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何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

誰かのためではなく、ある特定の人のためであり、何よりもそれは自分のためであること

旅先でワークショップをしてみた。

そこで気付いたことは、参加するのと開催するのでは大きく意味が違うということ。

誰かにしてもらう、こうなってほしい、こうしてほしい、というのは大きなエゴであり、相手のためにはならないということがよく分かった。そして、自分のためにもならない。自分の理想像を押し付けることは、相手への攻撃でもある。

相手の気づきを尊重すること、相手の自発的な自覚を促すこと、そしてそれは何かの形の押し付けではないこと。自分自身もたくさんのことを気付かされた。どうすれば自分の思っている感情を相手にもわかってもらえるのだろう、それがただ言語での受け渡しではなく、圧倒的なその人の実感として、どのようにその人に伝えられるのだろう。

そしてそれは目の前に相手がいて初めて行われる感情の受け渡しであり、対話である。想像上で語っているとき、描いているときには、その行為はあくまで空想であり、エゴの領域を出ない。誰でもないどこかにいる人のためである場合、それはより空想に近く、自分のためというよりも、自分のエゴのためである。

一度空想ではなく、実在のものとして、ただ特定の愛する人に、わかってほしい、そのひとに気づいてほしい、その人に自発的に何かをしてほしいと願い、そう働きかけるとき、それはエゴの領域を超える。そして多いに自分の美しさのためでもある。

そう思った。そして私にとって実際にそれを続けていくことが重要である。一緒にワークショップの場に来る人と共に、対話を続けていくことが一人一人の実感を成長させ、自分自身の実感を成長させることにつながる。

何かを正しいと思って押し付けるのでもなく、自分自身の理想を描くだけではなく、直接的に目の前にいる人との対話を具現化し続ける。

それこそが何か実感を持って実施していることとして、自分自身に納得感をもたらしてくれるのではないだろうか。

 

やっぱりやりたいこと100%に向かえていないけれど、それは今の社会もお金も大事だから、と思っているから。でも・・・

だいぶブログを書いていませんでした。

それは自分が目下目指すことが決まってすごくそこに向かって最近一直線だったからです・・・そして今も一直線で努力邁進中です。

英国に行く、Community artと評価についてとことん突き詰める、Contemporary danceのワークショップの形を突き詰める。

そして世界における芸術とSocial capitalに関する研究をずっと続ける。Contemporary danceを通したコミュニティ醸成を、自分の好きな地域でやる。

 

これに向かってずっと走っています。

でもやっぱり、これとはつながりがあるけれど直接は関係しない仕事を、仕事に使う時間の70%くらいしていて、そしてそれでお金を稼いでいる。

それでも30%くらいは関係のあることをできるのを幸せだと思っているのですが、どうしてこの70%を切れないのか、それには色々な理由があるなぁと思うので、整理しておこうと思っています。

①成長につながるから

ちょっとでもつながっているから、どんずばマッチしていなくても、自分がやりたいことに長期的につながることが自分でもわかっているから続けています。これは、一番真面目な理由です。でも一番嘘っぽい回答。

②金銭的な持続可能性を担保するため

海外に行くのも、自分が本当にやりたいことをやるのにも、現実問題資金が必要だと知っているからです。そして、資金がついたときに「自分が本当にやりたいこと」ができなくなり、インパクトを最大化できなくなるのを知っているからです。そしてこれはおそらく真実です。

③社会は自分がやりたいことだけではなく、信頼関係で成り立っている・成り立たせているものだから、と思っているから

一番現実的な話をすると、これが最大の理由で、足枷と感じていることです。あれがやりたいからこれを全部やめる、ということが私にはどうしてもできません。自分が今言語化しているやりたいことは、実はこうした複雑な社会・その他の人との関係性の中で生み出されているものだと言い聞かせるのですが、これが苦しい。この1年間は我慢だと割り切っていますが、そのあとは、もし自分のやりたいことをこれが理由で我慢しているなら、それはやめようと思っています。なぜなら自分がいるべき場所で最も価値が最大化できると信じているのに、それを生ぬるい信頼関係で諦めるのは非常にもったいないからです。真の信頼関係を築ければ、自分がやりたいことができないことなんて起こらないのです。これは恋愛でも近しいものがあるのではないかと・・・(関係ないけど)

