないの?とたくさん疑問を感じました。

没個性的に協働することが求められたのは、高度経済成長期から続く産業構造の中、規模の経済を働かせることで利益を生み出すことが重要だったからです。そして戦後の人々のメンタリティは今とは全く違っていた。テクノロジーが発達し、AIが到来する中、今求められるのはコマの一つとして動く能力ではありません。そして本来、人間が持つべき、発揮すべき力は、コマの一つとして動くことだけではありません。今重要なのは、まず自分とは何か、自分自身の思想、思考、意見、表現を持ったうえで、ぶつかりあって、協働していくことなのです。没個性的スタイルが安定・成長をもたらす時代は終焉しています。

こうした課題に対して教育が担う役割はもちろん大きいですが、これは社会全体の話です。みんなが右のときに左を向いても、飛び出ても、それを排斥しない、むしろ称賛し受け入れる社会が必要なのです。Z世代を含む子どもに限らず、大人に対してもそうです。出る杭は伸ばす、みんな違う杭なのですから、どんどん違う方向に伸ばしていく。それが今後の世界をよりSustainableにします。しかしこれは「鶏が先か、卵が先か」の話で、そういう人がたくさん出てこないとそういう人を受け入れる社会はなかなか出来上がってこないし、そういう社会でないと飛び出る人はなかなか出てきません。

そんなわけで、ひとまずみんながどんどん卵になっていくことを提唱したいのです。一人一人が自分の創造性、エネルギーの源を発見してそれを表現すること、少なくともそれができると信じることから実現していきたいのです。「危険な道を選べ」とは、このことです。社会、親、あるいは上司がたとえ受け入れてくれない可能性があっても、自分の創造性を信じて突き進んでいく、お前には創造性なんかないよ、と言われても、あるんだ、と信じて生きていく。それが大切なのです。思っていないことは実現しません。逆に思っていればそれが自分の世界になります。みんな誰しも創造的なのです。自分なりの思考、思想、表現を持っています。

そのためにはまず自分を信じること、それからそういう風に信じて生きている(生きていた)人を見つけることです。岡本太郎氏もそうですし、私が知る限り藤倉大さん、勅使河原三郎さん、中島義道さん、みんなそうだと思います。書籍や作品に触れるだけでも大きく勇気をもらえると思います。芸術家や哲学者ばかりではありません。身の回りにも(日本には少ないと思いますが)探せばいると思います。私にもそういった友人がいます。探したら、その人とたくさん話すことです。自分の創造性を信じている人は、周りの人の創造性も信じているはずです。それから、なんでもいいから創造活動をしてみることです。陶芸でも、ダンスでも、文章でも、料理でも、何かものを作ること。習いに行くのではなく、0から自分でやってみる。はじめは怖いとか、何をやったらいいかわからないとか、そんな状況かもしれませんが、1か月もやってみれば、だんだん自分なりの個性が見えてくると思います。私は文章を書くし、絵も描くし、それからダンスと音楽もやります(でも料理は苦手です)。そうして面白がっていますし、新しい自分を常に発見しています。誰かにどう思われるかとかは気にしていません。

私たちは、生まれながらに創造的であり、生まれるということは世界を創造しているということです。日本人は、先の調査結果が示すように、強調し、和を以て貴しとなすスタイルが元来得意です。これは他の文化に少ないとても重要な強みです。こうした強みをベースに、一人一人が個々の創造性を信じられると、とても強いと思います。日本が沈みゆく可能性があるのは、人口構造のもたらす課題や、多様な産業の退廃だけが原因ではありません。仕組みや構造の課題は個々人のメンタルモデルと密接に絡み合っています。一人一人の創造性というエネルギーの枯渇は、あらゆる社会課題の、あらゆる個々人の持つ課題の根本にあるものです。8%という数字が物語るように、創造性の欠如の課題は既に変曲点を迎えていると感じます。これは喫緊の課題です。一人一人が、社会がそれぞれの創造性を信じられる世界になるには、今から多くの努力・対策が必要です。繰り返しになりますが、まずそのためには、一人一人が、「自分を信じ、創造的に生きている人に触れ、何らかの創作活動を継続してみる(少なくともそう努力する)」、ということだと思います。そうしてVisionaryな人々が増える。それがSustainableな世界にとって必要不可欠なことだと、私は思います。

