何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

フェイクが嫌い、生命体として美しくなく、持続可能でないから

 衝動的にフェイクが嫌い、という文章を書きたくなりました。嫌よ嫌よも好きの内、ということで自分の中にあるフェイクを許せることができない、という話なのかもしれないのですが、私はフェイクが苦手です。フェイクファーとか、そういうことよりも、フェイクな生き方が苦手です。

 ぎゃっと思ったのは、カフェでいかにも“フェイク”な人生を送ってる人が隣にいたからです。“フェイク”とは、考えてみると面白い言葉で、要は自己ではなく他己に起点があって「本当は違うけど、相手にそう思わせること」というものだと思います。カフェのその人は友人の子どもにネコナデ声で話し、周囲の迷惑をあまり顧みず自分が好きなように他の座席の椅子を持っていく。身なりは良いのですが、私の研ぎ澄まされた(笑)第六感的には、自分が外からどう見られるか、に焦点がある女性。フェイク的「ごめんね」「ありがとう」が特に耳障りで、カフェでの仕事が進まなくなってしまいました笑。

 個人攻撃はあまり意味がないことなので、なぜこんなに嫌悪感を抱くんだろう、を整理してみました。
①子どもにネコナデ声で必要以上に甘やかして話すのが好きではないから。「子どもはこういう話し方が好き」という他者起点だけれど、相手の気持ちを考えずに話していることがいや。(子どもの人権侵害だと私は勝手に認識している。)
②自分がどう考えるかよりも自分がどう思われるかに焦点がある人は自分の良さを十分に発揮できていないと思っているから。①と同じだけれど、立ち居振る舞いが他者起点で規定されていて、自分がどうしたいの、が特にない、フェイク。
①は、子どもが「ネコナデ声が好き」という勝手な解釈の元、普段は出さないような声を出して好かれようとする、ということ。ぶっちゃけていうと、おとぎ話に出てくる魔女や人食い妖怪のようで怖い。私は経験上、子どもはフェイクを見抜ける力があると思っています。②は、友人関係や仕事上などで、認められたい、というのは誰しもあると思うのですが、それを優先して自分のコアを捻じ曲げている、捻じ曲げた上でそれがスタンダードになってしまっている状態です。私はこれは長続きしないと思っています(健康寿命も長いのでは笑)。少なくとも最大のパフォーマンスが出せない。面白いことは面白いし、意味がある(と思う)ことは意味があるし、つまらないものはつまらない、とはっきりできる人が一緒にいてすがすがしいし、生命体として呼吸しやすいです。ただ、これが社会の中で一生懸命生きようとすればするほどねじれるのは当たり前で、それが過剰になると、常に外側に起点があって“フェイク”になってしまう。フェイクの人は、なんか本当は別のこと思ってるだろうな、とわかってしまう。ちなみに、フェイク人にがんばって切り込みますが、コアにたどり着くのはなかなか難しいことが多いです。

 私は素直に奔放にやりたい方で、素直さが受け入れられない場所には行けなくなってしまうタチです(引きこもり体質)。合理的な理由がないのに「xxしなければならない」という環境が苦しいのです。でも社会人になると(学校も結構そうですが)、周囲に合わせなきゃいけなくて、まずフェイクになる必要があるのが日本の社会、会社だと思います。でもこれを、何とか、自分のコアに近づけていく。何も考えずに相手が望むと思うものに合わせるのではなく、私はこう、相手はこう、でも互いの思考をメタ認知しながらたたいて、とやっていける関係性だととても良いなと思っています。