Sustainabilityが大事で、最近の日本企業は本当に長期的な視野がなくて大丈夫かなって不安になるけど、これは私の人生も同じだと日々考える。

社会の中で生かされている、そして日々ただあることに感謝する。

それは大前提大事ですが、自分のやりたいことを見つけて、100%向き合っていくことを覚悟したなら、生ぬるいやり方では自分の人生を後悔するだろうと思い続けています。

今日の努力は明日の自分の真実につながるので、今はただ目の前にあることの向かいつつ、今日書いたこの自分の真実を忘れずに、一歩一歩進めようと思います。

爆発的にわくわくしたい

 年度末で報告書がたまっている。行政関連のものや自分で受けた調査の報告書等。提案書を書いた時点では胸躍るような内容だったものの、関係者との折衝や実際の分析作業で全然わくわくしなくなる案件もある。

 それでもわくわくする案件もある。それは単純に自分がその価値を信じているものである。それから、その案件に少しでも、超・面白い人がいる場合である。

 そんなこんなでいずれにせよ報告書は書き上げるのだが、今ずーっと心の中にあることは「爆発的にわくわくする」ことがしたいということだ。爆発的にわくわくして、楽しくて、わーってなること。これをやってる間に死んでもいー!とか、そんなこと考えなくなるくらい夢中になること。それはダンスであるが、今私は多いに怪我をしているため思う存分踊れない(手首足首膝肘全部、痛いのです。)。痛くて涙が出てしまう。それでもダンスはやるのだけれど、今日の本論はそこではなくて、現実問題仕事の比重も爆発的にわくわくすることを増やしていきたいと思っている、ということである。

 そのために必要なCriteriaがこちら!

 ①一緒にやる人が爆発的に面白い人であること

 ②知的生産and/or創造性があること

 ③誰かにNew worldを提供できる(垣間見せられる)こと

 これは①から優先度が高いのだが、③→①の順に実現度が高いと思っている。つまり、③からフィルタリングしていって、最終的に①もクリアできる案件であれば万々歳だが、結構な確率で③をクリアしても②、①を満たさない、ということもある。でも今年は心からわくわくし続けたいので、最低限③、②を満たしていない限りは、仕事を整理しようと思っている。あとこのCriteria、自明なのだが、「芸術関連」に関してはかなり確率が上がる。ダンスも一瞬で満たしてしまう!

 こうして整理してみると今やっている(わくわくしていない)報告書の仕事も一応条件満たしているので、やはり粛々と頑張るのです、、、でも①は満たしていない、、、爆発的にわくわくしたい、、、

それでも毎日感じ続ける、考え続ける

 久々のブログ。心の整理ということで、最近特にいらいらについて考えています。

 いらいらするって興味があることだし、自分の中のinner childと向き合っていることだと、知っている。誰かや何かに対して、気持ち悪ーい、って思うこととか、つまんなーい、って思うこととか、自分が積極的に否定したいものって、どこか自分の中に共通点があるものだって、知っている。1年前くらいからこのことを知っていて、それでも積極的に否定して、げぼげぼーとか、思っていました。

 でも、いろんないらいらする仕事もやり続けてたらそれなりに面白くなってくるとか、好きなことを探し続けるって、直観的に場当たり的に探してるだけではだめで、一度腰据えて嫌いになりそうになってもやってみたりしなければ本当にさらに好きってところには行けなくて、時間てやっぱり大事だなってそんなことを改めて考えています。基本的には嫌いなことを頑張るのはやらないけれど。改めて、嫌いなことを受け入れてやってみるってのもいいなと思ったのです。