もう逃げるのはやめにする。自分の考えを持つ、創造する、表現する、発信する、という覚悟

題目の通り、自分の考えを持つ、創造する、表現する、発信する覚悟を持ち始めている今日この頃です。
(他者への意図的な攻撃、批判や否定ではなく、自分の心から湧き出る考えや思いを表現したり創造したりする、という意味です。)

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特にここで言いたいのは、自分が生まれてきた意味や自分が心から突き動かされることについて考え続け、創造し続け、表現し続け、発信し続けることが大事だということです。決まった答えやこれだというものがなくても、現時点での想いを素直に表現することを勧めたい。全ての人に勧めたいですけれど、何よりも自分の大切な友人に対して伝えたいと思っています。

まず言葉の定義から。
・自分の考えを持つ⇒思考すること(頭の中で主体性をもって考える。あらゆる経験や知識を活かして考えること)
・創造する⇒思考の有無に関わらず新しいものを作ること。衝動的な創造欲に基づく創造も含む(詩、絵やダンスや音楽など、非言語)
・表現する⇒言語等の媒体を通して思考を整理、形式化、具現化すること(言葉、文章、詩、絵やダンスや音楽など、非言語も含む)
・発信する⇒表現をより広い人に向けて周知する(パフォーマンスを行う、表現の頻度・範囲が広い状態)
※最近ではSNS等により表現と発信が同一になっていることもあります

なぜ、考え・創造し、表現し、発信する、ということが重要なのか。それには3つの理由があります。
①自分の考え=世界がより深まるから(より深く考えようとするから)
②創造や表現に触れた相手の世界も広がるから
③人と人とがつながるから、共鳴できる相手に会う確率が上がるから

一方で考えないこと、創造しないこと、表現しないこと、発信しないことには下記のような損失があると考えられます。
①考えないことによる損失:流されて生きることになる⇒全て受け入れらればよいが総じて不満を持つ確率が上がる
②創造しないことによる損失:創造がどんどん遠いものになり、不健全になる
③表現しないことによる損失:自らの殻に閉じこもったままの未熟な思想で留まってしまう。周囲の人とのコミュニケーションにつながらない
④発信しないことによる損失:単純に共鳴し合う仲間に会える機会損失となる

「自分の考えを持つ」ことには「何かについて自分の頭の中で色んなことを反芻して組み替えて、ぐちゃぐちゃだけど、ぐちゃぐちゃなままでも考えつくす」ということに大きな価値があると思います。私がこうして書いている考えは、元をたどれば様々な本や人との出会い、経験から紡ぎ出されています。でも私がぐちゃぐちゃ考えていることが大切だと思っています。自らのみが経験できるものを基に思考し、整理することにこそ意味があると思うのです。「A」ということについて誰かが自発的に考えたときに、もうそれはアインシュタインが考えたことだから意味ないよとか、リンカーンが言ったことだから意味ないよとか、そういうことではなくて、その人がその人の文脈の中で「A」と考えたことに大きな価値があるのです。全ての人が、その人だけしか持ちえない知識や経験を通して、その人にしか考えられない思考回路、表現手法を持っています。誰もが違って当然です。一見何かと同じ、既に誰かがやったと見えることでも、自分の頭の中で反芻して組み替えて、ぐちゃぐちゃな状態で常に考え続けることが重要だと考えます。

そしてさらに、そのぐちゃぐちゃなものを表現することが大事なのだと思います。尊敬するコンテンポラリーダンサーの勅使河原三郎氏はよく「作品はお客さんあって初めて完成されます」と言いますが、それと同じことだと思います。これは思考の有無によらない創造についても同じことが言えます。
新しいものを創造するのは怖い。自分の想いを表現するのは怖い。批判に晒されることもあるし、カッコ悪いという意味不明なイメージもある。「自己顕示欲の塊みたぁい」とか、創造、表現、発信していることを冷めた目で見る慣習。文章の場合には自分の論理が破綻している可能性に対する恐れもあります。表現しない理由を挙げればキリがありません。でも、表現しない意味は特別な状況を除いてそんなにありません。一方で表現することの意味を私は生きていることと同義だと考えています。自分の考えを持ち、それを表現することは、何より深く自分自身で考え、自分なりの世界の捉え方があるということです。そしてそれは特別なことではなくて、誰でもができるし、誰でもが日々実践するべきことだと思います。子どもにだって、それはできます。寧ろ、社会的な枠組みにはまりきっていない子どもの言葉こそ、私たち大人に大きな影響を与えてくれると思います。また、そもそも創造することについては、人間の基本的欲求なんじゃないかな、と私は思っています。自己実現等は関係なく、子どもの頃からなんでもたくさん新しいもの作ってみたい、という欲求は誰にでもあるものだと。ところがこれが社会的枠組みの中でどんどんあれしちゃいけない、これしちゃいけない、という形で抑制されてしまうものなのだと思います。そしてついに忘れてしまうのではないかなと。思考に基づいているかどうかはさておき、創造こそ、その人にしかできないことです。というよりも、その人にしかできないから、創造なのです。最後の方でも述べますが、社会の枠組みの中でどう生きるか知った大人だからこそ、創造する価値があるのだと考えています。