 カフェの彼女みたいに、フェイクで「そうなんだ~、すご~い(オメメぱちぱち)」とやってしまうのは、(日本の)社会の中でうまく生きようとすればするほど、直接的なコミュニケーションをせずに(自分はこう(あなたのことはあなたのこと)、ということを互いに言わずに)勝手に解釈して、自分が本来そう思わないのに同調する、ということが苦しい局面があるからなんじゃないか、と思います。無言で慮る、という美しい世界が、無言で勝手に自分が好かれるためにフェイクする、という虚像の世界になっている気がします。それはそれでいいんじゃないの、という考えもあるんですが、生命体として長続きしないと思っています(さらに言えばフェイクは死んだ後にははかなく消えると思います)。私たち日本人は、強い共産体制や独裁政権下にいて自らの意志を発揮できない国家にいるわけではないし、自分自身の考えは自分で決められる。たんぽぽはひまわりではないけれど、たんぽぽのままで美しいし、ひまわりはライオンではないけれど、ひまわりのままで美しい。それが好きな人もいれば、嫌いな人もいる。でも互いに尊重されるべき存在。

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 持続可能な社会を、という標語が国連を筆頭に最近巷でちらほら聞かれるようになりました。国連のSustainable Development Goals(持続可能な開発目標:SDGs)については色々考えていることがあるのでまた別途文章を書こうと思うのですが、SDGsとは違う軸で、一つ一つの生命体が自然であるがままであることは持続可能な社会にとってとても大切なことだと思っています。それは生き方についても同じで、有機体として健全で、美しく、そして持続可能であるために、フェイクではないとは何か、まず考えることから始めるのが大切だと思っています。

良い子ちゃん女子、法外を追求しよう

 題名は、宮台真司氏とニ村ヒトシ氏対談の「どうすれば愛しあえるの」を読了したときに思ったことです。言葉が乱暴な文章が多い本ですが笑、とても学びは多かったので、自分なりに感じたことを書き留めておこうと思います。

 法外とは何かをまず置いておいて、“良い子ちゃん”と括る必要について。括る理由の一つは、私自身が日本でいうところの良い子ちゃんで育ってきて、周囲の“良い子ちゃん”女子の法内苦悩が最近本当にすさまじいから(私立中高一貫女子校、理系大学、大学院コース。事実中高では本当に“かわいこちゃんを目指せ”と育ちました)。もう一つは、いわゆる良い子ちゃんほど法内の言語によってがんじがらめになっているからです(社会的に良い子になろうとしているから。自明ですけれど)。そしてさらになぜ女子か、といわれると、女子ほど社会の求める(法内の求める)生き方と、本能的な自分自身の生き方にギャップを抱えているケースが多いからです。これについてはまだ自分なりに整理して説明できないのですが、周囲の男子はごりごり「サラリーマン」として生活することに何の違和感もなくガンバッテいるのですが、女子は「サラリーマン」にも「サラリーウーマン」にもなりきれずに、無理してガンバッテいる人があまりに多いのです。

 法内、法外、というのは宮台さんの言葉で、簡易に「社会システムの中」と、「社会システムで規定されない外」ということです。つまり、違法駐輪はしてはならない、飲酒運転はしてはならない、という法で裁かれる行為に加えて、企業の中でどう評価されるか、両親や家族にどう思われるか、ということが「法内」となります。対して、「法外」とは、変性意識と宮台さんは呼びますが、社会システムに規定されないトランス状態のことです。宮台さんは「性愛」「まつり」といった世界を描いて説明しますが、私にとっては特に性愛、まつりに加えて、歓喜を伴うダンス、フュージョンの感覚をもたらすジャズ、と理解できました。つまり、「翔べる」という感覚をもたらすものです。

 最近、友人の良い子ちゃん女子たちから仕事やプライベートについて悩み相談を受けました。私が自由人ぽいから、あるいは普通の企業にずっと勤めていないからなのかもしれないのですが、とにかく苦しみを共有したい、何か話したい、どうしたらいいと思う、という感じ。みんなの悩みは、「仕事が苦しい、つまらない、けど、頑張らなきゃ」「仕事辞めたいから、結婚して子どもも作らなきゃ」といった内容です。さらには、本当はつらくて仕方がないけれど仕事を楽しいと思い込んで乗り越えて(洗脳して?)頑張り続けている場合もあります。非難しているわけではなく、事実、私も2年前までそういうメンタルモデルでした。また、29歳~30歳になるにかけて、5名の友人が、2・3か月付き合ってすぐに結婚、というケースを目の当たりにしました。詳しく話を聞いていないので、もしかしたら運命の出会いなのかもしれないのですが、これまた社会システムの見えない圧力(親・友人などからの意味のない同調圧力)によるものが大きいと感じています。