 そしたらふと、人に対しても、なんだかそれを受け入れようという気持ちがふっと芽生えてきました。あの人Facebookで自分の自慢ばかりしている~つまんなーいって思っても、その人もそれでいいし、あ、つまんなーいって思っている自分がだめだな、とかじゃなくてそれでいいのか、と。そうゆうものだなって思うなって。自分だって自慢しちゃうしイライラしちゃうしどう思われるか気にしてる部分あると思うし。

 ずーっと付き合っていく、というようにはならないかもしれないけど、積極的に否定しちゃうのは、あ、否定しちゃってるなって思えばよいし、付き合いたくなければ付き合わなくてもいいし。こういう文章って何も言っていないに等しいんだけど、何も言っていないに等しいことを言語化できるようになったことが一つの成長だと思うので、今日ふと書いてみようと思いました。

 ところで、ダンスはやっぱり好きです。自分の中では、ダンスが最も時空を超える瞬間を内在していると思っています。怪我しちゃってるけれど、引き続き頑張ろう~

「やりたいこと」の原型に出会う、「こうなりたい」人に出会う

 2月の最終週になりますが、コンテンポラリーダンスのワークショップに参加しています。これが、技術的にはもちろんなのですが、「場」として、ものすごく楽しい。

 ワークショップを担う講師が楽しくて、明るくて、技術ももちろんすばらしくて、愛にあふれていて、どうしようもなく楽しい。この3か月間様々な講師のワークショップに参加したのだけど、その中でもずば抜けて「場」が素晴らしいのです。

 そしてその「場」は、ロジックで分解できるようなものではなくて、単純に講師の先生の「人柄」そのもの。彼が明るくて、面白くて、みんなをCareしていて、グループとして完成させようという想いがあるから、参加している人たちも引っ張られるように同じになる。中学生も、40歳を超えている人も、男女も、ダンス経験もばらばらの16人だけれど、3日目にしてすごく仲良くなっている。振りも自然にお互いに確認できるし、「一緒に踊ろう」という気持ちがある。

 すっごく不思議で、楽しい。‟Groove”ってワークショップ中に先生もいうけれど、本当にそれ。友だち(この場合友達なのかもわからないけど、とにかく一緒にダンスを作るかけがえのない仲間)と一緒にGrooveを感じている。いつも理詰めで分解して考えてしまうのだけれど、今回は、この場づくりは、一口に彼が素晴らしいから。

 そしてその場に参加してみて、みんなが、自分が自由に自然に変わっていくのを実感して、私は「これ」がやりたいんだな、と思うし、「この人」になりたいんだな、と思ったのです。

 これはまさにコミュニティーアートだと思うし、元々言っていたダンスのワークショップそのものなんだけれど、まずは自分が「こういう人」になって、「こういう場」を作り上げたい、ということを実感することができました。

 ちょうど先日コロンビアで活躍する日本人横井研二さんが、「コロンビアに足りないのは日本の規律、日本に足りないのはコロンビアの自由さや楽しさ」みたいなことを伝えていたのですが、これまたしっくりきました。私が自由なダンスに魅了されているのは、自由さであり楽しさを完全に開放できるからなんだな、と。

 私はコンテンポラリーダンスのワークショップを通じて、「精神的な貧困(つまり自分のやりたいことを見つけられなかったり、見つけてても社会的状況から精神的に我慢し続けていたりすること)」にある人と共に、自己を解放していきたいんだろうな、と思う。音楽に合わせて、みんなが持っている「同じ」身体を合わせて、直に実感して、だれにでもすぐできて、そうして内発的動機をノックしていく。もちろん本当にやりたいことがダンスではなくてもよいのだけれど、精神を閉ざしている壁を壊せる、最も効果的で楽しい方法の一つがダンスだと思うし、それをもっと多くの人と共有してみたいな、と思っています。

 ラテンのノリが元々ある人と一緒にやりたいわけじゃないのかも。本当は壊したいけど壊せない心の壁を持っている人を、ダンスを通して一緒に壁を壊していきたいんだろうな。

 初めてフランスに行って、自分の心の壁がだんだんと開いていったことを思い出す、そんな1週間です。そして今は、その感覚をダンスを通してより広くの「精神的貧困」に苦しむ人に届けていきたいな、と思っています。