そしてさらに広く発信すれば、思いもしない運命の出会いがあるかもしれません。批判や否定により多く出会うかもしれない。でも、発信しなければ何も生まれません。私は同調よりも、建設的な批判によって得られる価値の方が寧ろ高いと感じます。まさに自分の考えが深まり、物事はどんどん進むのです。世界は変わらないのかもしれませんが、自分が捉える世界は劇的に変わります。

岡本太郎氏はわかりやすく、こう言います。「危険な道を選べ」と。自分が「危険だ、やっぱりやめよう」という道は『自分が本来求めているが社会の枠組みと違う(=自分にしか考えられない)道』だとも言っています。だからこそ選ぶ意義があると。社会に対して挑戦しながら、創造する、自分の想いを表現していく。

「危険、怖い」と思うのは、その先に社会的な死を想起させるものが垣間見えるからです。批判を受け、否定され、評価されず、嫌われる、『かもしれない』という社会的な死に対する想起。そして自分の真の想いにフタをし続けて生きていく人が多すぎます。

もう逃げるのはやめにする。真の想いにフタをすることは、自らエントロピーを下げることです。不自然であり不健康です。みんなそれぞれが多かれ少なかれ自分ならではの考えを持っているのに、それを育てず表現せずに、日々流され諦めて生きるのは、もったいなさすぎるのです。

でも、嫌いな仕事をさぁやめようとか、嫌いな人とは付き合うのをやめようとか、そういうことではない、とも思っています。私には仕事に悩める多くの友人がいますが、いろんな状況があってやめられない、けど自分の真の気持ちとは違う、という彼女たちの気持ちがとてもよくわかります。私自身も5年間に渡りうんうん悩みながら転職を繰り返しました。社会の枠組みの中で苦しみ考え続けて、本当にやめたい人はやめるし、闘う人は闘う。決断というのは常に結果であり、大切なのは考え、創造し、表現し続けているプロセスの方です。

つまり私が勧めたいのは、まずちょっとした思考・創造・表現を続けるということです。ブログ、TwitterFacebook、絵、音楽、ダンス、詩、あるいは仕事で本当に思っていることを同僚や上司にぶつけてみる勇気を持つだけでも良いと思います。パートナーに、本当はいつもこう思っているよ、と素直に言ってみる。誰かに認められたいとか、好かれたいとか、他者に起点のある想いではなく、自らのために、自らの心から湧き上がる声を表現する。ほんの少しでよいから、自分の心の声に従って危険な道を選んでみる、ほんのちょっとだけ、はしごの足を踏み外してみる。その積み重ねで、いつかもっと自分の想いに素直になれるのだと思います。私も自分自身がまだまだもっと素直になれると信じています。社会という大きな力を知らないで自由に創造・表現する子どもでなく、社会の中でどう生きるかを身に着けた大人だからこそ、そのあとで創造する、危険な道を選ぶことに大きな意味があるのです。

既に作られてきた社会の枠組みを当然と思い、それに迎合するのはやめる。世界は理想郷ではない。今自分がこの世界にいるということは、世界に対して影響を与えているということです。とにかく思考し、表現する。一部の天才と自分を分ける意味はありません。誰もがその人にしかできない思考、創造、表現ができるのです。

冒頭に述べたように、最近、一部の友人たちが無暗に自分の感情を抑えつけて苦しんでいることや、社会の枠組みに従ってのみ思考し、予定調和的に同じことばかり言うことが、私にとって不可解であり、疑問、いらいら、もやもや、課題となっています。このようなAttitudeが日本社会の中でがん細胞のように増殖しているように見えてなりません。何が善いのか悪いのかということは判断できませんが、彼らが子どもの頃に有していた明るいエネルギーの10%も持ち合わせていないように見えます。優秀で裕福な人々ですが、仄暗く時に苦しそうに見えます。

