何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

言霊と、言語と思考

言霊という言葉は、小さいころから我が家の家訓だった。「馬鹿」「ばばぁ」「このやろう」など、小学生で流行るような言葉は、家では絶対に使ってはいけなかった。理由は、言葉には魂が宿るから、そういったことを言っていると、現実にも悪いことを影響を与えてしまうからだ。私はもちろん今まで悪い言葉も使ってきたと思うし、思春期の時などは友だちの悪口を言ったこともあるし、家訓だけれども、もしかしたらそんな言霊に人生を影響されてきたかもしれない。

今日同僚からの紹介で、梨木果歩さんの記事を読んだ。私自身が直近の1か月、英国に行ってから考え続けてきたことととても近く、自身の思考整理にとても良い影響を与えてくれた。彼女の言わんとすることは、

流行り言葉、力の大きな言葉の濫用により言霊力がすり減らされる

ということである。例えば「誠実に」と言えば言うほど誠実ではなくなるなどがわかりやすい。それからもう一つ。「日本語には日本らしさそのものが満ちている」ということである。彼女は最後に、

大切に、長く使われ、言霊を秘めた日本語の奥にこそ、それを使う私たちすべてに共通の祖国は存在する。そこに国境はない。普遍的な祖国。

と、「ナショナリズムではないボーダーを超えた考え」を述べている。

この2つの考えは、私自身の仕事、思考と密につながる部分がある。特に共感したのは、言葉の濫用への違和感である。ファンシーな(それっぽく聞こえるが中身がない)言葉、欧米諸国から簡易に輸入してきた言葉の濫用は、私が自身の仕事において非常に懸念していることである。

私の仕事は、経済的価値以外の本質的に人間が大切にすべき価値について、考え直し、表現方法を考え、評価していくための制度を整えることだ。こうした経済的価値以外の価値を社会性などと呼ぶことはあるが、社会的インパクト、インパクト、アウトカムなど、輸入言葉は驚くほど多い。最近では、「ソーシャルインパクト」という言葉が流行り、その実体が十分に議論されないまま、独り歩きしている。重ねて国連が発案したSDGsなど、さらに輪をかけてあらゆる概念が増え、日常生活でも情報の海に溺れそうなのに、社会的なんちゃら、ソーシャルインパクトなんちゃらの界隈の川も氾濫し、溺れそうな勢いである。

私がそれでもこうした社会性を可視化し、制度を整えていく仕事に携わりたいと思っているのは、経済性偏重で歩んできた戦後以来、もう限界だと本当はみんなが気づいているはずだと思うからである。今我々が考えなければならないのは、なぜ生きるのか、何を本質的に美しいと感じるのか、それを改めて考えることである。「社会性」とは、何を意味するのかを、経済性の波や情報の海に飲まれそうになる前に、再度考えるために重要な言葉だと考えている。つまり、本来「社会性」「ソーシャルインパクト」という言葉は、人類に再度「自分たちが何を大切にすべきなのかを考え直す」ためのきっかけになる力を持っていると私は認識している。哲学のための、言葉なのである。

ところが、現状の「ソーシャルインパクト」は、その整理、カテゴリ化と標準化を目指している。理由は簡単である。ビジネスと同じように、スケールするため、より投資家の関心を引き寄せるためだ。つまりソーシャルインパクトの考え方をより広めるためには、そういったことをあまり考えていない人に対しても、わかりやすくしなければならない、という思考である。もちろんそれは大事なことで、第一歩としては大切なのだけれど、最も伝えたなければならないことは、それを踏まえて「考える」ということだ。それなのに、「SDGs見ておけば安心」、「標準化されたものを利用すれば大丈夫」「寧ろ同一指標でないと、それぞれの事業が比較しづらい」などの志向になってしまう。

私の考えは、事業一つ一つ、あるいはコミュニティ一つ一つの「社会性」があり、さらにもう少し広い自治体レベル程度での「社会性」があり、さらに国際的な「社会性」があり、今で言うところの国際的な社会性が「SDGs」ということなのだと思う。

考えるべきは、自分の属する目の前の世界でもあり、広くグローバルな世界でもある。社会がどんどん複雑化して、目の前のことだけ見ていればよいわけでもない。また、グローバルなことだけをみていればよいわけでもない。でも、全部に対してアプローチできるわけでもない。ただ、「考える」ということが重要なのである。ソーシャルインパクト、という言葉には、そういったいろいろな社会に身をゆだねてみて、何が大切なのか自分の文脈で考えよ、という意図が含まれていると、私は解釈したい。