 そういうお前はどうなのよ、となりますが、私は(今は)無理して仕事もしていない(つもり)ですし、結婚もしていません。どちらも別に同調圧力に抗って、というよりも、たまたまそういうめぐりなだけだと思います。そのめぐりの理由は、私は法内の正しさを疑い続けて、自分の生きる理由を大局的に見続けてきているからだと思います。それがいいか悪いかはわからないのですが、少なくとも法外の縛りに苦しんでいる人を見ると、法内の圧力に惑わされず、自らの喜びや美学(法外)を追求することはとても重要な能力だと思えてきます。私は小さいころから負けず嫌いで父・兄にとにかく理論武装して勝ちたい、と思ってきました。中高では鬼のような校則を守り続けてがり勉をしてきましたけど、高3の夏に受験ノイローゼでダウン、2か月引きこもりになりました。で、徐々に法外の感覚をコントロールできるようになったのが大学に入ってから。希望の大学ではなかったけれど、とにかく自由に楽しく大学時代を過ごして、初めての彼氏もできて、本来大好きだったピアノに打ち込むようになって、法外の世界に自ら行く感覚をつかめました。その後も(今でも)、子ども時代の癖でしばしば法内の圧力に苦しめながら生きていきますが、その度我慢できずに飛び出したり、あぁこれね、とつきあえるようになってきました。

 法内で生きることがどうでもよい、と言いたいわけではありません。法外を追求して、法内で生きる術を身に付ける(宮台さん的には「社会に適応するフリ」)ことの大切さです。言い換えれば法内だけを一生懸命に生きるのではなくて、法外をできるだけ追求することの大切さです(これは岡本太郎氏の危険な道を選ぶ、ということとほぼ同義)。法内を一生懸命に生きると、歪な自分になります(大規模定住の開始は3,000年前、ということでそもそもホモサピエンスの感情の能力は社会だけを生きるようにはできていない、というのが宮台氏の持論)。例えば小中高大と超エリート街道で、外資金融入って海外駐在してその世界でだけ疑いなく一生懸命だけな人は、実は性愛や人間関係に問題がある場合も少なくない。例えばその法内の人生に何の疑いもなく生きれていればそれはそれでよいのかもしれないけれど、そうでない場合は大問題(何の疑いもなく生きていることについては別の問題がある可能性もある)。「法外」つまり、性愛(恋愛)であり、まつりであり、芸術でありを追求する必要がある。

 ここからは個人的な意見だけれど、(法内に苦しんでいる)良い子ちゃん女子にとって最も近い法外の追求方法は、芸術だと思う。楽器を弾くのでも、歌を歌うのでも、陶器を作るのでも、ダンスをするのでも。カラオケのような「ただの発散」に終わらない、自分なりの美学を追求するもの。それが「翔べる」感覚、「エク・スタシス」をもたらすからです。カラオケとかみんなで適当にクラブにいくというより、自分なりの美学を追求して、作り上げるもの。個人的には(ハードルが高いと思うけれど)コンテンポラリーダンス(インプロでももよい)と、絵を描くことと、あとは芸術ではないけれどランニングがよいと思っています。楽器演奏もそうだけれど、これは自由に弾ける能力がないとなかなかとべないので、すぐには難しい気もします。あとは翔べるような恋愛なんですかね。

 芸術活動に触れたり、ランニングすれば、良い子ちゃん女子の苦しみがすぐに解決するとか、女性の社会活躍が進むとか、そういう話ではないのですが、少なくとも法内だけで生きなければならない、という感覚から、法内に適応するフリをすればよい、という感覚にシフトすることができるのではないかな、と思います。