一方で、裕福で『奥ゆかしい』日本文化で生きてきてからこそ、自分なりの思想、創造、表現を取り戻すことができれば、とても強くなれるのだと思います。私たちは空気を読み、配慮し合い、争いを嫌います。でもそれと表現しないことは別のことです。一度自由に創造、表現することに慣れれば、互いにより美しい創造、表現を生み出すことができると思います。加えて、自由に思考し表現できる権利は尊いということも忘れてはいけないと思います。世界には自由に表現したり発信したりすることを制限されている人もいるのです。

思考し、創造し、表現し、発信する。みんなで意見をぶつけ合う。
そのためにはまず自分自身が勇気を持つ、覚悟を持つ。
そして書いてみて、創造欲というものに新たに興味が湧いたので、今度はこれをテーマに書きたいと思います。

ベーシックインカムの可能性、お金がないから不幸なのではなく、お金にとらわれるから不幸なのである

最近立て続けに大変良いTED presentationを観ました。そして、ベーシックインカムの可能性に心をとらわれています。

ベーシックインカムとは、「国民の最低限度の生活を保障するため、国民一人一人に現金を給付する」という政策のコンセプトなのですが、仕事で最近教育や福祉のことを考えることが多いため、このモデルの可能性を感じているところです。ソーシャル・インパクト・ボンドだけでなく、常に新しく、革新的なことを考え、少しでも実践につなげたいと考えています。

ベーシックインカムの導入をすれば、いわゆる安全や安心の欲求が満たされない状態の経済的貧困にある人々が変わるだけでなく、安全や安心の欲求が満たされている人にとってもお金の概念を考え直す特効薬になるのではないかと考えているのです。

お金がないから不幸なのではない、必要以上にお金にとらわれるから不幸なのです。

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生産性が落ちるのでは、などの批判も多いベーシックインカムですが、AI等の劇的な発展により、そもそも働く必要があるのか?人間はなぜ生きているのか?といったもっと高い視座で議論をする必要があると考えています。そして私は、ベーシックインカムが全ての人が芸術家になることを可能とする一つの手段でもあるとも考えています。

さて、本論に入る前に、まずTEDを3本共有しておきます。とてもわかりやすく、面白いので観ることをお勧めします。

①Michael Green: What the Social Progress Index can reveal about your country
日本語版を貼っておきます

www.ted.com

②Michael Green: How We Can Make the World a Better Place by 2030
日本語版を貼っておきます。1本目と同じ人の。Social Progress Indexというシンプルな指標とSDGs達成の関係性を数値で表しています。数値に基づいての説明がとても興味深いです

www.ted.com
③Rutger Bregman: Poverty isn't a lack of character; it's a lack
3本目は英語版しかないので、こちらを。ベーシックインカムについてその意義をわかりやすく伝えています。彼は“UTOPIA for realists”というベーシックインカムに関する本を書いていてオランダではブームになっていたようです

www.ted.com

 

これらのMovieを観てまず考えることは、お金がお金が・・・って、「お金」という言葉をきちんと整理して考える必要があるのだ、ということです。10円か1億円かといった大きさはともかくとして、「お金」の概念を少なくとも3段階に分けて考えるべきだと思います。

①衣食住といった安全の最低保証のために必要なお金

②教育、情報や医療福祉といったWell-beingのために必要なお金

③それ以外の余暇・贅沢・楽しみ、といったことを享受するのに必要なお金
※ここで3番目をGreen氏のフレームワークでいうところの目標、夢、とならないのは、お金だけに注目すると必ずしも目標や夢につながらないからです。

そして、社会的なWell-beingを満たすためには①、②のお金がまず最低限必要で、加えて人生を豊かに、人間の尊厳を保って生きるためには、③のお金ではなく、「自らの意志」が必要なのだ、と私は理解しました。つまり、お金はあればあった方がそれは選択肢が広がるとは思うのですが、安全・健康な生活が保証される金銭があれば、その後人々が豊かかどうかを決定するのは金銭ではなく、「真の意志」なのだと思うのです。

お金、と意志、とについてブレークダウンして考えてみたいと思います。

まず、お金について考えます。
現在多くの人が考えている「お金」とは、①、②、をすっとばして、③、のことが多いのではないでしょうか?特に①、②をたまたま生まれた家庭のおかげで潤沢に享受してきている人たちは何も考えることなく、③のことばかり考えているように思います。事実、私もそういう側面をもっていた時期もありました。つまり、お金が稼げれば稼げるほど楽しいぜー、ぐへへー、みたいな感覚ですね。Simon Kuznetzが1930年ころに提唱した後、GDPという概念が人々にとっての「簡便な目標」として、この80年間の世界を牛耳ってきたのです。

