何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

ベーシックインカムの可能性、お金がないから不幸なのではなく、お金にとらわれるから不幸なのである

最近立て続けに大変良いTED presentationを観ました。そして、ベーシックインカムの可能性に心をとらわれています。

ベーシックインカムとは、「国民の最低限度の生活を保障するため、国民一人一人に現金を給付する」という政策のコンセプトなのですが、仕事で最近教育や福祉のことを考えることが多いため、このモデルの可能性を感じているところです。ソーシャル・インパクト・ボンドだけでなく、常に新しく、革新的なことを考え、少しでも実践につなげたいと考えています。

ベーシックインカムの導入をすれば、いわゆる安全や安心の欲求が満たされない状態の経済的貧困にある人々が変わるだけでなく、安全や安心の欲求が満たされている人にとってもお金の概念を考え直す特効薬になるのではないかと考えているのです。

お金がないから不幸なのではない、必要以上にお金にとらわれるから不幸なのです。

f:id:chikata0329:20170709121842j:plain

生産性が落ちるのでは、などの批判も多いベーシックインカムですが、AI等の劇的な発展により、そもそも働く必要があるのか?人間はなぜ生きているのか?といったもっと高い視座で議論をする必要があると考えています。そして私は、ベーシックインカムが全ての人が芸術家になることを可能とする一つの手段でもあるとも考えています。

さて、本論に入る前に、まずTEDを3本共有しておきます。とてもわかりやすく、面白いので観ることをお勧めします。

①Michael Green: What the Social Progress Index can reveal about your country
日本語版を貼っておきます

www.ted.com

②Michael Green: How We Can Make the World a Better Place by 2030
日本語版を貼っておきます。1本目と同じ人の。Social Progress Indexというシンプルな指標とSDGs達成の関係性を数値で表しています。数値に基づいての説明がとても興味深いです

www.ted.com
③Rutger Bregman: Poverty isn't a lack of character; it's a lack
3本目は英語版しかないので、こちらを。ベーシックインカムについてその意義をわかりやすく伝えています。彼は“UTOPIA for realists”というベーシックインカムに関する本を書いていてオランダではブームになっていたようです

www.ted.com

 

これらのMovieを観てまず考えることは、お金がお金が・・・って、「お金」という言葉をきちんと整理して考える必要があるのだ、ということです。10円か1億円かといった大きさはともかくとして、「お金」の概念を少なくとも3段階に分けて考えるべきだと思います。

①衣食住といった安全の最低保証のために必要なお金

②教育、情報や医療福祉といったWell-beingのために必要なお金

③それ以外の余暇・贅沢・楽しみ、といったことを享受するのに必要なお金
※ここで3番目をGreen氏のフレームワークでいうところの目標、夢、とならないのは、お金だけに注目すると必ずしも目標や夢につながらないからです。

そして、社会的なWell-beingを満たすためには①、②のお金がまず最低限必要で、加えて人生を豊かに、人間の尊厳を保って生きるためには、③のお金ではなく、「自らの意志」が必要なのだ、と私は理解しました。つまり、お金はあればあった方がそれは選択肢が広がるとは思うのですが、安全・健康な生活が保証される金銭があれば、その後人々が豊かかどうかを決定するのは金銭ではなく、「真の意志」なのだと思うのです。

お金、と意志、とについてブレークダウンして考えてみたいと思います。

まず、お金について考えます。
現在多くの人が考えている「お金」とは、①、②、をすっとばして、③、のことが多いのではないでしょうか?特に①、②をたまたま生まれた家庭のおかげで潤沢に享受してきている人たちは何も考えることなく、③のことばかり考えているように思います。事実、私もそういう側面をもっていた時期もありました。つまり、お金が稼げれば稼げるほど楽しいぜー、ぐへへー、みたいな感覚ですね。Simon Kuznetzが1930年ころに提唱した後、GDPという概念が人々にとっての「簡便な目標」として、この80年間の世界を牛耳ってきたのです。

