何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

自らの情熱に従って心から話すこと、そして相手への尊敬と優しさが真に人を動かす

素晴らしい人に会った。ごく普通の、仕事のミーティングだったのですが、温かく、優しく、かつとても情熱的なエネルギーに強く心を動かされました。今の仕事を始めてから(というか仕事をし始めてから)初めてこんな風に人に動かされたと感じています。

アンガーマネジメントとか、そういうことではなくて、いかに自分の情熱に正直であり、かつ周囲を信じるか、ということがとても重要なんだな、と思いました。

加えて、自分の他人への批判的が転じて否定的な態度や、怒りやもどかしさが、今まで人にネガティブに伝染していたことに気づき、反省しました。自分のかしこさ、人にどう見られるかや成功するかどうかなど、そんなことを少しでも気にしている自分は浅はかだと改めて思いました。本当に、相手への尊敬と優しを前にしてそんなことは本当にどうでもよいことなのだと、あらためて感じました。

新進気鋭のダンサーや音楽家を見たときの、生き様への絶対的なあこがれというのとは少し違い、人との接し方、社会的なつながりの作り方の素晴らしいお手本を見た気持ちです。そしてそうした人への接し方は、誰にでも実践できることなのだと思います。

人を動かす・何かを一緒にするときに、強い情熱があることが大切だ、というのはもちろんだと思います。でもそれ以上に大切なのは、周囲の人を信じて、優しさでEmpowerすることだと思いました。

Collective impact、という概念が社会的事業の領域で流行っていますが、こうした動きは、彼のような人がいて初めて実現するのではないかと思いました。行政機関も、非営利組織も投資家も市民も、みんな全然違う想いや志向を持っています。加えて性格も異なり、怒りっぽい人や謙虚な人、知的好奇心が強い人、寛容な人など、様々です。理論を並べてロジカルに攻めることが正攻法な部分もありますが、複雑な課題やプロジェクトに共に取り組む、それが社会をよりよくしてくことであればあるほど、理論だけではうまくいかない。そして嘘の言葉を並べても、人を動かすことはできない。Speaking from the heart、自らが信じることをまっすぐに優しく相手に伝えること、そしてもちろん相手に耳を傾けることが重要なのだと彼の働き方を見て学びました。

最近、能力をとにかく高めて、経験を積んで、Specialistになればみんな話を聞いてくれるのではないか、認めてくれるのではないか、と思っていましたが、勘違いでした。もちろんそういう側面はありますが、それは超表層的なことで、それでは人を動かすこと、社会を変えることはできません。才能があったり優秀であるならば、ちょっと相手に冷たかったり、コミュニケーション能力がおや?と思われても大丈夫だ、と思っていましたが、それも違いました。いかなる相手でも、どれだけ相手を尊敬し、優しくあれるか、そして同時にどれだけ自分の情熱に常に正直であれるか。それがとても重要なことだと思いました。

彼のような人に、なりたい。彼のような姿勢で仕事に望みたい。そうすれば、きっと見える世界が大きく変わるのではないかと、そう思います。

 

自分を批判する。相手が鉄壁に見えても、他人への批判をきちんと伝える。

(毎週ブログ書く書く、と言い続けるのをやめることにしました。ただ、ブログは書き続けるので、ひと月に1~5本くらいは書くようにしたいな、と思います。。。)

ここ2週間で自分のAttitude(態度というか姿勢というか)に対する反省をしていました。

何かというと、「とことんジャッジし、相手が鉄壁に見えると批判せずに逃げてしまう」という姿勢です。最近創造性や芸術に対する理念を結晶化しようとすればするほど、シックスセンス(直観)で人のことを見て、「あ、この人すごく感性が開いている!」「あ、この人は開いてない・・・」など、そんな目で人をジャッジしていることがすごく多いのです。それは自己という視点を通している限り仕方のないことだ、とも思っているのですが、問題は相手のことを心の中でだけ批判(というか非難)して伝えずに、自分が傷ついていることです。元々の性格もあるのですが、この人おもろい、つまらん、と分けて面白いと思った人としか付き合わないようにしようとしているのですよね。