 あと、サラリーマンに変わる言葉を作るべきだと思います。

 日本人女性がくだらない(≒差別的な)法内の仕組みにとらわれすぎて、今を生きづらいのであれば、自分自身も含めて少しでも今に向き合えるように、引き続きインプットとアウトプットを増やしていこうと思います。

日本の社会、ブラックボックス

Black Box、読みました。 
事件の内容には特別言及しません。書籍を通して、彼女の紡ぎ出す言葉・生き様に、女性として、日本人として、ただ一人の人として、強く胸を打たれました。そして何よりもジャーナリストとしてのプロ意識に衝撃を受けました。「そんなことしたら業界の中で生きていけないよ、業界の中ではxxしなければならない」というような仲間のアドバイスをそのまま受け入れず、自分で考え、自分の中の「正しさ」を貫く彼女は、まさに岡本太郎氏の「危険な道を選ぶ」ということに等しい行動だと思います。「そんなことしたら、周りが機関銃だらけの平原に裸で走っていくようなものだよ」という行為と似ている。社会を変えるとは、こういうことなのかもしれない。でもなぜ、彼女一人がそれを背負わなければならないのだろう。
「社会と戦ったりするより、人間として幸せになってほしい。娘には一人の女性として、平穏に結婚して幸せな家庭を築いてほしいておいうのが親の願いなんだよ」
という、彼女の父親の言葉にもそれが表れています。
加えて本書は、日本の閉ざされた「性」への認識に焦点を当てることができた良書だと思います。良くも悪くも事件そのものが注目されたことで、日本の閉ざされたブラックボックスにメスをいれる、本書の担う役割は大きいのだと思います(私も現に多くの新しい知識を得、深く考えました)。そもそも性行為について明るく語りづらい文化の中で、性犯罪はもっと語られない。被害者は本当に、泣き寝入りするしかない状況が多いと。一つ一つの事例に焦点を当てながら、なぜ法で裁きづらいのか、なぜ被害者は事件直後に法的証拠を集めづらいのか、構造的、精神的なハードルから多面的に記してあります。個人的経験とも重なったのが、「擬死状態」という言葉。被害にあう間、危険を察知して「擬死」的な状態になるため、抵抗することが難しいということです。痴漢経験者であれば、経験したことがあるのではないかな、と思います。中高生時代、多くのクラスメイトが満員電車で通ってくるので、(恐ろしいですが)痴漢を経験している子が本当に多かった。私自身、被害にあった時はただただ怖くて、まさに全身が固まったような状態になった。今は強く闘えますが、大きな声で「痴漢です!」といったり、声を上げて捕まえたりすることは、当時とてもじゃないけどできなかった。声が出ない。動くこともできないこともある。著者も記していることと似ていて、同級生と多く各自の被害について話したことはあるけれど、捕まえたケースは6年間で1件も知らない。犯罪に大きいも小さいもないのかもしれないけど、レイプは被害者にとって(日本の場合は特に)社会的死、精神世界との断絶といった非常に辛い状況になる可能性が高い。しかし、法的に裁きづらいから“仕方ない”、と語られてしまう。本書はそんな法そのものに疑問を持つきっかけも与えてくれます。
そして本書が興味深かったのは、「法的には」という言葉の元に片付けてしまう、また、とにかく批判ばかりしてしまう、日本の損得勘定システム・感情の劣化について淡々と言及していることです。何でもかんでも、損得がないと行動しないと考えている人。大いなる優しさや正義といった感覚を忘れてしまっている人。そんな人がたくさんいる。巷でよく言われる社会貢献活動をすると意識高い系・偽善者となる認識や、恋人とうまくいっていることをリア充、と呼んでしまうこと。本書の筋とは少しずれますが、社会システムの中での地位や自分の満たされない欲求にとらわれて、正義や寛大さや愛といったものを正面から受け止めきれないでいる、まさに感情の劣化について、本書を通じてまた一つ考えることができました。
薦めたい一冊です。
 