その前にまず考えるべきは、①、②が保障されていない人がいる、ということです。昨今話題になっている子どもの貧困問題、ホームレスの問題や、日本だけでなく先進国でもオバマケアを筆頭に社会保障制度が議論の中心となることはまだまだあります。①、②が担保されていない場合、人々は目の前のことに必死になります。教育プログラムに参加して、「勉強って面白い、よし、勉強がんばって、ちゃんと良い高校にいくぞ」という風に思っても、明日のごはんが食べられるかがわからない、親は学費を出してくれないかもしれない、病気になっても病院に行くのを我慢しなければならない、となると、勉強が頑張るどころかまずはお金を稼がなければ、とか、勉強よりもまずはお金が大事だ、という思考回路になるでしょう。これはGreen氏が述べるように、(変曲点を迎えるブラジルの手前のカーブの)GDPの成長は一定数社会性の進歩に貢献する、ということです。これはまたBregman氏も言っていますが、努力、根性論の話なのではありません。貧困であるのが「彼らのせい」というのは、社会の中で生きる人間が持つ原理的な特性を無視した乱暴な意見です。ごく一部の人が努力で貧困を脱しますが、ほとんどの場合は生理的欲求、安全の欲求を満たさない限りは次のステップに行くのが困難なケースとなるでしょう。

ところで私はたまたま中産階級に生まれ、親に学費を出してもらって大学院までいった完全なすねかじりなのですが、、、実は自分の夢をいつもお金のせいにして諦めていたこともあります。①、②に困ることはなかったですが、「親が絶対にお金を出してくれないから」留学をあきらめる、ピアノを買うのをあきらめるなど、、、馬鹿みたいに見える欲望の塊ですが、自分にとっては満たされない思いでとにかく早く自立して稼げるようになりたい、といつも思っていました。(高校で禁止されているバイトを1週間だけやってみたり(すぐ親にばれて辞めさせられた)、大学院を途中でやめて就職しようとしてみたり(結局親に猛反対されて考えてやめた)、くだらないエピソードをたくさん持っています)。父親は特に厳しく、親の意思に反することをしようものなら、「家から出ていけ、生活は保障しない、学費はもちろん全て出さない」といった手段をとられたものです(別に恨んではいません)。思春期、青年期は「学費や生活費を全て親が出してくれているのだから、勉学にだけ励むのが当たり前、くだらない欲望は我慢」という禁欲主義的な考えが染みつきました。

そんな背景がありつつ、晴れて社会人になって企業できちんとお金を稼いでみると、初めて自分の意志を存分に発揮できるようになりました。初めて抑圧がない「自由意志」を発動した感覚です。海外旅行にいったり、ほしいものを買ったり、貯金したり、なんとも自立とはこういうことか、という晴れ晴れとした気分を味わったものです(つまり③のお金を自ら使用できるようになった)。そしてしばらくして初めて、さて「夢」とは「目標」とは「人生」とはなんだったのかを改めて考えるようになりました。小さいころからなぜ生きるのか、なぜ死んではいけないのかをずっと考えていたので、自然な流れだったのですが、ここで初めて書物の上の話ではなく、自分の人生として、自らの知覚として、「なぜ生きるのか」を猛烈に考え直し始めたのです。マズローの欲求5段階説でいうと、自己実現を求め始めたのですね。ここで初めて、③のお金の話ではなく、本当の自らの意志に対して向き合うことになったのです。

さて、ようやくここにきて「自らの意志」についてを整理したいと思います。
ここで一旦考えたいのは「マズロー欲求6段階説」です(マズローは晩年に「自己超越」の第6番目の欲求階層を追加しています)。必ずしも順番で欲求が満たされるわけではないとも言いますが、整理する必要があります。考えれば考えるほど、「こうした人間の基本的な欲求を、どのように満たすか」、「どこまでを人間の権利として保障するのか」ということが政策や税金の使い道をどうするのか、ということなのだとも思えてきます。