それを省みていました。それでいいやん、と思ってきたのですが。。。よくない。

これをしていると自分のVision(全ての人が創造性を思い出して自分自身のエネルギーの源に立ち返ること)に対して矛盾しているはもちろんのこと、誰にとってもよくないのです。つまらん、と心の中でむっつり非難するのではなく、私がやるべきことは「自分の価値観からみた批判をきちんと伝えて、その人の創造性を引き出すようにする」ことなのだと思います。人をつまらんと切り捨て続けていることがイコール自分自身(の持つ信念)を切り捨て続けていることと同等であり、とても疲れていました。

自分が最近特に辟易してきた相手は、「いい(正しい)ことやっている」を信じて疑わない人です。彼(女)らはその「自分は(自分が正しくないことも知っているからこそ)正しい」という信念の元、自らを批判しない(ようにみえる)ので、一緒にいるとそのエネルギーにとても疲れてしまうのです。つまり本当は違うよね、ということを伝えることができないような鉄壁のオーラを感じるんです。要は全然柔軟じゃないように見える(と私はジャッジしてしまう)。その人たちが柔軟じゃないと思うからこそ、そういう人たちに直接の批判を言うことが難しく、創造性を引き出すことが難しいと思っています。結果的に逃げてきていました。

創造性がないことを嘆いて、勝手に非難して、逃げていればそれは消極的な破壊です。

素直だろうが、鉄壁だろうが、そうじゃなかろうが、全ての人の創造性を信じて見つけ出そうとする、そういうAttitudeでこれからはいきたいなと思いました。苦手な人でも、鉄壁でも、出会ったからにはそういう姿勢で生きたいと思うのです。それは自分自身を健全に保つことでもあり、自分の信念を大切にすることでもあり、私が描いているVisionに向かうために重要なことです。

さらに、こうして書いてみると、創造性があることはVisionaryであることである、と以前書きましたが、そうでもないなと思いました(Visionaryでも超鉄壁な人がいるからです)。例えば子どもがみんな幸せに育ってほしい、とか、みんなが創造性にあふれた世界、みたいなVisionがあることはとても大事だと思います。でもこれは必ずしも創造性とリンクしない。創造性は、このVisionに向かう時に、よりFlexibleに、かつ、より多くの選択肢を作れる、ということなのだと思います。そして批判や他の意見にもオープンであれることでもあると思います。また加えて、さらに複雑系の中で進んでいく中で、Visionさえも見直す、ということをより可能にする力なのだと思います。

とにかく、私は相手に対して心の中で勝手にジャッジして、批判をあきらめる、というようなことはもうやらないぞ。

相手が偉い(ようにみえる、もしくはそうみせている)人でも、自分の信念に従って、伝える。それが危険な道を選ぶということなのです。

実行するのは難しいです。でも、そう生きる。そして自分も批判していく。

楽しさと喜びは違う~歓喜の追究と追求のススメ~

楽しさと喜びは違う。特に、「楽しみ」と「歓喜」とするとよりその違いが感じられると思う。辞書で動詞の比較をすると、以下のような違いがわかります。

楽しむ:
①楽しいと感ずる。心が満ち足りる。 「青春を-・む」 「余生を-・む」 「清貧を-・む」
②自分の好きなことをして心を満足させる。娯楽にする。趣味にする。 「釣りを-・む」 「油絵を-・む」
③将来に期待をかける。 「娘の成長を-・む」
④満ち足りた気持ちで、心が安らぐ。 「深くよろこぶ事あれども大きに-・むに能はず/方丈記
⑤豊かになる。裕福になる。
デジタル大辞泉より

 

よろこぶ【喜ぶ・慶ぶ・悦ぶ】:
①よい事に出合って快い・楽しい・うれしいと思う。また、その思いを言動に表す。 「お目にかかれてとても-・んでいました」
②祝福する。 「無事な生還を-・ぶ」
③ありがたいと思いつつ受け入れる。 「彼は他人の忠告を-・ばない」 
④(出産を喜ぶ意から転じて)出産する。子を産む。 「懐体して兄を-・びしより/浮世草子・桜陰比事 1」
デジタル大辞泉より