芸術と自分自身:Art, Born Creative, Engagement

 前の記事の①を書いてから、結構時間が経ってしまいました。そして続編になる②を書こうと思っていたのですが、その前に別のことを書きます。この1~2週間とても貴重な経験を通して自分の思うことがかなり言語化できたため、文章として書き残したいと思っているのです。

 この1~2週間、あらゆるダンスのワークショップに参加しました。その理由は2つあり、1つは『ダンスがとにかく楽しいので、年齢や経験にとらわれずにもっとやってみたい』と思ったから。そうしてもう1つは『本当にダンスが好きなのか、確かめたい』という気持ちがあったからです。そして異なるダンサーのワークショップ(いずれもコンテンポラリーのダンサー)に参加しました。そうして、予期せずダンスの枠組みにとらわれない形で、自分の『やりたいこと・やるべきこと・やれること』がクリアになってきたので、それをまとめようと思います。これが題目の、芸術と自分自身、ということです。

 それは、私自身がやりたいこと・やるべきこと・やれることは、『全ての人が"Born Creative"であるということを証明する・普及する・発育する』ことだと思ったということです。(この言葉は、2017年5月に東京芸術劇場で開催される藤倉大さんディレクターの"Born Creative Festival 2017"にそのままインスピレーションを受けています。参考:https://www.geigeki.jp/performance/concert107/)私はまさにこの言葉通りのことに活動の主軸を置きたい、ということを経験を通して思いました。

 私は4人の異なるダンサー(ダンス・カンパニー)の開催するWorkshopに参加しました。それぞれ面白い・面白くない、と思う瞬間があり、それらがなぜ起きているのかを掘り下げました。答えは単純でした。私が面白いと思うかどうかは、『誰もがクリエイティブだと感じられるか』に依存していたのです。いずれのWorkshopも、世界的に活躍するダンサーによるものです。クラシックバレエ出身の方もいますし、国籍もばらばらで、障がいを持つ方もいます。参加者も全く雰囲気が異なります。この、講師の違いや場の違いで、私が共にありたい芸術の姿が明確になりました。

 私が最も好きなワークショップには、年齢はもちろん若い子も、50代・60代の人もいて、男女もばらばら、たぶんそれもあって、誰も「これができなければいけない」ということは思わない。そして何より、WSの設計が『とことん自分に向き合うこと』に設定されています。「これが正解、たくさんターンができた方がいい、高く跳べる方が良い」といったテクニカルな話は全くありません。何も教えてもらえない。枠組みがない。それぞれが異なり、自分にはできることとできないことがあり、意識や音楽によって自らの身体がどのように変化するのか、それにとことん向き合う。自分で探さなければならないのです。自分の中にこそ、Creativityが存在するのです。その空間の中で同じ状況に取り組む人がいながらも、みんなが違う形で身体を動かし、またそこから影響を受けて自身が変わる。こういったことを呼吸や歩くことを通してひたすら行う。その空間の中でこそ、自分自身のCreativitiyを探求できるのです。これはもっと言えば、自分自身の存在意義・生きる意味を探求することと同義だと思っています。私はこのWSに1年ほど参加していて、ここが私のダンスへの興味の始まりでした。ただ今回、他のWSに参加したり、ダンサーに出会うことで、私は決していわゆる"ダンス"に強く惹かれているわけではないのだと、改めてわかりました。このWSで起こっているような、『全ての人が"Born Creative"であり、自分らしさを探求するもの、他の人との違いを認識しながら空間の創造を感じること、そのプロセスこそが美しい』という感覚に興味があり、信じていることなのだと改めて分かったのです。(そして余談ですが、藤倉大さんが相馬で行う「エル・システマ作曲教室」もまさにこの、Born Creativeの具現なのだと、改めて認識することができました)