私の意見としては、生理的欲求及び安全・安心の欲求は、権利として保障されるべきであり、そのために税金が投入されるべきだと考えています。つまり、上の議論でいう言うところのまず①は政府によって保障されるべきだ、という考えです。衣食住が生まれた環境に関わらずに保障される。これは人間が生まれ持った基本的な人権と考えます(もちろんその程度は議論すべきで、そこが難しいのですが)。加えて、人は「考え、そして発信する」権利を有している、と私は考えます。これは欲求階層でいうところの、社会的欲求よりも高次の欲求に縦断的に関わるものです。考えて初めて人間であり、言語を有し複雑な社会を築き上げる中で生きるためには、思考能力を養い、それを発することが不可欠です。考えれば考えるほど、意見をぶつけあえばぶつけ合うほど、健全な人間、社会となり、より種の保存に有利と考えます(これは障害の有無に関わらず当然権利として保障されるべきです)。よって、この健全に「考える」を権利として保障するためには、医療福祉、教育や情報に関しても、税金投入がされるべきと考えます。「私は教育が受けられるからそれでいい、他の人には考える権利がなくてよいのだ」といった考え方は、初めから格差を助長する考えであり、「自分さえよければよい」という持続可能性の低い思想であると言えます。

さて、こうして上述の概念でいうところの①、②に税金投入がされるべきだ、という考えを述べました。これは、社会全体の意志として必要なのです。社会全体が、「①、②をすべての人の権利として保障するよ」という意思表示として、政策として執行することが重要だと考えます。一方で、近年そのサービスの質と税金投入額は必ずしも比例するものではないことにも留意が必要です。IT等の発展により、同等の投資でかなり効率のよい効果的なサービス提供が可能となってきています。あくまで、「社会全体の意志として」税金が投入されるべきだ、という考えです。

マズロー欲求階層に戻りましょう。①、②の後にくるのは承認欲求自己実現欲求です。思考能力や表現のために必要なこと(教育等)は保障されるべきですが、これはわかりやすく資金を投入し、サービスで保障できる話ではなくなってきます。「認められたい」「達成したい」という想いは、外的サポートで達成できるものではありません。ましてや経済的支援が直接的な要因とはなりえません。つまりここからが「お金にとらわれるべきでない」ポイントとなってくると考えます。そもそも個人に属するお金とは信頼の形でしかないのです。衣食住や、考える能力を養うためのツールを、そもそも「信頼」によって買う、という話はおかしなことです。はじめから保障されているべきでしょう。一方で承認欲求自己実現欲求は、「時間×能力(仕事)」をどのくらいかけて「何かを生み出したか」という結果満たされるものなのですが、概して「お金」がこの「信頼」を肩代わりしてくれます。よって、転じて人は「お金を持っていると認められる・自己実現できている」と誤認しがちです。行う仕事の内容はとにかく何でもよいから、たくさんお金が稼げればそれでよいのだ、という誤認です。また、ブランドの品物や車を持っていることでステータスを満たしたいという場合もありますが、これらは常に承認の基準が「外」にあるため、根本的には自分自身が満たされているわけではありません。本当に自分自身が満たされるためには、自分自身が「(お金以外の)何かを生み出した」という実感が必要なのです。お金はあくまで換算です。お金を多く勝ち取れば勝ち取る程、多様なことに挑戦できるのもまたお金の醍醐味ではありますが、それが目的になっては、いつまでたっても自己実現欲求、ましてや自己超越欲求を満たすことはできないでしょう。