その前にまず考えるべきは、①、②が保障されていない人がいる、ということです。昨今話題になっている子どもの貧困問題、ホームレスの問題や、日本だけでなく先進国でもオバマケアを筆頭に社会保障制度が議論の中心となることはまだまだあります。①、②が担保されていない場合、人々は目の前のことに必死になります。教育プログラムに参加して、「勉強って面白い、よし、勉強がんばって、ちゃんと良い高校にいくぞ」という風に思っても、明日のごはんが食べられるかがわからない、親は学費を出してくれないかもしれない、病気になっても病院に行くのを我慢しなければならない、となると、勉強が頑張るどころかまずはお金を稼がなければ、とか、勉強よりもまずはお金が大事だ、という思考回路になるでしょう。これはGreen氏が述べるように、(変曲点を迎えるブラジルの手前のカーブの)GDPの成長は一定数社会性の進歩に貢献する、ということです。これはまたBregman氏も言っていますが、努力、根性論の話なのではありません。貧困であるのが「彼らのせい」というのは、社会の中で生きる人間が持つ原理的な特性を無視した乱暴な意見です。ごく一部の人が努力で貧困を脱しますが、ほとんどの場合は生理的欲求、安全の欲求を満たさない限りは次のステップに行くのが困難なケースとなるでしょう。

ところで私はたまたま中産階級に生まれ、親に学費を出してもらって大学院までいった完全なすねかじりなのですが、、、実は自分の夢をいつもお金のせいにして諦めていたこともあります。①、②に困ることはなかったですが、「親が絶対にお金を出してくれないから」留学をあきらめる、ピアノを買うのをあきらめるなど、、、馬鹿みたいに見える欲望の塊ですが、自分にとっては満たされない思いでとにかく早く自立して稼げるようになりたい、といつも思っていました。(高校で禁止されているバイトを1週間だけやってみたり(すぐ親にばれて辞めさせられた)、大学院を途中でやめて就職しようとしてみたり(結局親に猛反対されて考えてやめた)、くだらないエピソードをたくさん持っています)。父親は特に厳しく、親の意思に反することをしようものなら、「家から出ていけ、生活は保障しない、学費はもちろん全て出さない」といった手段をとられたものです(別に恨んではいません)。思春期、青年期は「学費や生活費を全て親が出してくれているのだから、勉学にだけ励むのが当たり前、くだらない欲望は我慢」という禁欲主義的な考えが染みつきました。

そんな背景がありつつ、晴れて社会人になって企業できちんとお金を稼いでみると、初めて自分の意志を存分に発揮できるようになりました。初めて抑圧がない「自由意志」を発動した感覚です。海外旅行にいったり、ほしいものを買ったり、貯金したり、なんとも自立とはこういうことか、という晴れ晴れとした気分を味わったものです(つまり③のお金を自ら使用できるようになった)。そしてしばらくして初めて、さて「夢」とは「目標」とは「人生」とはなんだったのかを改めて考えるようになりました。小さいころからなぜ生きるのか、なぜ死んではいけないのかをずっと考えていたので、自然な流れだったのですが、ここで初めて書物の上の話ではなく、自分の人生として、自らの知覚として、「なぜ生きるのか」を猛烈に考え直し始めたのです。マズローの欲求5段階説でいうと、自己実現を求め始めたのですね。ここで初めて、③のお金の話ではなく、本当の自らの意志に対して向き合うことになったのです。

さて、ようやくここにきて「自らの意志」についてを整理したいと思います。
ここで一旦考えたいのは「マズロー欲求6段階説」です(マズローは晩年に「自己超越」の第6番目の欲求階層を追加しています)。必ずしも順番で欲求が満たされるわけではないとも言いますが、整理する必要があります。考えれば考えるほど、「こうした人間の基本的な欲求を、どのように満たすか」、「どこまでを人間の権利として保障するのか」ということが政策や税金の使い道をどうするのか、ということなのだとも思えてきます。