 対比のために、残念ながら興味を持てなかったダンスのWS(の一部)を例に挙げます。ここでは振付が存在し、その振付に沿って行わなければならない。そうして『できなくてもよい』という感覚はありません。足が高く上がった方が良いし、長く跳躍できた方が良い。その方がより"イデア"に近く、美しいからです。これは何をダンスと規定するのか、何を美しいと感じるのかにもよりますが、一般的により強くEngageすることが美しいとすれば、その高みに挑戦する・それができるという意味では、Audienceは明確により強いEngagementを感じることができ、美しいことなのだと思います。一方で、『xxでなければならない』『xxであるほうがよい』という前提があるために、個人の差は一定のレベルに行かない限り『それぞれの違いなのでそのままが美しい』とはならないのです。それは努力の不足とは異なります。年齢や性別、生まれた環境や身体機能の差により、できること・できないことがあるというのは努力とは全く別の軸で存在することだと思います。そしてまた、興味深いのはいわゆる"ダンス"色が強いWSほど(例えばダンス経験者が非常に多いとか、講師がコンサバ志向であるとか)、例え意図していなくても、私のような経験が浅いものは、なんとなく引け目を感じるのです。これは場の設計に依存しますが、「初心者歓迎」と書いてあっても、WSの作り方として、「これは型を目指しているものではない」とか、「そのままでよい」とか、そういった誘導がないと、なかなか『全ての人がBorn Creative』な場にはならないわけです。覚えなきゃ、こうしなきゃ、ああしなきゃ、と心が支配されていくのです。周囲の若いダンサーを目指す方々がいる中で、できなくて悔しい思いもありますし、あれ、私って場違いだな、と思ってしまうのです。ただこの体験を通じて、私が目指しているものは違うものなのだと痛烈に感じることができました。もっとクラシックバレエを続けておけばよかったな、という後悔がないのは嘘になりますが、だからこそ、私にしかできないことが別にあるのだと再認識できたわけです。

 異なるWSに参加することを通して、CreativityやAestheticというのは、何かの型や枠があってそれができることで生み出されるのではなく、個々人が独自に生み出せるものだということ、それを探求することこそに、私が求める真実があるのだと思ったのです。

 スコットランド人のダンサー、Claire Cunningham氏(彼女は足に障がいがあり、松葉杖と共に踊ります。)のWSの中で、2つの言葉が特に印象的だったため、引用します。一つは、『各人の有する時空は異なる』ということと、もう一つは、『美しさはEngagementから生まれる』ということです。

 一つ目の言葉は、個々人の持っている能力や感じ方はそれぞれ異なるので、それは異なっていて当然だ、ということです。ですので、耳が聞こえない人のためには手話通訳の時間をみんなが当然待つし、トイレの時間が長い人は、当然その時間を待ちます。そこには絶対的に『xxしなければならない』という世界観はありません。生物学的に個体は異なっており、その人にしかできないことがあり、その人にはできないこともあり、それぞれを真に尊重していると私は感じました。彼女はまた、自分の障がいは一つのAdvantageでもある、とも言っていました。足が弱く、松葉杖だからこそ、自分にしかできないダンスがあるというのです。

 二つ目の何に美を感じるのか、何が芸術を美しくさせるのか、という問いは常々私も持っているものですが、彼女は『Engagement』という言葉を使いました。これは本当にシンプルで、納得のいく素晴らしい考えだと感じます。「何々ができること」「これこれの形」ということには、私たちは直接的に感動していないのではないでしょうか。その背景にある、そのダンサーの強い信念、まさにEngagementを感じて、そこに強く心を奪われるわけです。よってAIの作る芸術模倣品は我々の心を強く動かしはしないでしょう。そのAIを作ったEngineerには、あるいは美しさを感じるかもしれません。これは芸術を超えてもなお単純に語れることで、先日の全豪オープン決勝のRoger Federer・Rafael Nadal戦の美しさも、そのEngagementから伝わってくるものだったと思います。何度も引用しているDaniel Barenboimの言った言葉、「私たちはテクニックはなんでも教えることができる。でも、『好き』という気持ちは教えられないのです。」という言葉も、芸術家各人のEngagementにつながるからこそ重要であり、「好き」という気持ちが芸術の美しさに直結するのだ、と改めて思いました。