ばらばらと書きましたが、一度ベーシックインカムの概念を持ち出して、再度整理しましょう。

ベーシックインカムが導入されれば、全ての人が①と②の保障がされると考えましょう。その場合、次に人間が出会う欲求は社会的承認や自己実現です。この時、今まで通り「時間×能力(仕事)=金」の方程式だけに則って、ひたすら仕事をし続けることも可能です。一方で、この考えは人間が生きる上で「必要以上にお金に執着して」いるとも言え、実質的に自己実現を永遠に満たせないドグマの中にいるとも言えます。ベーシックインカムがうまく活用されれば、衣食住や思考能力が脅かされない状況になった上で、金の概念及び必要性を整理して考えることができ、「金」を得ることに必要以上に執着する必要がなくなるでしょう。自己実現、そして自己超越の実現へとつながる可能性があります。私には社会全体の健全な発展が目に浮かびます。もちろん単純にベーシックインカムが導入されたからと言って、お金の呪縛から解き放たれると考えるのは乱暴だと思います。そのためにも、まずは小規模地域で実験的に、活用してみる必要性があるのです。やりたいと思っています。まだまだ思考も浅いのですが、心理学的な側面への影響と政策としての実行可能性を引き続き整理して考えていきたいです。

さらに、私の野望としてもう一つ、ベーシックインカムと合わせて導入すべきだと考える「Creativity への探求」というものがありますが、長くなったのでひとまずここで終わりにし、次の機会にきちんと書こうと思います。

全ての人が芸術家になるべきである

「全ての人が芸術家になるべきである」と、岡本太郎は言っています。
f:id:chikata0329:20170702102422j:plain
これは全ての人が自らのエネルギーの源にアクセスできるようになり、それを表現する力を得ていることだと、私は認識しています。そして今の(特に日本)社会にとって最も不足している力だと思っています。
全ての人が芸術家になるべきである。
何が自分のPassionなのか、
何が自分を真に感動させるのか、
経済的指標や社会的地位を全て投げ去ったときに、自分は何に揺さぶられるのか
そして何を生み出し、周囲を感動させることができるのか
全ての人が、それぞれ自らのエネルギー発動源を持っていると信じています。そしてその表現手段もそれぞれだと思います。
まずはそれを探す、探す努力をする、それを表現する、ということから始める必要があると思います。
それにはまず多くの人が「社会・自分自身の枠組み・自分自身と闘っている、かつそれが表れている」人(=芸術家)を多く認知することが重要です。そしてそれに動かされ、いずれは(すぐにでも)自分自身でエネルギーを創り出せるようになっていくと思います。
 
私のエネルギーの源は、研究(知的探求)と、コンテンポラリーダンス(コミュニティ創生ダンス)にあります。
そんなわけで、、、ダンサーの友人とコンテンポラリーダンスフラッシュモブを7月8日(土)午前中にやります。興味がある人は連絡ください!一緒にやりましょう!

人、即、宇宙、岡本太郎に続く

 相変わらずこの2週間ほど、岡本太郎にはまっている。美しい文章、まっすぐな心、彼の哲学から学ぶことが多い。(異なる本の中に同じエピソードは多いが、何度読んでも心に響く)

 

 私が好きな内容を、かいつまんで書き直してみる。

 

 ①世界は変えられないが、自分自身は変えられる。自分というミクロ宇宙。存在はささやかでも、猛烈に彩らせる。これが人、即、宇宙ということである。

 

 ②瞬間瞬間「死」を意識し、危険な道に挑み続ける。そうして「生」を猛烈に咲かせるのである。

 

 ③孤立無援、孤独の目を貫き通す。運動とは、まったく孤独な自立した個人個人がある共通の目標をもって共にたたくことであり、お互いを突っ放したうえでの同士であり、もたれあいではない。

 

 いずれも現状の自分をぐさーっと突き抜ける言葉であるが、特に好きなのは、③である。互いを突っ放して、意見をぶつけ合って、腹を割って、たくさん話して初めて同士となれる。最近の仕事仲間のなれ合いは特に嫌いで、ぐぇーっと思う。
 私の最近のテーマは、危険な道に挑み続けて、走り続けることなのだけど、加えて友だちがほしい、ということもある。岡本太郎のように、思っていることを腹の底からお互いにぶつけられる友、同士がほしい。(なれあい、とか、徒党を組む、とうい意味ではなくて)

 