楽しみとは、どちらかというとライトで、娯楽、などに使われる言葉なのだと思う。一方で喜びとはより深い意味で、創造や誕生の喜び、など、ちょっと宗教・神秘的な響きがある言葉だと思う。音のイメージで語ると、楽しさは、シコペーテッドクロック(ティックッティックッ、みたいな感じ)、喜びは、ベートーベンの第九(ターラーラーラー、みたいな感じ)。

私は、真に生きるために、「楽しみ」だけではなく、「喜び」「歓喜」というものに触れるということがとても大切だと思います。生きているだけで素晴らしい、というのは最もなのですが、(自分にとっての)喜びの追究と追求のススメです。自分が何をするときにエネルギーが湧くのか、「歓喜」を感じられるのかが生命体をより精力的に動かすキーなのだと思います。

例えば、部屋にこもってBig Bang Theoryを見たり(最近よくやってしまう)、一日中ネットゲームをしたり、徹夜でカラオケすることは、「楽しい」とも言えますが、「歓喜」とは言えません。一方でうんうん唸って最終的に物語や論文を完成されることや、子どもの成長を感じること、興味深いですが熱心なスポーツ観戦で勝利することなどは「歓喜」に分類されるでしょう。「楽しさ」はどちらかというと消費活動に結びつく言葉で、喜びという感情は創造・誕生・思考と結びついている感情だと考えます。自分にとっての「歓喜」が何かを探り、そしてそれを求め続けること、というのはまさに自分の生きている理由に対峙していることだと思います。歓喜に結びつくことは、必ずしも楽しいとは限らない。苦しいことも、辛いことも乗り越えていかなければならないと思います。これは本当に興味深いですが、スポーツが一般的でイメージしやすい。錦織選手が勝つことは、歓喜だと思います。そして自分がフルマラソンを完走することも、歓喜。創造とは一見異なる行動ですが、ある意味「限界突破」というか、あるチャレンジを成し遂げることで「自らを再創造(成長)」していることとも言えます。(応援やAudienceの考察についてはまた今度ちゃんとしたいと思います)

ここで改めて言いたいのは、今後、世の中の働き方が変化していく中で、経済的に・心理的にある程度安定した環境にいる人々は、仕事をするとき・選ぶときに、自らの歓喜に基づいて決定することが社会全体の生産性、QOL、幸福度を結果的に上げるのではないかということです(そしてゆえに持続可能性を向上するはずです)。確かに舞台監督やダンサーとして、歓喜を求めて(基づいて)仕事をしている友人は経済的に困っている場合があります。しかし彼らの歓喜・創造性が本物であればあるほど、周囲の人を勇気づけ、周辺を変えていける力を持っていることを知っています。一方で、仕事が楽しいと語る友人がもちろん経済的に多くの貢献・生産に関わっていると思いますが、周囲の人を変えるような強いエネルギーを持つ人はごくわずかだと感じています(そして強いエネルギーを持つ人の場合には、仕事の中に真の「歓喜」を見出しています)。

今日の勅使河原三郎さんのブログで、以下のような説がありました。

新作とは新たな発言です。決意です。
それが疑問形であろうとなかろうと作品とは発言です。
「月に吠える」は私にとって実に危険で幸福な作品であると予感しています。
 [メールマガジンNo.872より] 

  発言であり決意である。危険で幸福である。

それは創造するからこその言葉だと思います。(幸福、という言葉よりも歓喜、という言葉の方が感覚に近いと思うのですが、それはさておきです)

皆が芸術家になるべきである。

それは一人一人が創造というプロセスを通し、発言・決意をし、自らに危険と歓喜をもたらす行為を行うことを意味しています。

私は、自らが一秒一秒、毎日毎日を過ごす中、どれだけそうしたプロセスに没頭できるかが、良く生き、良く死ぬことと同義だと考えています。

そしてそれは「楽しさ」という消費活動とは異なり、「歓喜」という創造活動を追究・追求することだと考えています。

次回は文化政策、文化経済の話、創造性と経済性の関係性についてDr. David Throsbyの文献を用いながら考察しようと思います。とても面白いです。

特に書きたいことがない週末もある

特に書きたいことがないのである、と書いている。

毎週日曜日にブログを書くことを決めて、ひとまずマラソンのように続けてみようと思っています(いや、いました・・・)。苦しいけど、苦しいけど、何かこれがゴールである!これが42.195kmのゴールテープなのである!と思うまでは走ってみようと思っているので、毎日曜日に何かを書きたいとは思っているのです。がしかし、早くも既に火曜日になってしまった、、、日曜日に書きたいことがなかったので、書きたいことがない、と書いたまま更新していなかったのです、、、でもここで諦めるわけにはいかないので、とにかく火曜日でも、遅れてでも更新しようと思います・・・マラソンでも一回歩いたとしても、また走り出すのが大事なのです(いいわけ)。