私たちに求められているのは、今、考えずに新たな言葉の販売やプロモーションを行ってでも影響力を大きくしていくことではなく、新たに言葉を生み出したうえで、深く考えることなのではないだろうか。多用、濫用で溺れる前に、立ち止まって、解釈を深める「時間」を持つこと。そのために私たちは言語をつかさどるのだと、私は考えたい。

双極性障害

9月半ば、イギリス滞在中にひどい風邪をひいて、5日くらい我慢して、帰国後に内科にゆきました。薬を飲みながら、1週間休み、2週間目に入っても、なかなかよくならない(いまだに良くなりません)。9月も2週間くらい仕事をお休みしていた形だったので、仕事しなきゃ、でも苦しくて仕事できなくて、みたいな形が長引き、結果的にかなり精神的にまいってしまいました。そして10月始め、体調も悪く、かなり元気がなく、朝起きられず、夜寝られず、いい加減結構まずいな、と思い始めて。なんとなく、人生で初めて心療内科に行きました。元々精神的にかなり波がある性格なので前にカウンセリングに行ったことがあったのですが、今まですごく精神的にまいっているときも、心療内科に行ったことはなかったのです。

心療内科、結果的に行ってよかったと思います。受けた診断は、「双極性障害」。いわゆる躁うつ病という風に今までは知られてきた病気です。先生には、「どうでしょう、そう診断されてびっくりしましたか。」と言われましたが、正直自分は波が激しく、学校や会社に突発的に短中期的に行けなくなったり、ぎりぎりのところでなんとか踏ん張ってきた感があるので、どちらかというと、驚きませんでした。うつ病ではなく、躁うつ病なのである、というのもなるほどな、と思いました。今回病院に行った時の自分の状況は、今まで経験してきたすごく鬱っぽい状態とは程遠く、やる気がなく、本当に仕事が進まなくて困っていて、このままダメになる前に、という時だったのですが。先生とお話する中で、自分の生活、人生における気持ちの波を話し、先生としては典型的な双極性障害、ということだと。今は薬を処方してもらって、忙しくしすぎないように(躁を引き起こさないように)しながら、休み休み生活しています。

でも、診断から1週間くらいたって、診断で得た違和感は、結構大きいな、とも思っています。今までは、夜急に泣いたり、寝なくても仕事がずっとできたり、不安になって死にたい消えたいって思ったり、何でもできる気がして1週間ビジネスプランを書きまくって人と話しまくったり、何もしたくなくて家で寝続けてきもちわるくなっていたり、そんな自分が当たり前だったので、それが病気と診断されたということに急に違和感を覚え始めたのです。性格だから、病気じゃないんじゃないの?とか。よくネットに転がっているようなことを本当に思います。最近は家族の私の気分の波への理解もあり、仕事もわりに自分でペースを作れるところがあるので、薬も、飲む意味があるのか?正直疑問な気もしてきます。

でも今は、ひとまず薬を飲んでみつつ、自分の働き方、生き方を見直したいなと思っています。忙しくしすぎるのが好きだと思っていたのは、それは躁の時で、確かにそのあと中長期的にみると鬱がまた訪れてきていたな、と再確認できました。そういった自覚が生まれたのは、確かに診断されて良かった点だと思うのです。どういった働き方であれば、自分がやりたいこと、信じることをやりながら、より躁うつの波が小さい状態で(特に自分の場合は突発的に死にたい、みたいにならないように)生活できるのか、今年度考えて、来年度からゆっくりやっていきたいと思います。幸い今は家庭や仕事の環境に恵まれていて、5年前までの仕事や生活と比較すると落ち着いていると思います。そんな中で、今回、自身の状態を自覚できてよかったなと思います。

成功も正解もない、どう考え、どう表現するか

考えすぎて言葉にならないのか、言葉にならないから考えられないのかわからない感じが続いている。

人生とはなんなのだろうと思わせるような事柄が続いていて、なにも考えない時間を必然的に作るようになった気がしている。

そんな中ふと最近思ったのは、兄と私があまりに違うこと。考え方や生き方が違う。簡単に言うと、兄は社会的に適合、私は不適合。どちらもまじめだけれど、兄はステレオタイプを守りたい、私はユニークを気取りたい、という感じ。どちらが良いとか悪いとかはないけれど、どちらも幸せだし、なんなのかな、と思う。