 少し話がそれたけれど、岡本太郎氏の死後、もう21年が経つけれど、彼の信念は、人として絶対的に美しく、素朴で心を動かす。

 私(たち)は、こうした岡本太郎氏の言葉に感動するだけではなくて、一瞬一瞬をまさに「爆発」して「生きる」ことが求められていると思う。広がるアンチイズム、極端な利潤追求による自己表現の枯渇や全く頭を使わない枠組み思考、うつ病を始めとする拡がる閉塞感、等々。子どもの貧困、若者のニート化、高齢者の孤独、といった社会課題は表層的なものにすぎないと思う。そうした課題に一つ一つ取り組むことはもちろん大切であるが、私が取り組みたいのは、個人個人の人生観の欠落、という課題である。自分自身も考え続けているけれど、全ての人が、自分のエネルギーの源にアクセスできる世界にしたい。「生きる」において、全ての人がまさに爆発的な正のエネルギーに触れられる世界をつくりたい。私の場合はコンテンポラリーダンスであり、岡本太郎氏の言葉であるが、全ての人が人生観の中にそうした「爆発的なエネルギー」を持っている世界。太郎氏のように人生をそのまま危険にさらし続け、社会的死さえ覚悟するところまで私は至れていないが、自分の信念に素直に、純粋に、エネルギーの源にアクセスし続けながら、放ち、生き、咲いていきたい。日々瞬間、そう決意している。全ての人が、せめて、そうしたエネルギーにアクセスできる世界にしたい。

 

 生きる、生きる、考えて、考えて、生きる

それでも日々生きる、そして歓喜を探し続ける

岡本太郎氏にはまりすぎて、やばい。

f:id:chikata0329:20170612173113j:plain

はまりすぎて一般生活が苦しくて仕方なくなります。

自分の心に、信念に正直であることは、社会的には実はとても苦しいことがある、というのがよくわかってきます。

でも仕事はするし、自分の好きなことは探し続けるし、自分の好きなことはやり続ける。でも、仕事はする。そして自分の歓喜を探す。

そうしてたまに鬱になりかけて、夜泣きながら眠れなくなったり、ものすごくエネルギーがわくような出来事に遭遇して、改めて自分の生きる意味をかみしめたり、転じて生きることが実感できたり、そんな感じです。

根本的には人間は変わらない。小さなころからの思考のループなんて、ほとんど変わっていないんじゃないか、と思う。変える必要はないけど、でもそういうものだ、という認識は大事なんじゃないかと思う。

例えば私の場合は、小さいころからこういうことばっかり考えている。人はなんで生きているのか、なんで死んではいけないのか、好きなことをしたい、でも好きなことをするにはたくさんの社会的制約がある、云々。

私はずっとそんなことばっかり考えている。その上社会的成功や名誉や、地位や、お金を期待し続けてきた。今でも少しそういうところはある(比較論)。そしてばーん、とバランスを崩す。死にたい、とか、傷つきたい、とか、そういったことを本気で思う。そしていつも同じように、やらなければならないことに没頭したりして、また再び歓喜の淵を見る。本当にやりたいことなんて永遠にだれもわからないかもしれないけれど、本当に喜びを生み出し、感じていることをやっているうちは、わかるとか、わからないとか、そういうことではない。いちいち社会的云々とか、考えないものだ。

加えて、最近は特に成功したい、とかこれが幸せ、とか、そういう感情ではなく、もっと自分のことをよく知りたいな、と思うようになった。そして、その中でも歓喜を、エネルギーを自分自身に生み出すための生き方を模索するようになった。