さて、週末に特に書きたいことがなかったのですが、せっかくなのでその理由を考えて書いてみようと思います。

ぱっと、思いつくだけで3つ。

1つ、週・週末に大変面白い出張があり、仕事で大変わくわくしたのですが、その内容はあまりブログに書けないから。書きたいけど、書けない。。。

2つ、自分の目標に直結することに関する締め切りがいっぱいあり、実際そればっかり考えていて、純粋な思考時間が減っているから。これはあんまりよくないかも。でも何かのフレームワークに則って好きなことを考えるのはそれはそれで楽しいです。自分の将来は~、とか、自分が特に興味があるのは~とか。

3つ、なんか世の中っていいなって思っている自分がいたから。先週末には甥っ子姪っ子が来たり、母親の誕生会をしたり、新しい人が快く会ってくれたり、仕事でも面白い人にたくさん会ったり。なんだか充足感で、あまりこう、思考がうんうんならなかったように思います。

 なんとなくこの3つから言えるのは、すごく面白いことがあったり、新しく素敵な人とのめぐり逢いもあり、とても充実していたのですが、自分の予想外・斜め上をいくような出来事が起きなかったのだと思います。自分の思っている通りのことというか、思考の枠からはみ出ないできごとが多かったように思います。平穏はそれはそれで美しく、大事なのですが、なんかこう、うぉー、書き留めたい~というところまではいかないのかな、とも思います。年上の思慮深い人にたくさん会っていて、これはこれでサロンドテのようでよいのですが、なんかこう、爆発、という感じとは違うと思います。

結局前の週末にぐっとくる書きたいことが無かったのは、自分の考えを深めようとしすぎて、視野狭窄になっていたせいなのではないかと思います。文化政策とか文化芸術領域の地域での取り組みのことばかり考えたり、そういうアポイントメントばかりあったのですね(これは本当に素晴らしいし、自分がちゃんと勉強していきたいことなのですけれど)。今週は若い人に会ったり、普段会わないor自分の仕事領域とは全然違う人に会う予定が数件あるので、それが改めてとても楽しみです。最近歳をとったのか、若者・馬鹿者・よそ者が好きです。爆発的ですし。今週はこう、自分とは全然違う領域にいる人に会ってみて、ぐっとくる瞬間を見つけたいな、と思います。

専門を深めたい、一つの確固たる軸をもちたい、と思うと同時に、自分の全然知らないことも幅広くどんどん知りたいし、いろんな人の感情にもっと多く触れてみたいなと思っています。没入と俯瞰を繰り返す。最近専門性を高めたくて忘れていたのですけど、改めてとても大事だな、と思った次第でした。

日本が沈みゆくのは、創造性というエネルギーが枯渇しているから

毎日のように、全ての人が芸術家、とか、創造性の爆発、とかいうことを言っていると、面白い人に会える+面白いことを教えて頂く機会が増えたように思います。(宗教家っぽいとも言われることもあり、それはうーんと思う・・・)

前回の記事で「創造欲求」について考えてみたい、という風に締めくくったのですが、そんなことをあれこれ口ずさんでいたら信頼する仕事仲間にこんな記事を教えてもらいました。

www.huffingtonpost.jp

より詳細にはこちら:

http://www.adobeeducate.com/genz/creating-the-future-JAPAN

これを読み、正直思った以上にショックでした。沈みゆく日本、いや、沈まない日本、という風に言われますが、若い世代がこんな状況では日本は沈みゆくだろうな、と。調査としては地域や平均学力等のデータがないので少し説得力に欠けるのですが、いずれにしても、これにはびっくりです。日本の12~18歳(以下、「Z世代」)は、自分のことを創造的だと思っていないのです。創造的だと回答したのはわずか8%。Z世代の教師もまた同じで、他国では25~30%程度が生徒を「創造的」と捉えているのに対し、日本の教師はわずか2%となっています。

