何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

①誰とやるか、②誰(何)のためにやるか、③何をやるか、これが大事

今日はとってもよいことと、とってもよくないことが両方ある精神的ボラティリティの高い一日でした。

複数の素敵なOld friendsから急にメールがきたり、病院の検査結果がよかったり、よしよしと思うことも多かったのに、仕事でなんじゃそりゃ?この人どういう立場で私にもののたもうてるのか?というような驚き桃の木なこともありました。要は自分への愛を深くぐっと感じる出来事と、自分への尊重が全く感じられなかった出来事がどちらも同時に起こったのですよね。

でもこの二つが、実は私にとてつもない発見、ディスカバリーを与えてくれました。

それは、人生は①誰とやるか、②誰のためにやるか、③何をやるか、を考えていくことが大事ということです。一人では多くの物事は達成できません。また、達成できたとしても小さなスケールでしか波及しません(独裁でも周りに人が集まってくる超レアケースは別にして)。私は一般人で平凡な考えの持ち主なので、この3点が超絶大事です。

なぜかを順を追って説明しようと思います。

①誰か

これは日々の生活の質にとって大いなる決定要素になるからです。一日8時間以上一緒に過ごす人、プロジェクトの中で長時間一緒にいる人、それは好きな人に限ります。そしてそれは自分の財産になるからです(仕事を終えた後でも)。

私にとっては、面白くて、お、この人尊敬できるな、とか、建設的な議論ができる良い人だな、と思う人です。自分にない視点を持っていて、互いに肯定の心で語り合える人です。頭がいいとか、技術がすごいとか、きれいとかかっこいいとかそういうのはあまり重要ではなくて、あればもちろんいいですけど、「おや、この人面白い考え方を持っているな」「そして互いにideaや価値観の持ち寄りができる人だな」というところです。

超頭がよくても面白くなくて、かつ自分のideaに固執して上から目線でものをのたもうてくる人とは、長時間一緒に仕事できません。どんなに自分が好きなこと(たとえばダンスとか)でも、その状況は圧倒的に自分のエネルギーを下げてしまうでしょう。

私は仕事(職場)を選ぶときに、実はこの「誰か」を最も大切にしてきたということに今日気づきました。最初の会社も面接で一番面白い人が多かったから。次の転職の時も、大手ファームからの内定よりも、小さな会社を選んだのはとにかく面接で会った人たちが超・面白かったからでした(そしてこの面接であった人たちとはやはり今でも友人です、楽しい)。

「誰か」がなぜ最も重要なのか。もう一度言います。それは自分の生活の質に最も影響力を与えるからであり、そして仕事を終えた後も永遠の財産となるからです。やはり超大事ですよね。

②誰(何)のためにやるか

2番目に大切ななのは「誰のため」を明確にすることです。これは目的共有のために重要です。もちろん自分のため、でよいのですけど、さらにその先、誰かのためにやるのである、という目的意識が大切だと思います。これがあると爆速でものごとが進みます。何のため、でもよい。友人は日本酒のために爆走しています。日本酒を世界酒にしたいそう。

好きな人と「ふわわーっ何か一緒にやりたいよねーえへへー」でもよいのですが、好きな人と「誰かのため」が一緒になると、物事が爆速になります。明確な目的が共有されて、違うアイディアが集結されてばちばち議論に火花がとんで、どんどん結晶化されていくのですよね。好きな人と目的が一緒になることほど楽しい瞬間てないんですよね。それは企業のプロジェクトの中でも経験したことがある人は多いのではないのでしょうか。

こういった目的共有の意味で、「自分のため」では弱すぎると思います。るーちゃんのためーってるーちゃんが言ってても、そこに相当な別の価値が見えない限り、周囲の人が一緒にるーちゃんのためには目的共有をしてくれないですよね、きっと。

「誰のため」にするのかを明確にしていくこと、それはチームと目的共有し、チームの力を結集するために大変重要です。

③何をやるか

ここまで来るとあとは手段です。「何」を明確にする。実は何をやるか、からアイディアが生まれることも多いと思います。でもそこから先、物事のインパクトをより大きくしたり、より素早く価値の高いものを生み出す、人生を楽しく生きるためには、①と②が超絶重要です。「誰と」「誰のために」が決まっていれば、手段は自ずと決まってきますよね。だから誰とやるか、誰のためにやるか、がうまく決まるとすれば本当にそれは幸運なことです。

 

人生の一瞬一瞬を楽しく生きるには、①誰とやるか、②誰のためにやるか、③何をやるか、を考えていくことが大事。今までふわふわと思っていましたが、今日初めて言語化ができました。誰とやるか、を考えるだけで、わくわくします。そしてその誰かと一緒に、誰のためを考える、ということを考えるだけで、もっとわくわくします。そしたらそこの議論で何をやるか、という手段までがするっと決まってくような気がして、それもとってもわくわくするのです。わくわく!