子育ては複雑系で、成功も正解もないんだと思う。周囲の人を愛せて、周囲とうまく関係性を構築できる人であれば、あとは違っていいというか。自分に納得していて、自分の生き方に納得いかないから相手を蔑む、なんてことがなければいいというか。それさえも正しいかどうかわからないな、と思う。みんな自分が安静に生きたくて、時として周りの人を傷つけてしまう。

何かが起きたとき、自分を守ろうとしていろいろな感情が生まれて、いろいろな言葉を発しているけれど、結局はどう生きるかに成功や正解は無くて、自分が納得してじっくり生きることに意味があるんだろうな、と思うようになった。どうしても評価されたい、という想いは自分が好きなことを仕事にし始めてからも長らくあるけれど、最近はかなり減った気がする。たとえ自分の成果が誰かのテガラになってしまっても、ある程度きちんと論理的に戦って、それでもだめなら、それは仕方ないな、とか。認められるために何かをやろう、という気持ちも減った。ネームバリューがほしいという気持ちもあって、海外大学院にいこうとしていたけれど、Offerをもらっても、あまり行く気がおきなくなった。

じっくりゆっくり、自分に納得しながら、自分しか歩まない道を歩みながら、生きたいと思う。これは今まで捉えていた岡本太郎の言葉とは少し違う捉え方になるけれど、同様に危険な道を歩む、ということにもなるんだと思う。でも、情熱的に、というよりも、もっと淡々と。

何のために働くのか、人の痛みを共有する勇気、覚悟

年度末の報告書の量に自分でも圧倒されている。こんなにも自分の仕事を管理できていなかったのかと思い知らされる。そして、細かい仕事への指摘や対応に、自分自身の体力というよりも、精神力がついていかないこともある。改めて論点整理をしたり、プロジェクトメンバーと共に質向上のために細かい確認をすることは、報告書の数が増えれば増えるほど、時間と労力を伴う。あぁこういう状態を忙殺と呼ぶのだな、と思ったりする。これを痛いと思うかどうかは人それぞれだが、私の場合は、結構苦しいと思うことが多い。例えばゲームをやりすぎて徹夜してしまうような感じの痛みと近いのかもしれない。

こんな時には、「何のために働くのか」、「何のために生きるのか」を自ずと改めて考える。今日、テレビをつけながら仕事をしていると、女装メイクを専門に行うメイクアーティストのドキュメンタリーをやっていた。彼女が言っていたのは、「(女装のためにメイクに来た人が)『家族にも言っていなかったけれど、ここに来て初めて言えた』、という相手の声をきいて、女装メイクなら、私ができることがあるんだと思った」ということ。メイクが好きで仕事をしていたけれど、何度も転職を繰り返した末に見出した自分のミッションであったようだ。「誰かの想いに寄り添う瞬間」に自分の仕事の意義を見出すのは、私の感覚とも近いな、と思った。

この2週間、忙殺の時期の中で思っていることが2つあるので、書き残しておきたい。1つは、私は「人が痛みを共有できる仕組みを作る」仕事をしたいのだ、ということ。もう1つは、全ての人が社会に関わっている限り、少なからず全ての人が社会的課題と隣り合わせだということだ。

自分が苦しい、つらいと感じた時でも、私はそれが誰かの痛みを緩和することな繋がるのであれば、そのために自分の仕事を完遂したい、と思っている。共有する勇気であり、覚悟と人としての温かさを持っていたいと思っている。また、自分自身がつらいときにも、誰かと共有できる社会であってほしいし、そうしていきたいと思っている。あらゆる辛い仕事があっても、それが誰かの痛みを緩和するためであり、誰かの希望につながることなのであれば、私は進んでやりたい、やらなければならないと考えている。