加えて日本のZ世代は、卒業後の将来について「不安な気持ち(53%)」「緊張した気持ち(36%)」を最も多く抱えており、その他調査対象であったアメリカ、イギリス、オーストラリア、ドイツでは約50%を占めた「ワクワクした気持ち」が日本では31%となっています。特に顕著なのはアメリカとの比較で、上位5項目を占める将来に対する気持ちがアメリカでは全てポジティブなものなのに対し、日本では不安な気持ち、緊張した気持ち、怖い気持ちといったネガティブ/悲観的なものが3項目もランクインしています。欧米諸国(特に英国)で考えられるテロ等による不安という外部要因を考えると、日本は社会的に大きな課題を抱えているように感じます。

そして輪をかけるように問題なのが、「卒業後の将来に向けて準備ができているか」という設問に対する日本の結果です。他国では約50%~70%の生徒が「ある程度またはしっかりと準備準備ができている」と答えているのに対し、日本では僅か16%の生徒しか該当していません。具体的に目指している職業がある割合も最も低く、30%を下回っています。

これはAdobeの調査ですので、最終的にはアクティブラーニングを可能とするデジタルツール等へのお話となっていくのですが、単純にアクティブラーニング活用ツール導入、とか、オンラインポートフォリオ作成の重要性、とか、そういうことに留まらない、根本的な対策が必要な課題です。

Z世代に限らず、私たち(私は30代です)は、「こうすべき、こう答えるべき、覚えるべき」という教育の中で育ってきました。自由に論述することは少なく、大学受験で小論文が必要なことにあたふたしたことを覚えています。(手前味噌ですが)私は中高大とトップ5%に入っていた自負がありますが、そのほとんどはノウハウ、パターン学習によって獲得できたものです。私が大人になってあらゆる知識や思想を通して、自分の中でかみ砕いて表現する、ということをするようになったのは、学校教育のおかげではなく、趣味として文学(特に太宰治)や芸術(特に音楽)の世界に没頭する時間が単純に長かったからだと思います。"クリエイティビティ"、ゆとり教育生涯学習、などなど、様々なことがちらほら言われていますが、根本的には教育の仕組みはほぼ変わっておらず、みんな回答の決まった試験勉強・受験勉強にごりごり励んでいるのではないでしょうか。また、何より社会の仕組みが高度経済成長期からあまり変わっておらず、働く社会人がみんな右習え、真っ黒スーツ、大企業の中でのOne of themなのですから、Z世代がVisionaryになれるわけがないのです。余談ですが、数か月前にテレビで見てびっくりしたのは、就活生が手帳片手にみんな同じ黒い鞄を持って、「Work life balance」を謳う保険会社に一生懸命面接を受けに行っている映像でした。「安定した企業で、ワークライフバランスを求めて受けに来ました」とインタビューに答える映像に、えと、あれ、何のために働くんだっけ?安定ってそこにあるものなの?自分で作り出すものじゃないの?保険会社が日本の人口構造・医療の中でどうなるかとか考えないの?とたくさん疑問を感じました。

没個性的に協働することが求められたのは、高度経済成長期から続く産業構造の中、規模の経済を働かせることで利益を生み出すことが重要だったからです。そして戦後の人々のメンタリティは今とは全く違っていた。テクノロジーが発達し、AIが到来する中、今求められるのはコマの一つとして動く能力ではありません。そして本来、人間が持つべき、発揮すべき力は、コマの一つとして動くことだけではありません。今重要なのは、まず自分とは何か、自分自身の思想、思考、意見、表現を持ったうえで、ぶつかりあって、協働していくことなのです。没個性的スタイルが安定・成長をもたらす時代は終焉しています。

こうした課題に対して教育が担う役割はもちろん大きいですが、これは社会全体の話です。みんなが右のときに左を向いても、飛び出ても、それを排斥しない、むしろ称賛し受け入れる社会が必要なのです。Z世代を含む子どもに限らず、大人に対してもそうです。出る杭は伸ばす、みんな違う杭なのですから、どんどん違う方向に伸ばしていく。それが今後の世界をよりSustainableにします。しかしこれは「鶏が先か、卵が先か」の話で、そういう人がたくさん出てこないとそういう人を受け入れる社会はなかなか出来上がってこないし、そういう社会でないと飛び出る人はなかなか出てきません。