そもそも自分のことが全然わかっていない。一体誰なんだろう、と痛烈に思うようになった。

生きることは喜びを発掘し、生み出し、伝えること。

まだまだよくわからないのだけれど、ただ一つ明確なことは、喜びの源にアクセスし続け、歓喜を生み出し続け、それを共有するということ。

それが私ができること。

挑戦し続ける、危険な道を選び続ける、はしごの足を外し続ける

何がしたいかわからない、

と思って始めたこのブログ。

それでも走り続けるのである、

と思って始めたこのブログ。

最近の帰結は、わからなかろうが、なんだろうが、わからないならわからないでまずは認めて、自分の心に素直に、

「挑戦し続ける、危険な道を選び続ける、はしごの足を外し続ける」

のです。

仕事で悩んでいた週末、自分がこういう発言をしていたら、友人が岡本太郎の「自分の中に毒を持て」をすすめてくれた。

Amazon CAPTCHA

これは本当に、ここ最近自分が思っていたことと全く同じことを、美しく言語化してくれている。Taro Okamotoがすごすぎる。

彼の作品を見たことは何度もあるけれど、彼の壮絶な信念やまさに「Philosophy」がこうも美しいものだとは知らなかった。知らなかったことが悔しい。

全ての生ぬるい現代人に、必ず読んでほしい良書。

本当に。

自分自身も生ぬるくて、口先だけで語っていて、本当に恥ずかしい。

自分と闘い続ける、社会と闘い続ける。社会なんて簡単に変わらない、変えられない。

でも、自分が社会を変えようと、世界を変えようと動いていけば、自分が変わり、その結果世界が変わるんだ。

生まれてきたとはそういうことだ。

自分の中に目的を見出すことも大事だが、それは自分のエネルギーを湧き起らせることだ。自分のエネルギーを毎日爆発させることだ。

そのためには、自分の地位とか、名誉とか、お金とか、そんなものはない方がよい。成功とか、ない方がよい。

私たちは、生身で、どうしようもなく非合理で、矛盾を抱えた世界を、自分自身で作り上げているのだ。

だから、毎日、

「挑戦し続ける、危険な道を選び続ける、はしごの足を外し続ける」

それが、生まれてきた意味を日々感じさせてくれる、唯一の精神であり、方法であると、そんな風に思います。

Kiss slowly, Laugh insanely, Live truly, Forgive quickly

Paulo Coelhoに朝から元気をもらった。

昨日まで(今日もちょっと)怒りというか、へこみで本当に元気がなくて、何のため、誰のために仕事をしているのか、本当にがっかりしていました。

でも今日の朝、Meditation app. (insight timer) で、素敵な言葉をたまたま見つけた。

insighttimer.com

Insight Timer、1年前くらいから活用しているのですが、本当に気軽にMeditationができてよいと思います。ので、皆さんもぜひお試しください。

で、この言葉、何が私にとってPowerfulかというと、Laugh insanly, live truly, forgive quicklyのところ。

ばかみたいに笑って、正直に生きて、すぐに許す、

私は昨日まで、ばかみたいに笑うことを忘れてたし(いつもばかみたいにしか笑わないのに)、正直に生きすぎて苦しいと思ってたし、相手のことを全然許そうと思っていなかった(ビジネスエシクスとして相手が間違っている、と正しさで勝負しようと考えてた)

この言葉を見ただけで、朝からすっと心が軽くなりました。

ばかみたいに笑って、正直に生きて、すぐに許す、

そうしようと。

今日は昨日より、少し気持ちが軽く前に向かえそうです。

①誰とやるか、②誰(何)のためにやるか、③何をやるか、これが大事

今日はとってもよいことと、とってもよくないことが両方ある精神的ボラティリティの高い一日でした。

複数の素敵なOld friendsから急にメールがきたり、病院の検査結果がよかったり、よしよしと思うことも多かったのに、仕事でなんじゃそりゃ?この人どういう立場で私にもののたもうてるのか?というような驚き桃の木なこともありました。要は自分への愛を深くぐっと感じる出来事と、自分への尊重が全く感じられなかった出来事がどちらも同時に起こったのですよね。

でもこの二つが、実は私にとてつもない発見、ディスカバリーを与えてくれました。

それは、人生は①誰とやるか、②誰のためにやるか、③何をやるか、を考えていくことが大事ということです。一人では多くの物事は達成できません。また、達成できたとしても小さなスケールでしか波及しません(独裁でも周りに人が集まってくる超レアケースは別にして)。私は一般人で平凡な考えの持ち主なので、この3点が超絶大事です。