私の意見としては、生理的欲求及び安全・安心の欲求は、権利として保障されるべきであり、そのために税金が投入されるべきだと考えています。つまり、上の議論でいう言うところのまず①は政府によって保障されるべきだ、という考えです。衣食住が生まれた環境に関わらずに保障される。これは人間が生まれ持った基本的な人権と考えます(もちろんその程度は議論すべきで、そこが難しいのですが)。加えて、人は「考え、そして発信する」権利を有している、と私は考えます。これは欲求階層でいうところの、社会的欲求よりも高次の欲求に縦断的に関わるものです。考えて初めて人間であり、言語を有し複雑な社会を築き上げる中で生きるためには、思考能力を養い、それを発することが不可欠です。考えれば考えるほど、意見をぶつけあえばぶつけ合うほど、健全な人間、社会となり、より種の保存に有利と考えます(これは障害の有無に関わらず当然権利として保障されるべきです)。よって、この健全に「考える」を権利として保障するためには、医療福祉、教育や情報に関しても、税金投入がされるべきと考えます。「私は教育が受けられるからそれでいい、他の人には考える権利がなくてよいのだ」といった考え方は、初めから格差を助長する考えであり、「自分さえよければよい」という持続可能性の低い思想であると言えます。

さて、こうして上述の概念でいうところの①、②に税金投入がされるべきだ、という考えを述べました。これは、社会全体の意志として必要なのです。社会全体が、「①、②をすべての人の権利として保障するよ」という意思表示として、政策として執行することが重要だと考えます。一方で、近年そのサービスの質と税金投入額は必ずしも比例するものではないことにも留意が必要です。IT等の発展により、同等の投資でかなり効率のよい効果的なサービス提供が可能となってきています。あくまで、「社会全体の意志として」税金が投入されるべきだ、という考えです。

マズロー欲求階層に戻りましょう。①、②の後にくるのは承認欲求自己実現欲求です。思考能力や表現のために必要なこと(教育等)は保障されるべきですが、これはわかりやすく資金を投入し、サービスで保障できる話ではなくなってきます。「認められたい」「達成したい」という想いは、外的サポートで達成できるものではありません。ましてや経済的支援が直接的な要因とはなりえません。つまりここからが「お金にとらわれるべきでない」ポイントとなってくると考えます。そもそも個人に属するお金とは信頼の形でしかないのです。衣食住や、考える能力を養うためのツールを、そもそも「信頼」によって買う、という話はおかしなことです。はじめから保障されているべきでしょう。一方で承認欲求自己実現欲求は、「時間×能力(仕事)」をどのくらいかけて「何かを生み出したか」という結果満たされるものなのですが、概して「お金」がこの「信頼」を肩代わりしてくれます。よって、転じて人は「お金を持っていると認められる・自己実現できている」と誤認しがちです。行う仕事の内容はとにかく何でもよいから、たくさんお金が稼げればそれでよいのだ、という誤認です。また、ブランドの品物や車を持っていることでステータスを満たしたいという場合もありますが、これらは常に承認の基準が「外」にあるため、根本的には自分自身が満たされているわけではありません。本当に自分自身が満たされるためには、自分自身が「(お金以外の)何かを生み出した」という実感が必要なのです。お金はあくまで換算です。お金を多く勝ち取れば勝ち取る程、多様なことに挑戦できるのもまたお金の醍醐味ではありますが、それが目的になっては、いつまでたっても自己実現欲求、ましてや自己超越欲求を満たすことはできないでしょう。

ばらばらと書きましたが、一度ベーシックインカムの概念を持ち出して、再度整理しましょう。

ベーシックインカムが導入されれば、全ての人が①と②の保障がされると考えましょう。その場合、次に人間が出会う欲求は社会的承認や自己実現です。この時、今まで通り「時間×能力(仕事)=金」の方程式だけに則って、ひたすら仕事をし続けることも可能です。一方で、この考えは人間が生きる上で「必要以上にお金に執着して」いるとも言え、実質的に自己実現を永遠に満たせないドグマの中にいるとも言えます。ベーシックインカムがうまく活用されれば、衣食住や思考能力が脅かされない状況になった上で、金の概念及び必要性を整理して考えることができ、「金」を得ることに必要以上に執着する必要がなくなるでしょう。自己実現、そして自己超越の実現へとつながる可能性があります。私には社会全体の健全な発展が目に浮かびます。もちろん単純にベーシックインカムが導入されたからと言って、お金の呪縛から解き放たれると考えるのは乱暴だと思います。そのためにも、まずは小規模地域で実験的に、活用してみる必要性があるのです。やりたいと思っています。まだまだ思考も浅いのですが、心理学的な側面への影響と政策としての実行可能性を引き続き整理して考えていきたいです。