そんなわけで、ひとまずみんながどんどん卵になっていくことを提唱したいのです。一人一人が自分の創造性、エネルギーの源を発見してそれを表現すること、少なくともそれができると信じることから実現していきたいのです。「危険な道を選べ」とは、このことです。社会、親、あるいは上司がたとえ受け入れてくれない可能性があっても、自分の創造性を信じて突き進んでいく、お前には創造性なんかないよ、と言われても、あるんだ、と信じて生きていく。それが大切なのです。思っていないことは実現しません。逆に思っていればそれが自分の世界になります。みんな誰しも創造的なのです。自分なりの思考、思想、表現を持っています。

そのためにはまず自分を信じること、それからそういう風に信じて生きている(生きていた)人を見つけることです。岡本太郎氏もそうですし、私が知る限り藤倉大さん、勅使河原三郎さん、中島義道さん、みんなそうだと思います。書籍や作品に触れるだけでも大きく勇気をもらえると思います。芸術家や哲学者ばかりではありません。身の回りにも(日本には少ないと思いますが)探せばいると思います。私にもそういった友人がいます。探したら、その人とたくさん話すことです。自分の創造性を信じている人は、周りの人の創造性も信じているはずです。それから、なんでもいいから創造活動をしてみることです。陶芸でも、ダンスでも、文章でも、料理でも、何かものを作ること。習いに行くのではなく、0から自分でやってみる。はじめは怖いとか、何をやったらいいかわからないとか、そんな状況かもしれませんが、1か月もやってみれば、だんだん自分なりの個性が見えてくると思います。私は文章を書くし、絵も描くし、それからダンスと音楽もやります(でも料理は苦手です)。そうして面白がっていますし、新しい自分を常に発見しています。誰かにどう思われるかとかは気にしていません。

私たちは、生まれながらに創造的であり、生まれるということは世界を創造しているということです。日本人は、先の調査結果が示すように、強調し、和を以て貴しとなすスタイルが元来得意です。これは他の文化に少ないとても重要な強みです。こうした強みをベースに、一人一人が個々の創造性を信じられると、とても強いと思います。日本が沈みゆく可能性があるのは、人口構造のもたらす課題や、多様な産業の退廃だけが原因ではありません。仕組みや構造の課題は個々人のメンタルモデルと密接に絡み合っています。一人一人の創造性というエネルギーの枯渇は、あらゆる社会課題の、あらゆる個々人の持つ課題の根本にあるものです。8%という数字が物語るように、創造性の欠如の課題は既に変曲点を迎えていると感じます。これは喫緊の課題です。一人一人が、社会がそれぞれの創造性を信じられる世界になるには、今から多くの努力・対策が必要です。繰り返しになりますが、まずそのためには、一人一人が、「自分を信じ、創造的に生きている人に触れ、何らかの創作活動を継続してみる(少なくともそう努力する)」、ということだと思います。そうしてVisionaryな人々が増える。それがSustainableな世界にとって必要不可欠なことだと、私は思います。

もう逃げるのはやめにする。自分の考えを持つ、創造する、表現する、発信する、という覚悟

題目の通り、自分の考えを持つ、創造する、表現する、発信する覚悟を持ち始めている今日この頃です。
(他者への意図的な攻撃、批判や否定ではなく、自分の心から湧き出る考えや思いを表現したり創造したりする、という意味です。)

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特にここで言いたいのは、自分が生まれてきた意味や自分が心から突き動かされることについて考え続け、創造し続け、表現し続け、発信し続けることが大事だということです。決まった答えやこれだというものがなくても、現時点での想いを素直に表現することを勧めたい。全ての人に勧めたいですけれど、何よりも自分の大切な友人に対して伝えたいと思っています。