なぜかを順を追って説明しようと思います。

①誰か

これは日々の生活の質にとって大いなる決定要素になるからです。一日8時間以上一緒に過ごす人、プロジェクトの中で長時間一緒にいる人、それは好きな人に限ります。そしてそれは自分の財産になるからです(仕事を終えた後でも)。

私にとっては、面白くて、お、この人尊敬できるな、とか、建設的な議論ができる良い人だな、と思う人です。自分にない視点を持っていて、互いに肯定の心で語り合える人です。頭がいいとか、技術がすごいとか、きれいとかかっこいいとかそういうのはあまり重要ではなくて、あればもちろんいいですけど、「おや、この人面白い考え方を持っているな」「そして互いにideaや価値観の持ち寄りができる人だな」というところです。

超頭がよくても面白くなくて、かつ自分のideaに固執して上から目線でものをのたもうてくる人とは、長時間一緒に仕事できません。どんなに自分が好きなこと(たとえばダンスとか)でも、その状況は圧倒的に自分のエネルギーを下げてしまうでしょう。

私は仕事(職場)を選ぶときに、実はこの「誰か」を最も大切にしてきたということに今日気づきました。最初の会社も面接で一番面白い人が多かったから。次の転職の時も、大手ファームからの内定よりも、小さな会社を選んだのはとにかく面接で会った人たちが超・面白かったからでした(そしてこの面接であった人たちとはやはり今でも友人です、楽しい)。

「誰か」がなぜ最も重要なのか。もう一度言います。それは自分の生活の質に最も影響力を与えるからであり、そして仕事を終えた後も永遠の財産となるからです。やはり超大事ですよね。

②誰(何)のためにやるか

2番目に大切ななのは「誰のため」を明確にすることです。これは目的共有のために重要です。もちろん自分のため、でよいのですけど、さらにその先、誰かのためにやるのである、という目的意識が大切だと思います。これがあると爆速でものごとが進みます。何のため、でもよい。友人は日本酒のために爆走しています。日本酒を世界酒にしたいそう。

好きな人と「ふわわーっ何か一緒にやりたいよねーえへへー」でもよいのですが、好きな人と「誰かのため」が一緒になると、物事が爆速になります。明確な目的が共有されて、違うアイディアが集結されてばちばち議論に火花がとんで、どんどん結晶化されていくのですよね。好きな人と目的が一緒になることほど楽しい瞬間てないんですよね。それは企業のプロジェクトの中でも経験したことがある人は多いのではないのでしょうか。

こういった目的共有の意味で、「自分のため」では弱すぎると思います。るーちゃんのためーってるーちゃんが言ってても、そこに相当な別の価値が見えない限り、周囲の人が一緒にるーちゃんのためには目的共有をしてくれないですよね、きっと。

「誰のため」にするのかを明確にしていくこと、それはチームと目的共有し、チームの力を結集するために大変重要です。

③何をやるか

ここまで来るとあとは手段です。「何」を明確にする。実は何をやるか、からアイディアが生まれることも多いと思います。でもそこから先、物事のインパクトをより大きくしたり、より素早く価値の高いものを生み出す、人生を楽しく生きるためには、①と②が超絶重要です。「誰と」「誰のために」が決まっていれば、手段は自ずと決まってきますよね。だから誰とやるか、誰のためにやるか、がうまく決まるとすれば本当にそれは幸運なことです。

 

人生の一瞬一瞬を楽しく生きるには、①誰とやるか、②誰のためにやるか、③何をやるか、を考えていくことが大事。今までふわふわと思っていましたが、今日初めて言語化ができました。誰とやるか、を考えるだけで、わくわくします。そしてその誰かと一緒に、誰のためを考える、ということを考えるだけで、もっとわくわくします。そしたらそこの議論で何をやるか、という手段までがするっと決まってくような気がして、それもとってもわくわくするのです。わくわく!

すごくすっきりしたので、このセオリーを基に仕事の仕分けをしつつ、新しいことをもっとたくさん始めたくなりました!

これからも毎日楽しく、①誰とやるか、②誰のためにやるか、③何をやるかに則って、丁寧に日々を生きます!