さらに、私の野望としてもう一つ、ベーシックインカムと合わせて導入すべきだと考える「Creativity への探求」というものがありますが、長くなったのでひとまずここで終わりにし、次の機会にきちんと書こうと思います。

全ての人が芸術家になるべきである

「全ての人が芸術家になるべきである」と、岡本太郎は言っています。
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これは全ての人が自らのエネルギーの源にアクセスできるようになり、それを表現する力を得ていることだと、私は認識しています。そして今の(特に日本)社会にとって最も不足している力だと思っています。
全ての人が芸術家になるべきである。
何が自分のPassionなのか、
何が自分を真に感動させるのか、
経済的指標や社会的地位を全て投げ去ったときに、自分は何に揺さぶられるのか
そして何を生み出し、周囲を感動させることができるのか
全ての人が、それぞれ自らのエネルギー発動源を持っていると信じています。そしてその表現手段もそれぞれだと思います。
まずはそれを探す、探す努力をする、それを表現する、ということから始める必要があると思います。
それにはまず多くの人が「社会・自分自身の枠組み・自分自身と闘っている、かつそれが表れている」人(=芸術家)を多く認知することが重要です。そしてそれに動かされ、いずれは(すぐにでも)自分自身でエネルギーを創り出せるようになっていくと思います。
 
私のエネルギーの源は、研究(知的探求)と、コンテンポラリーダンス(コミュニティ創生ダンス)にあります。
そんなわけで、、、ダンサーの友人とコンテンポラリーダンスフラッシュモブを7月8日(土)午前中にやります。興味がある人は連絡ください!一緒にやりましょう!

人、即、宇宙、岡本太郎に続く

 相変わらずこの2週間ほど、岡本太郎にはまっている。美しい文章、まっすぐな心、彼の哲学から学ぶことが多い。(異なる本の中に同じエピソードは多いが、何度読んでも心に響く)

 

 私が好きな内容を、かいつまんで書き直してみる。

 

 ①世界は変えられないが、自分自身は変えられる。自分というミクロ宇宙。存在はささやかでも、猛烈に彩らせる。これが人、即、宇宙ということである。

 

 ②瞬間瞬間「死」を意識し、危険な道に挑み続ける。そうして「生」を猛烈に咲かせるのである。

 

 ③孤立無援、孤独の目を貫き通す。運動とは、まったく孤独な自立した個人個人がある共通の目標をもって共にたたくことであり、お互いを突っ放したうえでの同士であり、もたれあいではない。

 

 いずれも現状の自分をぐさーっと突き抜ける言葉であるが、特に好きなのは、③である。互いを突っ放して、意見をぶつけ合って、腹を割って、たくさん話して初めて同士となれる。最近の仕事仲間のなれ合いは特に嫌いで、ぐぇーっと思う。
 私の最近のテーマは、危険な道に挑み続けて、走り続けることなのだけど、加えて友だちがほしい、ということもある。岡本太郎のように、思っていることを腹の底からお互いにぶつけられる友、同士がほしい。(なれあい、とか、徒党を組む、とうい意味ではなくて)

 

 少し話がそれたけれど、岡本太郎氏の死後、もう21年が経つけれど、彼の信念は、人として絶対的に美しく、素朴で心を動かす。

 私(たち)は、こうした岡本太郎氏の言葉に感動するだけではなくて、一瞬一瞬をまさに「爆発」して「生きる」ことが求められていると思う。広がるアンチイズム、極端な利潤追求による自己表現の枯渇や全く頭を使わない枠組み思考、うつ病を始めとする拡がる閉塞感、等々。子どもの貧困、若者のニート化、高齢者の孤独、といった社会課題は表層的なものにすぎないと思う。そうした課題に一つ一つ取り組むことはもちろん大切であるが、私が取り組みたいのは、個人個人の人生観の欠落、という課題である。自分自身も考え続けているけれど、全ての人が、自分のエネルギーの源にアクセスできる世界にしたい。「生きる」において、全ての人がまさに爆発的な正のエネルギーに触れられる世界をつくりたい。私の場合はコンテンポラリーダンスであり、岡本太郎氏の言葉であるが、全ての人が人生観の中にそうした「爆発的なエネルギー」を持っている世界。太郎氏のように人生をそのまま危険にさらし続け、社会的死さえ覚悟するところまで私は至れていないが、自分の信念に素直に、純粋に、エネルギーの源にアクセスし続けながら、放ち、生き、咲いていきたい。日々瞬間、そう決意している。全ての人が、せめて、そうしたエネルギーにアクセスできる世界にしたい。