時空を超えること、愛するということ

 いつだったか、アインシュタイン相対性理論が「時空を超えること、それは愛ということ」を言っているのである、という記事を読みました。アインシュタインがそう言ったかの真偽は定かではないのですが、私の実体験から考えるとそれは本当で、そこに誰かの愛があること(あるいは情熱があること)は、実体がなくても、自分の心の中に永く生き続けています。近頃、この言葉を通して自身の生き方への気づきがあるので、それについて書こうと思います。

 愛は時空を超えるということ。例えば、小学校低学年時のユン先生との体験は、いくつも心に残っています。「身体に受けた傷はいつか癒えるけれど、心の傷はいつまでも癒えない」という言葉。彼女が愛を持っていじめっ子を怒ったときの顔、教室の雰囲気。それは彼女が熱意のあるかっこいい先生だったから、というよりも、彼女が深い愛を持って生きることを説いてくれたからなのだと思います。子どもへの愛を超えて、彼女の経験に基づいた人間そのものに対する愛があったからなのだと思います。また、私の母親は深い愛情を淀みなく注いでくれる人ですが、この感覚は、母の存在を超えて私の中で「いきて」いますし、私の子孫を通じて、周囲の人を通じて時空を超えていくと感じています。一方で、すごく優秀な(といわれる)先生や有名な人にお世話になることもありましたが、だからといって心に残り続けているものが多いわけではありません。

 最近は、自分の仕事についても同じように理解できるようになりました。理論的に説明すること、芸術活動をすること。今まではよくそれらを二元論で捉えて、つまり、「理論や仕組みを作ること」と「感情を動かすこと」はまったく違うもので、本質的には仕組みを作るよりも、感情を動かすことが大切なのである、と形式的に理解して選択しようとしていました。しかし、「仕組みづくり」や「感情を動かすこと」は、言葉として全く別のことを指しているようなのですが、それ自体は単純に形式的で差がないことなのだと思うようになりました。つまり、理論づくりにせよ子どもと踊ることにせよ、それは表層的な話であり、その取組において愛があるかどうかが重要なのだと思っているわけです。仕組みで人を変えることはできない、と言う人もいますが、それは少し乱暴で、どちらかというと、愛のない箱だけの行為では人を変えることはできない、ということなのだと思います。利己的な意図から生まれたものでは、人を変えることはできない。しかしそれがもし自己を超越した情熱や愛に基づくものであれば、何にせよ、それは時空を超えて残り続ける、人を変えることができるということなのだと思います。

 加えて、ここでいう「愛のある」というのは、必ずしも誰かのためにということではなく、自己を超越した感覚、生命や存在というものに対する深い敬愛、そういったものだと思います。ベートーベンの曲、アインシュタインの理論、ゴッホの絵、全ては実体のある存在を超越した深い敬愛に基づいて、時空を超えて残っているのだと思います。逆に言えば、褒められたい、認められたいといった自己へ向かう意識に基づいた行為の「いのち」ははかなく短いものだと思います。現に、そうした人の言葉、仕事や作品を見聞きしても、(どんなに「すごい」といわれることであっても、自分の中では一定期間残ったとしても、)はかなく息絶えています。

 自分自身、ふとした瞬間に「かっこよくみられたい」「自分は優れていると思われたい・思わせたい」という意識があります。「愛は時空を超える」という言葉を通して、なんと浅はかなのだろうと思うようになりました。自分が優秀だ、と思われたとして、それはおそらく数日、数か月のいのちです。でも自分が大いなる存在への愛を持って仕事を行えば、そのアウトプットが一見すごく小さいものだったとしても、一緒に仕事をした人の中に永く生き続けるのだと思います。私はそう生きたい、と思います。でかいことをしたい、誰かに影響を与えたい、認められたい、偉くなりたい、受賞したい、そういう表層的なことを目指してしまうのですが、表層的なことを意図して「すごく」なったところで、そんな「自分」は数年のいのちだと思います。対峙する相手の心の中に温かく生き続ける生き方をする。深い愛をもって、存在が時空を超える。生まれてきた意味とは、生きるとは、今の自分にとってはそういうことだと思っています。