そしてもう一つは、社会課題は特殊性があるものではない、と思う気持ちである。私自身も精神的に波があったり、昔にいじめや鬱の経験があったりもする。それは自分のせいなのか、あるいは社会の構造によるものなのか切り分けることはできないが、死にたい、どうしようもなく苦しい、あるいは引きこもりのような状態になったときには、とにかく「誰もわかってくれない」という気持ちがあったのだと思う。人が生きるということは、あらゆる生命体が共存しているのだから当然、楽しいことも、喜びも、悲しみも苦しみもあると思う。それが「社会的課題」となるかどうかは、痛みや悲しみを「誰かと共有できない」状況がある場合なのだと思う。「孤独のない社会へ」とか、英国でも孤独担当相とか言うけれど、もっと厳密には、「つらいことを共有できるか」が大事なのだと思う。パリピがいかにも友だちがたくさんいて楽しそうでも、辛いことを誰とも共有できない可能性だってある。幸せな家庭を持っているように見える男の人も、女装をすることで自分と痛みを共有する、メイクアーティストと痛みを共有する、という瞬間があるのかもしれない。絶対に弱音を吐かない管理職の人が家で泣くとき、ペットと想いを分かち合っているのかもしれない。LonlinessとSolitudeは違うのである。

老後「孤独」が深刻化…若い頃のおひとりさま信仰で仲間おらず、引きこもりの末期症状 | ビジネスジャーナル

もちろん社会構造の問題で、本人の意思によらない理由で教育を受けづらかったり、国の情勢などによって安全・安心な生活を送れない場合には、資金支援や構造改革を担える側(個人でも組織でも国家としても)がサポートする必要があると思う。そこからさらに踏み込んで目指したいのは、衣食住、安全の欲求がある程度満たされた上で、精神的に孤独にならない社会である。「社会課題」という言葉はなんだか大きくて遠い世界のように思えるが、自分自身も含め、常に共存している状態なのではないだろうか。

2つの気づきは、1つ目の話からつながるが、私は「誰かと痛みを共有できる社会の構築」のために働きたいということだ。私は、本当に幸運なことに、家族や友人と痛みを共有できる。たとえ物理的に一人で、家族が亡くなってしまったとしても、精神的に小さいころから受けてきた家族からの愛情を想像し、その痛みを共有できる。緩和できる。幼少期から学校やピアノの先生に恵まれたおかげで、心の中にある彼女たちの言葉と、痛みを共有できる。岡本太郎太宰治などの精神的な言葉が蓄積されている。それから、ピアノやダンスなどを通して、自分の世界を創造できる。

子どもや青少年の非行などの課題に対して、幼少期に母親的愛を受けるための早期介入が重要だというのは、ある意味「痛み共有に関する精神的システム」が構築されるのが幼少期だからだ。現実の世界でも、想像の世界でも、創造の世界でも、「誰か・何かと痛みを共有できる社会の構築」のために働いていきたい。私がなぜこんなにも突き動かされるのか正直わからないけれど、誰かが痛みを共有できない状況にあるのであれば、そうした構造を変えたい。誰もが、「こういう風に生きたい」と、少なくとも希望を抱けるような現実を描きたい。

無知の知と自己肯定

最近色々書くけど、結局自分はどうしようもない存在で、単に自分の書きたいことを書いているに過ぎないのだな、と思う。考えたいように考えているようで、自分が今ある場所で流されるままに、意志なく考えているのだろうな、とふと思うこともある。

誰かに影響を与えたいと思うこともあるし、そう思わない時もある。人とたくさんぶつかって、たくさん考えては、こうして自分を振り返ったりする。特に利害関係のある人との関わりの中で、自分は何をどうしたいのか、よくわからないことの方が多いように思う。

色んなことを深く深く考えたりして、よくわかった気になることも多いけれど、結局わかっていないことの方が多いと、なんとなしに突然、思うこともある。

自分に自信があることもあるし、自分自身を受け入れているとも思うけれど、全く自分に自信がないとも思う。自分が大嫌いだと思うこともしばしばある。たくさん笑ったり、たくさん食べることもあるけれど、たくさん泣いて、もう明日起きられないかもしれない、と思うこともある。

お金なんて一定程度もういらない、と思っているけれど、それは働いていて、お金を稼げる立場にある驕りかもしれないと、ふと改めて気付くこともある。そして仕事がなくなることが急に怖いと思うこともある。

美しいものを追究し、歓喜を追求し、他に何もいらないと思うこともあれば、ただその日は安心してお風呂に入って温かくして眠りたいとだけ思うこともある。

毎日踊り狂いたいと思うこともあれば、ただひたすら分析して数値計算していたいと思うこともある。

強い強い情熱に突き動かされる時もあれば、無に近い気持ちで淡々と作業をこなす時もある。

人のことを激しくジャッジしてしまう時もあれば、本当にすべての人を受け入れる度量が持てる自分に近づく時もある。

ふがいない、醜い、小さく、揺らいだはかない存在だと思う。それなのに、たまにすごく大きく強い存在だと思うこともある。歓喜に近づき、天にも昇る気持ちになることもある。