すごくすっきりしたので、このセオリーを基に仕事の仕分けをしつつ、新しいことをもっとたくさん始めたくなりました!

これからも毎日楽しく、①誰とやるか、②誰のためにやるか、③何をやるかに則って、丁寧に日々を生きます!

 

 

そして自分に満足しつつ誰かの目的になること

マーク・ザッカーバーグの演説@Harvardを見た。

この人こんなにすばらしい人になってたのか、とびっくりした。(元々もそんなに知っているわけじゃないけど)

Purpose,という言葉を何回もいうのだけれど、本当にそうだな、と思った。

なぜ生きるのか、なぜ今自分がここにいるのか、それをまずつかみとることが大事。

でもそこに満足してはいけない、誰かのPurposeが不足しているのであれば、それにならなければならないということ。

はっ!としました。

自分は今ある程度自分がやりたいことをわかってて、毎日それに向かって邁進してて、好きな人と常につながっていて、生きる意味も、人生の価値も、言語化できるし、実感できている。

お金だってある。(普通に生活できる分は)

そういう人は、それをもっと別のところに注がなければいけないんだな、と思った。

わかってはいたけれど、改めてはっとさせられたのです。

何ができるかわからないけど、ダンスができるし、研究もできるし、寄付もできるし(寄付は自己投資以上にROIが良い団体が見つからないので控えたいが)、ピアノもできる。

何でもできる。もっと誰か直接の人のために、自分の力を使いたい。自分のお金を、時間を、想いを使いたい。

誰でも、Purposeを失っている人のため。

誰かのためではなく、ある特定の人のためであり、何よりもそれは自分のためであること

旅先でワークショップをしてみた。

そこで気付いたことは、参加するのと開催するのでは大きく意味が違うということ。

誰かにしてもらう、こうなってほしい、こうしてほしい、というのは大きなエゴであり、相手のためにはならないということがよく分かった。そして、自分のためにもならない。自分の理想像を押し付けることは、相手への攻撃でもある。

相手の気づきを尊重すること、相手の自発的な自覚を促すこと、そしてそれは何かの形の押し付けではないこと。自分自身もたくさんのことを気付かされた。どうすれば自分の思っている感情を相手にもわかってもらえるのだろう、それがただ言語での受け渡しではなく、圧倒的なその人の実感として、どのようにその人に伝えられるのだろう。

そしてそれは目の前に相手がいて初めて行われる感情の受け渡しであり、対話である。想像上で語っているとき、描いているときには、その行為はあくまで空想であり、エゴの領域を出ない。誰でもないどこかにいる人のためである場合、それはより空想に近く、自分のためというよりも、自分のエゴのためである。

一度空想ではなく、実在のものとして、ただ特定の愛する人に、わかってほしい、そのひとに気づいてほしい、その人に自発的に何かをしてほしいと願い、そう働きかけるとき、それはエゴの領域を超える。そして多いに自分の美しさのためでもある。

そう思った。そして私にとって実際にそれを続けていくことが重要である。一緒にワークショップの場に来る人と共に、対話を続けていくことが一人一人の実感を成長させ、自分自身の実感を成長させることにつながる。

何かを正しいと思って押し付けるのでもなく、自分自身の理想を描くだけではなく、直接的に目の前にいる人との対話を具現化し続ける。

それこそが何か実感を持って実施していることとして、自分自身に納得感をもたらしてくれるのではないだろうか。

 

やっぱりやりたいこと100%に向かえていないけれど、それは今の社会もお金も大事だから、と思っているから。でも・・・

だいぶブログを書いていませんでした。

それは自分が目下目指すことが決まってすごくそこに向かって最近一直線だったからです・・・そして今も一直線で努力邁進中です。

英国に行く、Community artと評価についてとことん突き詰める、Contemporary danceのワークショップの形を突き詰める。

そして世界における芸術とSocial capitalに関する研究をずっと続ける。Contemporary danceを通したコミュニティ醸成を、自分の好きな地域でやる。

 

これに向かってずっと走っています。

でもやっぱり、これとはつながりがあるけれど直接は関係しない仕事を、仕事に使う時間の70%くらいしていて、そしてそれでお金を稼いでいる。

それでも30%くらいは関係のあることをできるのを幸せだと思っているのですが、どうしてこの70%を切れないのか、それには色々な理由があるなぁと思うので、整理しておこうと思っています。