 

 生きる、生きる、考えて、考えて、生きる

それでも日々生きる、そして歓喜を探し続ける

岡本太郎氏にはまりすぎて、やばい。

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はまりすぎて一般生活が苦しくて仕方なくなります。

自分の心に、信念に正直であることは、社会的には実はとても苦しいことがある、というのがよくわかってきます。

でも仕事はするし、自分の好きなことは探し続けるし、自分の好きなことはやり続ける。でも、仕事はする。そして自分の歓喜を探す。

そうしてたまに鬱になりかけて、夜泣きながら眠れなくなったり、ものすごくエネルギーがわくような出来事に遭遇して、改めて自分の生きる意味をかみしめたり、転じて生きることが実感できたり、そんな感じです。

根本的には人間は変わらない。小さなころからの思考のループなんて、ほとんど変わっていないんじゃないか、と思う。変える必要はないけど、でもそういうものだ、という認識は大事なんじゃないかと思う。

例えば私の場合は、小さいころからこういうことばっかり考えている。人はなんで生きているのか、なんで死んではいけないのか、好きなことをしたい、でも好きなことをするにはたくさんの社会的制約がある、云々。

私はずっとそんなことばっかり考えている。その上社会的成功や名誉や、地位や、お金を期待し続けてきた。今でも少しそういうところはある(比較論)。そしてばーん、とバランスを崩す。死にたい、とか、傷つきたい、とか、そういったことを本気で思う。そしていつも同じように、やらなければならないことに没頭したりして、また再び歓喜の淵を見る。本当にやりたいことなんて永遠にだれもわからないかもしれないけれど、本当に喜びを生み出し、感じていることをやっているうちは、わかるとか、わからないとか、そういうことではない。いちいち社会的云々とか、考えないものだ。

加えて、最近は特に成功したい、とかこれが幸せ、とか、そういう感情ではなく、もっと自分のことをよく知りたいな、と思うようになった。そして、その中でも歓喜を、エネルギーを自分自身に生み出すための生き方を模索するようになった。

そもそも自分のことが全然わかっていない。一体誰なんだろう、と痛烈に思うようになった。

生きることは喜びを発掘し、生み出し、伝えること。

まだまだよくわからないのだけれど、ただ一つ明確なことは、喜びの源にアクセスし続け、歓喜を生み出し続け、それを共有するということ。

それが私ができること。

挑戦し続ける、危険な道を選び続ける、はしごの足を外し続ける

何がしたいかわからない、

と思って始めたこのブログ。

それでも走り続けるのである、

と思って始めたこのブログ。

最近の帰結は、わからなかろうが、なんだろうが、わからないならわからないでまずは認めて、自分の心に素直に、

「挑戦し続ける、危険な道を選び続ける、はしごの足を外し続ける」

のです。

仕事で悩んでいた週末、自分がこういう発言をしていたら、友人が岡本太郎の「自分の中に毒を持て」をすすめてくれた。

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これは本当に、ここ最近自分が思っていたことと全く同じことを、美しく言語化してくれている。Taro Okamotoがすごすぎる。

彼の作品を見たことは何度もあるけれど、彼の壮絶な信念やまさに「Philosophy」がこうも美しいものだとは知らなかった。知らなかったことが悔しい。

全ての生ぬるい現代人に、必ず読んでほしい良書。

本当に。

自分自身も生ぬるくて、口先だけで語っていて、本当に恥ずかしい。

自分と闘い続ける、社会と闘い続ける。社会なんて簡単に変わらない、変えられない。

でも、自分が社会を変えようと、世界を変えようと動いていけば、自分が変わり、その結果世界が変わるんだ。

生まれてきたとはそういうことだ。

自分の中に目的を見出すことも大事だが、それは自分のエネルギーを湧き起らせることだ。自分のエネルギーを毎日爆発させることだ。

そのためには、自分の地位とか、名誉とか、お金とか、そんなものはない方がよい。成功とか、ない方がよい。

私たちは、生身で、どうしようもなく非合理で、矛盾を抱えた世界を、自分自身で作り上げているのだ。

だから、毎日、

「挑戦し続ける、危険な道を選び続ける、はしごの足を外し続ける」

それが、生まれてきた意味を日々感じさせてくれる、唯一の精神であり、方法であると、そんな風に思います。