私は何も知らないし、誰かになることもできないのに、なぜだか自分を肯定することも否定することもできる。そして、自分を肯定や否定という軸から解放することもできるはずである。

ただ自分は、そうしたしがないたった一つの生命体にすぎないのだ、ということを肯定して生きていたい(生きるために肯定せざるを得ない)のだと思う。たくさんの揺らぎと宇宙的に渦巻く感情を持ちながら、ただただ点のように生きるのだと思う。全くわからないけれど、何も理解できていないけれど、ただここにあるという事実に直面しているのだと思う。

なぜ今、芸術活動が最重要だと思うのか。それは人間の内面をまざまざと映し出す鏡であり、人が美しくあるために残された手段だから

 SNSなどで情報の個人による公開・集積化が進むことで、声がでかい人ほどでかくなれる、という経済学のピケティ理論が情報の世界でも見受けられる気がしている。一定程度のエビデンスをもっていさえすれば、「オレがすごいんだ」と言えば言うほど、見せれば見せるほど、えらいと思われる、すごくなれる、民主的にもすごくなれてしまう世界である(虚言はもちろんだめでしょうけど)。
 「蓋然性が高そうな」「因果関係がありそうな」情報を持っている者ほど強くなれる、「信頼性が高いといわれる人と」「世界的に有名な組織で」働いていることを公開する人ほど強くなれる、まさに「神は死んだ」世界の到来である。
 私自身、事業の効果検証の仕事に携わっている中で、いかに「確からしエビデンス」を持っているかが重要になる世界を作り上げることに加担していると思う(定性にせよ、定量にせよ)。そして、効率性や経済性のためにそうした動きが重要だと思いながらも(これは経済的貧困にあえぐ人を救うために絶対的に重要だと思っている)、やはり加速しすぎることは怖いと思っている。つまり、冒頭に述べた世界を支援してしまう可能性があるのである。そこで私が、自らの仕事を過度に誤った方向に導かないためにも、根本的に取り組んでいるのが、芸術活動の推進である。
 私が芸術活動を強く支援し自分自身も活動に勤しむのは、それが人間性の「心」とか「想い」を、そのまま、まざまざと映し出しているからである。技巧や技能を超越して、シックスセンス的な話になるが、誰かの芸術作品(動的でも静的でも)を見れば、「あ、この人はこう考えているのだな」とわかってしまう感覚である。作曲にせよ、演奏にせよ、絵画にせよ、伝わる。特にわかるのはダンスだ。その肉体表現から、その人がどの程度の虚栄心があり、どのくらいダンスを愛していて、なぜ生きているのかが、伝わってくる。裸以上のはだかである。「私はxx大学院卒のxxxピアニストです」とキラキラのドレスを着て演奏する方よりも、「50歳からピアノ初めて3年だけど、どうしてもベートーベンの月光が弾きたいのである」という鬼気迫るアマチュアの方の演奏の方が美しいと感じるのは、その精神性からだと思う。実際に私もいくつかピアノコンクールを経験しているが「楽曲のみに向かう真摯な気持ちで演奏したコンクール」と「私は賞も取ってるしできるのよ、技巧はこうできるのよすごいのよ、で演奏したコンクール」では、結果も観客からの反応も、全く違っていた。外的圧力が強くなく、ピュアに取り組んでいる子どもの作品が時として爆発的な威力をもって迫るのは、そもそも精神的に何も着ていないことが多いからだと思う。彼らはそもそもピュアで、柔らく美しい心を持った「人」なのである。大人は、社会の中で多くの虚栄や関係性を纏う中で、芸術と対峙する時に、普段いかにそれを脱いで生きているかを問われるのだと思う。優しさであり、美しさであり、何のために生きているのかを、深く問われる。
 どんなにSNSできらきらしようが、インスタ映えしようが、たくさんのステータスや賞を持っていようが、芸術創造では誰もがはだかである。ただの一つのはだかの生命体である。もし、全ての人が一堂にインプロヴィゼーションを行う場があったとして、そこはおそらく虚栄心の具現化がはびこるSNSの世界とは、ほぼ反比例するような世界になる気がしている(もちろん美しいSNSの使い方もある)。コンタクトインプロをやればもっとわかりやすいかもしれない。どんな相手かにもよらず、どれだけ互いを信頼できるか。ジャズのセッションもそうかもしれない。どんな相手かにもよらず、どれだけ相手と美しさを、歓喜を、作り上げられるか。
 経済成長を目指し、経済的貧困に苦しむ人を救うのは、喫緊の課題である。極度の経済的貧困は根本から人の希望を奪うからである。一方で、経済成長があるからといって人の心は美しく育つとは限らない。寧ろ、行き過ぎると多くの虚栄やエゴを重ね着し、希望のない誰かを深く傷つける刃となる可能性がある。私は現状、経済的に潤っている、社会的地位が高い人ほど、大きな刃を振りかざしている場合が多いように感じる(もちろんそうでない人もいる)。だから私は、誰もがはだかで平等になる、芸術活動が重要だと思っている。技巧や技能を超えた美しさは、心の美しさだ。バレンボイムは言っている。「その瞬間、その一音を鳴らす瞬間、いかにその音だけに集中できるか、いかにそのことだけに集中できるか、そこに音楽の美しさが宿っている」と。今日買い物を頼まれてたな、とか、誰かに評価されたい、とか、そういうことをいかに全て忘れ去れるか。(信頼性があるにせよないにせよ)大量に生産される「情報」という目に見える・理性でわかるものを過信することは、格差を助長し続けると思う。だから、人をはだかにする芸術活動こそ、人が人らしく生きていくために毎日感じなければいけない「内面をまざまざと映し出す鏡」だと、私は思う。