①成長につながるから

ちょっとでもつながっているから、どんずばマッチしていなくても、自分がやりたいことに長期的につながることが自分でもわかっているから続けています。これは、一番真面目な理由です。でも一番嘘っぽい回答。

②金銭的な持続可能性を担保するため

海外に行くのも、自分が本当にやりたいことをやるのにも、現実問題資金が必要だと知っているからです。そして、資金がついたときに「自分が本当にやりたいこと」ができなくなり、インパクトを最大化できなくなるのを知っているからです。そしてこれはおそらく真実です。

③社会は自分がやりたいことだけではなく、信頼関係で成り立っている・成り立たせているものだから、と思っているから

一番現実的な話をすると、これが最大の理由で、足枷と感じていることです。あれがやりたいからこれを全部やめる、ということが私にはどうしてもできません。自分が今言語化しているやりたいことは、実はこうした複雑な社会・その他の人との関係性の中で生み出されているものだと言い聞かせるのですが、これが苦しい。この1年間は我慢だと割り切っていますが、そのあとは、もし自分のやりたいことをこれが理由で我慢しているなら、それはやめようと思っています。なぜなら自分がいるべき場所で最も価値が最大化できると信じているのに、それを生ぬるい信頼関係で諦めるのは非常にもったいないからです。真の信頼関係を築ければ、自分がやりたいことができないことなんて起こらないのです。これは恋愛でも近しいものがあるのではないかと・・・(関係ないけど)

Sustainabilityが大事で、最近の日本企業は本当に長期的な視野がなくて大丈夫かなって不安になるけど、これは私の人生も同じだと日々考える。

社会の中で生かされている、そして日々ただあることに感謝する。

それは大前提大事ですが、自分のやりたいことを見つけて、100%向き合っていくことを覚悟したなら、生ぬるいやり方では自分の人生を後悔するだろうと思い続けています。

今日の努力は明日の自分の真実につながるので、今はただ目の前にあることの向かいつつ、今日書いたこの自分の真実を忘れずに、一歩一歩進めようと思います。

爆発的にわくわくしたい

 年度末で報告書がたまっている。行政関連のものや自分で受けた調査の報告書等。提案書を書いた時点では胸躍るような内容だったものの、関係者との折衝や実際の分析作業で全然わくわくしなくなる案件もある。

 それでもわくわくする案件もある。それは単純に自分がその価値を信じているものである。それから、その案件に少しでも、超・面白い人がいる場合である。

 そんなこんなでいずれにせよ報告書は書き上げるのだが、今ずーっと心の中にあることは「爆発的にわくわくする」ことがしたいということだ。爆発的にわくわくして、楽しくて、わーってなること。これをやってる間に死んでもいー!とか、そんなこと考えなくなるくらい夢中になること。それはダンスであるが、今私は多いに怪我をしているため思う存分踊れない(手首足首膝肘全部、痛いのです。)。痛くて涙が出てしまう。それでもダンスはやるのだけれど、今日の本論はそこではなくて、現実問題仕事の比重も爆発的にわくわくすることを増やしていきたいと思っている、ということである。

 そのために必要なCriteriaがこちら!

 ①一緒にやる人が爆発的に面白い人であること

 ②知的生産and/or創造性があること

 ③誰かにNew worldを提供できる(垣間見せられる)こと

 これは①から優先度が高いのだが、③→①の順に実現度が高いと思っている。つまり、③からフィルタリングしていって、最終的に①もクリアできる案件であれば万々歳だが、結構な確率で③をクリアしても②、①を満たさない、ということもある。でも今年は心からわくわくし続けたいので、最低限③、②を満たしていない限りは、仕事を整理しようと思っている。あとこのCriteria、自明なのだが、「芸術関連」に関してはかなり確率が上がる。ダンスも一瞬で満たしてしまう!

 こうして整理してみると今やっている(わくわくしていない)報告書の仕事も一応条件満たしているので、やはり粛々と頑張るのです、、、でも①は満たしていない、、、爆発的にわくわくしたい、、、

それでも毎日感じ続ける、考え続ける

 久々のブログ。心の整理ということで、最近特にいらいらについて考えています。

 いらいらするって興味があることだし、自分の中のinner childと向き合っていることだと、知っている。誰かや何かに対して、気持ち悪ーい、って思うこととか、つまんなーい、って思うこととか、自分が積極的に否定したいものって、どこか自分の中に共通点があるものだって、知っている。1年前くらいからこのことを知っていて、それでも積極的に否定して、げぼげぼーとか、思っていました。