どうしようもないけれど、とにかく一緒に考えること・やることが大事だということ

どうしようもない、というのは、生まれた家庭にある程度自分の人生が依存することがどうしようもないことだ、ということです。世界が絡み合う社会によって成り立っているので、良い(と思える)にせよ悪い(と思える)にせよ仕方のないことです。私はたまたま(たぶん)中産階級のおうちに生まれて十分すぎる教育を受けました。私の両親はそもそも教育に大変理解のある人で、たくさんの本や芸術に囲まれて育ちました。ヤンキーで16歳で結婚して、子どもも二人いてもう離婚もしちゃった、みたいな小学校の時の友達もいますが、その子たちもみんな生まれた家庭にある程度類似している人生を歩んでいると感じます(みんな本当に素敵な人なのですが)。小さい頃に社会認識が形成されていく中で、本当にこれはある意味仕方のないことだと感じます。

9月中、イギリスに滞在しているのですが、貧困の連鎖に関しては、イギリスも似たような状況みたいです。カエルの子はカエルだし、王様の子は王様の子、という野が確率的に当たり前、ということ。日本でも貧困の連鎖は最近よく話題に上がるようになりました。

私が仕事で関わるのは、「教育プログラムを複数年度やると子どもの希望進路進学率が高くなる」といったような「xxをやったら〇〇がよくなる」ということをどうやって進めていけるか、という可視化についてです。どうしたらそういう活動の成果をちゃんと可視化できて、より効果が出るようにマネジメントを良くして、そして寄付や助成金や投資をちゃんと促せるのか、ということに大きな焦点があります。これはこれで大事なことです。ただ、改めて今回思ったのは、「そもそも違う世界から違う世界への(ある意味上から目線の)支援」というのは、最も高い効果をもたらせない可能性がある、ということです。それは、別の誰かが正しいと思うことを押し付けているからで、相手を尊重しておらず、共に作り上げることに焦点が当たっていないからです。国際開発の分野でもずっと言われてきたことなのではないかと思います。たまたま奨学金があって、たまたま良い教育に巡り合えて、たまたま良い人に巡り合えて、ということがあれば、人は変われる可能性がある。でも、欧米型の教育に慣れたからといって、それは彼や彼女が生まれたコミュニティを変えることとは無関係です。 

何を言いたいかというと、それぞれを尊重するのであれば、トップダウンの考え方、(ある一点で)エリートが正しい、高い教育が正しい、という考え方を一旦脇に置いて、共に作り上げる姿勢を持つことが重要、ということです。結果的にトップダウンで進める方が効率的な可能性もありますが、姿勢としてまず共にある、ということが重要だと思います。社会主義でも共産主義でも右翼でも左翼でもありません。互いの文脈を理解する姿勢を持つ。それから、それらの文脈を理解できるような思考能力を持つことだと思います。

La Biennale di Veneziaに行く機会があり、そこで強く感じたのは、社会的に困難な状況なほどに力強い芸術が生み出されているという事実です。「言えないけど言いたい、やりたいけどできない」という状況が彼らの作品には痛いほどに表れている。何のために生まれてきたのか、どうして生きたいのか、痛いほどに考えている、感じているが故の作品なのだと思います。

日本は今一般的に言って、相当な「思考停止」に陥っています。というより、幼少の頃からの教育によって陥らされています。私達はとにかく考えるべきです。なんで生まれてきたのか、なぜその仕事をするのか、なぜお金を稼ぐ必要があるのか。赤字国家に生きる市民として、でも先進国としてたくさんの人々を救える可能性がある存在として、考えるべきなのです。