 私はダンサーになりたいわけでもないし、いわゆるダンサーにはなれないのかもしれません。ただ、全ての人が自分はCreativeだという自信を取り戻せるための活動をしていきたい。それは大きな社会の枠組みの中で、全ての人が生きる・生まれた意味を取り戻していくこととも言えるでしょう。自分自身があらゆる創造のプロセスを繰り返すこと、子どもや、Creativityを忘れたり・かき消したり・押し殺している大人に対して、Creativityを引き出せる場をたくさん作ること。そういった活動をしていきたい。『自分にしかできないことがあると実感する』『自分の存在意義を実感する』『他者との関係性を実感する』ということは、自分自身に向き合う芸術活動を通してこそ、最も効果的にできるのだと思います。誰もが、自分も他者も、それぞれその人にしかできないことがあることを思い出せる場を作りたい。そのために芸術があるのだと思うし、私が芸術活動に向かう意義があるのだと思います。何より、私がそうして自分自身のCreativityを今、実感として取り戻しているのだとも感じます。

 まだまだ書きたい気持ちもありますが、大変長くなりましたので、終わりにします。冗長な部分もありますが、自分の思うことをたくさん書いてまとめて、大変充実した嬉しい気持ちです。

社会的インパクトとは、社会的インパクト評価とは、そして「芸術・文化」領域に関して思うこと①

 この1週間、様々な団体のお話を聞いてそのロジックモデルを書く、という仕事をしていました。"ロジックモデル"とは、各団体そのものやその事業の波及効果、社会へもたらす変化を、何をして、何が起きているかを、「インプット、アクティビティ、アウトプット、アウトカム(初期・中期アウトカム)、インパクト(最終アウトカム)」の流れで論理的に追えるモデルのことです。例えば最近では、日本の社会的インパクト評価を推進しているプラットフォームから、若者就労分野に関するロジックモデルが公開されています(参考:社会的インパクト評価イニシアチブ)。各団体がロジックモデルを作成することで、各団体の運営改善、キャパシティビルディングにつながる、というメリットが挙げられます。そしてその先にある「何を指標としてどう評価するのか」というところに論理的につなげることができます。

社会的インパクト評価とは | 社会的インパクト評価イニシアチブ

 この概念はもちろんNPOの成果の可視化のニーズから注目されてもいますが、2008年のサブプライムローン金融危機の後から、ビジネスの領域においてもESG投資を含め、非財務指標が注目されており、今後益々広く重要性が増すと考えられています。

 団体ヒアリング(NPO向け、資金提供者(財団や企業)向け)を行う中で、気付いたことがあるので、メモとして残しておきます。

 気づいたことは、「ロジックモデルはミッション・ビジョン明確化のためにも、組織運営の意味で整理できていて然るべきもの」ということと、「その先にある指標の設定と測定は、一定程度必要だが厳密さや指標の数は各関係者のニーズに依存する、そしてインパクトを可視化する上では(必要)十分条件であるが、組織を理解する上では必要条件でも十分条件でもない」ということです。前者のロジックモデルを論理立てて書けるということは、各企業でいうところの設立趣意書があって、何らかのフレームワークを用いて(マッキンゼーの7S等)組織・事業をきちんと整理できているかどうか、と似ています。それが論理的に整理できいればいるほど、マネジメント、事業はきちんと回るものです。反対に、それをやっていないかといって、組織・運営基盤がきちんとしていないわけではない。論理的に整理できれば、イコール組織・運営基盤が強いという証明にもなるということです。ですので、どんなフレームワークでもいい。ロジックモデルがしっくりこなければ別のフレームワーク(例えばThery of change等)を利用すればいいと思います。論理的に事業とインパクトがつながっていて説明できればよいということです。そして後者の「指標を設定して測定する」という話ですが、成果の可視化のため、いくつかの指標を設定しておくことは重要だと思います。説明責任を問われた時にも非常にわかりやすい。企業でいうところのP/L、B/Sちゃんとしていますか、売り上げ目標ありますか、顧客満足度等、そんなところだと思います。ただ、全てのアウトカムに対していくつもの指標を設けることや、対象者や関係者に負担になる測定方法(多大なアンケート等)は関係者の意向によってやるべきかどうかを判断すればよいのだと思います。ここは結局誰のために評価をするのか、という問いで最終形態をイメージする必要があると思います。