情報の非対称性が広がる、でかい声と声なき声が広がる世の中

情報の非対称性が広がっているなって思う。しかも、いびつに。

自画自賛の情報発信を自らすることがおかしくない(オレオレ!ていうことがダサくない)世界になっているので、Facebook内やTwitter内で声のでかい人=すごい人、みたいな世界になっている。それが、別に作品作りを発表したい、というのではなくて、作品のすごさを自ら自慢している、という世界で、私はとても苦しいなって思っている。

実直に仕事をしていても、そういう歪なメディアがごりごりの世界だと、自己評価ぎゅんぎゅんな人、肩書べたべたべたな人が評価されていたりとか、そういう世界ができあがっていると感じる。それでもなお本当にわかる人たち=社会できちんと回っていけばよいけれど、そうじゃない世界を私は見ることが結構ある。私はそういう世界、とても嫌い。なぜって、美しくないし、格差を助長するし、自分がどっちの側にいても、本当に疲れるから。だから少なくともフェアに思えるアカデミアの世界とか、芸術の世界の方が、いいなって、思えている部分もあると思う。

私のリアルな友だちは、誰もSNSをしていない(高校の時の仲良し9名、大学の時の仲良し4名)。みんなアカウントは持っている子もいるけれど、完全に休眠。私みたいに見て疲れちゃう、みたいなことからも解脱している。たまにインスタとかしている場合もあるけれど、風景のきれいなやつだけさらっと載せているだけ、そんな感じ。私はまだ、SNSオラオラの呪縛から逃れらないで、そういう風に自画自賛しないと、仕事(個人事業的)で残念なところに負けちゃうかも、でもそんな美しくないことできない、とかそんな残念なことを思っている。もう解放されたいな、と思う。作品発表はたんたんとしたいけれど(論文とか文章とか絵とか)。自分自身、そういう人たちと合わないのであるから、いちいち、そういうところで張り合わないようにしたい、と思う。

そのためにブログ書いてるんだったなぁ、て思う。

今日は、そんな世界をリアルでも感じることが多くて、すごく生気を失っちゃったので、仕事をせずに、文章を書いている。ふぅ、自分がすごいんだよ、とかっていうことじゃなくって、こういう気持ちを誰かと共有したいな、共鳴したいんだなって思う。私はそして、自分がでかい声を発信するのではなくて、声なき声を吸い上げていきたいなと思う。

SNS核分裂の技術とかと同じで、Innovativeだけれど、使い方を間違えば大変なことにもなる。時代的には善悪の彼岸、かもしれないけれど、私はそれでも希望の灯が消えそうな時には支えたい、自分がめらめら燃えているときは、誰かに分けたい。そうやって生きていきたいし、やっぱりそれは自画自賛なんてとんでもないなって思う。誰かの灯が消えそうならば、それは自分がきちんと使命を全うできていないことだと思う。