「“茶色の朝”を迎えたくなければ、思考停止をやめることです」 哲学者・高橋哲哉さん|KOKOCARA(ココカラ)−生協パルシステムの情報メディア

日本人は、平均して世界的にかなり恵まれた状況にあるといえます。私たちが考えるべきは「自分にとってなにが便益か」、ということだけではなく、自分は何がしたいのか、自分は「誰かのために」何ができるのか、ということです。そしてもし、その「誰か」が見つかったのなら、「一緒にやる」ということをとにかく考えることだと思います。自分の文脈も相手の文脈も、十分に考えた上で、何をするかを改めて「選択」すべきなのです。

 どうしようもないんだけれど、とにかく考えて、一緒にやることが大事なのです。互いに考えることが大事なのです。自分は頭が悪いから、とか、自分は考えるのが遅いから、とか、そういう言い訳ではなくて、とにかくそれぞれの文脈で、最大限考えることが重要なのだと思います。そして、それぞれが発言・表現して、共に作り上げることが大事なのだと思います。頭が良すぎる(と思っている人)は、一緒にやる、というスタンスに徹底することが大事だと思います。

そして、「共に作り上げる」プロセスにおいて、芸術的・創造的なプロセスが最重要だと思うのですが、この点については、また次のブログで書きたいと思います。

自らの情熱に従って心から話すこと、そして相手への尊敬と優しさが真に人を動かす

素晴らしい人に会った。ごく普通の、仕事のミーティングだったのですが、温かく、優しく、かつとても情熱的なエネルギーに強く心を動かされました。今の仕事を始めてから(というか仕事をし始めてから)初めてこんな風に人に動かされたと感じています。

アンガーマネジメントとか、そういうことではなくて、いかに自分の情熱に正直であり、かつ周囲を信じるか、ということがとても重要なんだな、と思いました。

加えて、自分の他人への批判的が転じて否定的な態度や、怒りやもどかしさが、今まで人にネガティブに伝染していたことに気づき、反省しました。自分のかしこさ、人にどう見られるかや成功するかどうかなど、そんなことを少しでも気にしている自分は浅はかだと改めて思いました。本当に、相手への尊敬と優しを前にしてそんなことは本当にどうでもよいことなのだと、あらためて感じました。

新進気鋭のダンサーや音楽家を見たときの、生き様への絶対的なあこがれというのとは少し違い、人との接し方、社会的なつながりの作り方の素晴らしいお手本を見た気持ちです。そしてそうした人への接し方は、誰にでも実践できることなのだと思います。

人を動かす・何かを一緒にするときに、強い情熱があることが大切だ、というのはもちろんだと思います。でもそれ以上に大切なのは、周囲の人を信じて、優しさでEmpowerすることだと思いました。

Collective impact、という概念が社会的事業の領域で流行っていますが、こうした動きは、彼のような人がいて初めて実現するのではないかと思いました。行政機関も、非営利組織も投資家も市民も、みんな全然違う想いや志向を持っています。加えて性格も異なり、怒りっぽい人や謙虚な人、知的好奇心が強い人、寛容な人など、様々です。理論を並べてロジカルに攻めることが正攻法な部分もありますが、複雑な課題やプロジェクトに共に取り組む、それが社会をよりよくしてくことであればあるほど、理論だけではうまくいかない。そして嘘の言葉を並べても、人を動かすことはできない。Speaking from the heart、自らが信じることをまっすぐに優しく相手に伝えること、そしてもちろん相手に耳を傾けることが重要なのだと彼の働き方を見て学びました。

最近、能力をとにかく高めて、経験を積んで、Specialistになればみんな話を聞いてくれるのではないか、認めてくれるのではないか、と思っていましたが、勘違いでした。もちろんそういう側面はありますが、それは超表層的なことで、それでは人を動かすこと、社会を変えることはできません。才能があったり優秀であるならば、ちょっと相手に冷たかったり、コミュニケーション能力がおや?と思われても大丈夫だ、と思っていましたが、それも違いました。いかなる相手でも、どれだけ相手を尊敬し、優しくあれるか、そして同時にどれだけ自分の情熱に常に正直であれるか。それがとても重要なことだと思いました。