 加えて、何より興味深かったのは、「最終的に団体に会わなければ社会的インパクトを目指しているのか、起こせそうかどうかはわからない」という感覚です。団体内のビジョンの共有や運営改善のためならば団体内の議論によるロジックモデルの作成(+指標測定)だけでよいと思います。ただ、それを用いて資金提供者や寄付者に対して説明する、助成金補助金を申請するための資料として用いる、行政に報告資料として提出する、となると、それだけでは十分ではないのです。異なる2団体が似たようなロジックモデルを書くこともあり、しかしその2団体の印象は非常に異なるのです。ここをうまく差別化できるかと問われると、紙面上ではとても難しい。これは社会的インパクト投資を実施する時にも重要な論点だと思います。何を社会的インパクト投資と呼ぶかによっても議論がずれてしまうのですが、いわゆる「社会的インパクトを本当に目指す投資」、ひいては資金提供(助成・融資等含む)においては、シード期のスタートアップへのベンチャー投資にも似た「経営者・組織の哲学」を尊重するような、非常に丁寧なDue deligenceが必要だということです。公的資金をまとまって提供するようなものの場合、ある程度決まったフレームワークでの各評価が必要だとは思いますが、真正に「社会的インパクトがある」かどうか判断するのであれば、単純にフレームワークを見て、というのはなかなか難しい。そして測定された指標のみを見て、紙・データベースで判断するのは困難を極めると思います(そこにある指標がどれだけうまく設定できているかだと思いますが、その測定方法も統一されないため、どこまで透明性を担保できるかなど、議論は残ります)。

 ここで私が主張したいのは、丁寧なDue deligenceとはDialogueの必要性を包摂しているということです。経営者・組織・関係者、彼らの目指す「社会的インパクト」とは何か、どれだけそこに意志があるのか、そういったことは、会わずして、話さずして、感じること、理解することはほぼ不可能だと思います。それは、我々が何によって心を動かされるのか、生きている意味を感じるのか、ということともつながります。「社会的インパクト」を起こすには、中心となる人々、組織がどれだけそこに"Engage"できているかということが重要です。その求心力がなければ、多くの人々を巻き込んで成り立つ「社会的なインパクト」は到達できるものではありません。そしてこの"Engagement"の強さは、ロジックモデルや指標測定、紙やデータベースではわからないものだと思っています。例えばそれは、爆発的な絵画を批評した文章を読んだり受賞数をカウントするだけでは、その絵画の爆発性を感じることができないように、例えばそれは、華麗なサッカー選手のプレーを書き下した文章で読んだり、得点数だけで判断できないように。あくまでそのものに触れることによって実感できるのだと思います。我々は心を文字通り動かされ、感動し、そうして初めて自分の意志で選択して行動することができます。「社会的インパクト」を志向しているのか、実現できるのか(つまり、持続可能な世界を実現するために解決すべき社会的課題があり、解決を実現できるのか)を判断するのには、紙やデータベースの仕組み・枠組みだけではなく、確実にそのものに触れる、Dialogueのプロセスが必要だと、私は感じています。

 この文章のタイトルにさらに「芸術・文化」領域に関して思うこと、とつけていますが、"Engagement"の考えは、Claire CunninghamというDancer/ Choreographerから得た発想であり、評価に関してかなりつながる部分があると思ったからです。でも文章が大変長くなりましたので、この辺で一度終了にして、第2部としてまた書きます。