 でも、いろんないらいらする仕事もやり続けてたらそれなりに面白くなってくるとか、好きなことを探し続けるって、直観的に場当たり的に探してるだけではだめで、一度腰据えて嫌いになりそうになってもやってみたりしなければ本当にさらに好きってところには行けなくて、時間てやっぱり大事だなってそんなことを改めて考えています。基本的には嫌いなことを頑張るのはやらないけれど。改めて、嫌いなことを受け入れてやってみるってのもいいなと思ったのです。

 そしたらふと、人に対しても、なんだかそれを受け入れようという気持ちがふっと芽生えてきました。あの人Facebookで自分の自慢ばかりしている~つまんなーいって思っても、その人もそれでいいし、あ、つまんなーいって思っている自分がだめだな、とかじゃなくてそれでいいのか、と。そうゆうものだなって思うなって。自分だって自慢しちゃうしイライラしちゃうしどう思われるか気にしてる部分あると思うし。

 ずーっと付き合っていく、というようにはならないかもしれないけど、積極的に否定しちゃうのは、あ、否定しちゃってるなって思えばよいし、付き合いたくなければ付き合わなくてもいいし。こういう文章って何も言っていないに等しいんだけど、何も言っていないに等しいことを言語化できるようになったことが一つの成長だと思うので、今日ふと書いてみようと思いました。

 ところで、ダンスはやっぱり好きです。自分の中では、ダンスが最も時空を超える瞬間を内在していると思っています。怪我しちゃってるけれど、引き続き頑張ろう~

「やりたいこと」の原型に出会う、「こうなりたい」人に出会う

 2月の最終週になりますが、コンテンポラリーダンスのワークショップに参加しています。これが、技術的にはもちろんなのですが、「場」として、ものすごく楽しい。

 ワークショップを担う講師が楽しくて、明るくて、技術ももちろんすばらしくて、愛にあふれていて、どうしようもなく楽しい。この3か月間様々な講師のワークショップに参加したのだけど、その中でもずば抜けて「場」が素晴らしいのです。

 そしてその「場」は、ロジックで分解できるようなものではなくて、単純に講師の先生の「人柄」そのもの。彼が明るくて、面白くて、みんなをCareしていて、グループとして完成させようという想いがあるから、参加している人たちも引っ張られるように同じになる。中学生も、40歳を超えている人も、男女も、ダンス経験もばらばらの16人だけれど、3日目にしてすごく仲良くなっている。振りも自然にお互いに確認できるし、「一緒に踊ろう」という気持ちがある。

 すっごく不思議で、楽しい。‟Groove”ってワークショップ中に先生もいうけれど、本当にそれ。友だち(この場合友達なのかもわからないけど、とにかく一緒にダンスを作るかけがえのない仲間)と一緒にGrooveを感じている。いつも理詰めで分解して考えてしまうのだけれど、今回は、この場づくりは、一口に彼が素晴らしいから。

 そしてその場に参加してみて、みんなが、自分が自由に自然に変わっていくのを実感して、私は「これ」がやりたいんだな、と思うし、「この人」になりたいんだな、と思ったのです。

 これはまさにコミュニティーアートだと思うし、元々言っていたダンスのワークショップそのものなんだけれど、まずは自分が「こういう人」になって、「こういう場」を作り上げたい、ということを実感することができました。

 ちょうど先日コロンビアで活躍する日本人横井研二さんが、「コロンビアに足りないのは日本の規律、日本に足りないのはコロンビアの自由さや楽しさ」みたいなことを伝えていたのですが、これまたしっくりきました。私が自由なダンスに魅了されているのは、自由さであり楽しさを完全に開放できるからなんだな、と。

 私はコンテンポラリーダンスのワークショップを通じて、「精神的な貧困(つまり自分のやりたいことを見つけられなかったり、見つけてても社会的状況から精神的に我慢し続けていたりすること)」にある人と共に、自己を解放していきたいんだろうな、と思う。音楽に合わせて、みんなが持っている「同じ」身体を合わせて、直に実感して、だれにでもすぐできて、そうして内発的動機をノックしていく。もちろん本当にやりたいことがダンスではなくてもよいのだけれど、精神を閉ざしている壁を壊せる、最も効果的で楽しい方法の一つがダンスだと思うし、それをもっと多くの人と共有してみたいな、と思っています。

 ラテンのノリが元々ある人と一緒にやりたいわけじゃないのかも。本当は壊したいけど壊せない心の壁を持っている人を、ダンスを通して一緒に壁を壊していきたいんだろうな。

 初めてフランスに行って、自分の心の壁がだんだんと開いていったことを思い出す、そんな1週間です。そして今は、その感覚をダンスを通してより広くの「精神的貧困」に苦しむ人に届けていきたいな、と思っています。