彼のような人に、なりたい。彼のような姿勢で仕事に望みたい。そうすれば、きっと見える世界が大きく変わるのではないかと、そう思います。

 

自分を批判する。相手が鉄壁に見えても、他人への批判をきちんと伝える。

(毎週ブログ書く書く、と言い続けるのをやめることにしました。ただ、ブログは書き続けるので、ひと月に1~5本くらいは書くようにしたいな、と思います。。。)

ここ2週間で自分のAttitude(態度というか姿勢というか)に対する反省をしていました。

何かというと、「とことんジャッジし、相手が鉄壁に見えると批判せずに逃げてしまう」という姿勢です。最近創造性や芸術に対する理念を結晶化しようとすればするほど、シックスセンス(直観)で人のことを見て、「あ、この人すごく感性が開いている!」「あ、この人は開いてない・・・」など、そんな目で人をジャッジしていることがすごく多いのです。それは自己という視点を通している限り仕方のないことだ、とも思っているのですが、問題は相手のことを心の中でだけ批判(というか非難)して伝えずに、自分が傷ついていることです。元々の性格もあるのですが、この人おもろい、つまらん、と分けて面白いと思った人としか付き合わないようにしようとしているのですよね。

それを省みていました。それでいいやん、と思ってきたのですが。。。よくない。

これをしていると自分のVision(全ての人が創造性を思い出して自分自身のエネルギーの源に立ち返ること)に対して矛盾しているはもちろんのこと、誰にとってもよくないのです。つまらん、と心の中でむっつり非難するのではなく、私がやるべきことは「自分の価値観からみた批判をきちんと伝えて、その人の創造性を引き出すようにする」ことなのだと思います。人をつまらんと切り捨て続けていることがイコール自分自身(の持つ信念)を切り捨て続けていることと同等であり、とても疲れていました。

自分が最近特に辟易してきた相手は、「いい(正しい)ことやっている」を信じて疑わない人です。彼(女)らはその「自分は(自分が正しくないことも知っているからこそ)正しい」という信念の元、自らを批判しない(ようにみえる)ので、一緒にいるとそのエネルギーにとても疲れてしまうのです。つまり本当は違うよね、ということを伝えることができないような鉄壁のオーラを感じるんです。要は全然柔軟じゃないように見える(と私はジャッジしてしまう)。その人たちが柔軟じゃないと思うからこそ、そういう人たちに直接の批判を言うことが難しく、創造性を引き出すことが難しいと思っています。結果的に逃げてきていました。

創造性がないことを嘆いて、勝手に非難して、逃げていればそれは消極的な破壊です。

素直だろうが、鉄壁だろうが、そうじゃなかろうが、全ての人の創造性を信じて見つけ出そうとする、そういうAttitudeでこれからはいきたいなと思いました。苦手な人でも、鉄壁でも、出会ったからにはそういう姿勢で生きたいと思うのです。それは自分自身を健全に保つことでもあり、自分の信念を大切にすることでもあり、私が描いているVisionに向かうために重要なことです。

さらに、こうして書いてみると、創造性があることはVisionaryであることである、と以前書きましたが、そうでもないなと思いました(Visionaryでも超鉄壁な人がいるからです)。例えば子どもがみんな幸せに育ってほしい、とか、みんなが創造性にあふれた世界、みたいなVisionがあることはとても大事だと思います。でもこれは必ずしも創造性とリンクしない。創造性は、このVisionに向かう時に、よりFlexibleに、かつ、より多くの選択肢を作れる、ということなのだと思います。そして批判や他の意見にもオープンであれることでもあると思います。また加えて、さらに複雑系の中で進んでいく中で、Visionさえも見直す、ということをより可能にする力なのだと思います。

とにかく、私は相手に対して心の中で勝手にジャッジして、批判をあきらめる、というようなことはもうやらないぞ。

相手が偉い(ようにみえる、もしくはそうみせている)人でも、自分の信念に従って、伝える。それが危険な道を選ぶということなのです。

実行するのは難しいです。でも、そう生きる。そして自分も批判していく。