まず言葉の定義から。
・自分の考えを持つ⇒思考すること(頭の中で主体性をもって考える。あらゆる経験や知識を活かして考えること)
・創造する⇒思考の有無に関わらず新しいものを作ること。衝動的な創造欲に基づく創造も含む(詩、絵やダンスや音楽など、非言語)
・表現する⇒言語等の媒体を通して思考を整理、形式化、具現化すること(言葉、文章、詩、絵やダンスや音楽など、非言語も含む)
・発信する⇒表現をより広い人に向けて周知する(パフォーマンスを行う、表現の頻度・範囲が広い状態)
※最近ではSNS等により表現と発信が同一になっていることもあります

なぜ、考え・創造し、表現し、発信する、ということが重要なのか。それには3つの理由があります。
①自分の考え=世界がより深まるから(より深く考えようとするから)
②創造や表現に触れた相手の世界も広がるから
③人と人とがつながるから、共鳴できる相手に会う確率が上がるから

一方で考えないこと、創造しないこと、表現しないこと、発信しないことには下記のような損失があると考えられます。
①考えないことによる損失:流されて生きることになる⇒全て受け入れらればよいが総じて不満を持つ確率が上がる
②創造しないことによる損失:創造がどんどん遠いものになり、不健全になる
③表現しないことによる損失:自らの殻に閉じこもったままの未熟な思想で留まってしまう。周囲の人とのコミュニケーションにつながらない
④発信しないことによる損失:単純に共鳴し合う仲間に会える機会損失となる

「自分の考えを持つ」ことには「何かについて自分の頭の中で色んなことを反芻して組み替えて、ぐちゃぐちゃだけど、ぐちゃぐちゃなままでも考えつくす」ということに大きな価値があると思います。私がこうして書いている考えは、元をたどれば様々な本や人との出会い、経験から紡ぎ出されています。でも私がぐちゃぐちゃ考えていることが大切だと思っています。自らのみが経験できるものを基に思考し、整理することにこそ意味があると思うのです。「A」ということについて誰かが自発的に考えたときに、もうそれはアインシュタインが考えたことだから意味ないよとか、リンカーンが言ったことだから意味ないよとか、そういうことではなくて、その人がその人の文脈の中で「A」と考えたことに大きな価値があるのです。全ての人が、その人だけしか持ちえない知識や経験を通して、その人にしか考えられない思考回路、表現手法を持っています。誰もが違って当然です。一見何かと同じ、既に誰かがやったと見えることでも、自分の頭の中で反芻して組み替えて、ぐちゃぐちゃな状態で常に考え続けることが重要だと考えます。

そしてさらに、そのぐちゃぐちゃなものを表現することが大事なのだと思います。尊敬するコンテンポラリーダンサーの勅使河原三郎氏はよく「作品はお客さんあって初めて完成されます」と言いますが、それと同じことだと思います。これは思考の有無によらない創造についても同じことが言えます。
新しいものを創造するのは怖い。自分の想いを表現するのは怖い。批判に晒されることもあるし、カッコ悪いという意味不明なイメージもある。「自己顕示欲の塊みたぁい」とか、創造、表現、発信していることを冷めた目で見る慣習。文章の場合には自分の論理が破綻している可能性に対する恐れもあります。表現しない理由を挙げればキリがありません。でも、表現しない意味は特別な状況を除いてそんなにありません。一方で表現することの意味を私は生きていることと同義だと考えています。自分の考えを持ち、それを表現することは、何より深く自分自身で考え、自分なりの世界の捉え方があるということです。そしてそれは特別なことではなくて、誰でもができるし、誰でもが日々実践するべきことだと思います。子どもにだって、それはできます。寧ろ、社会的な枠組みにはまりきっていない子どもの言葉こそ、私たち大人に大きな影響を与えてくれると思います。また、そもそも創造することについては、人間の基本的欲求なんじゃないかな、と私は思っています。自己実現等は関係なく、子どもの頃からなんでもたくさん新しいもの作ってみたい、という欲求は誰にでもあるものだと。ところがこれが社会的枠組みの中でどんどんあれしちゃいけない、これしちゃいけない、という形で抑制されてしまうものなのだと思います。そしてついに忘れてしまうのではないかなと。思考に基づいているかどうかはさておき、創造こそ、その人にしかできないことです。というよりも、その人にしかできないから、創造なのです。最後の方でも述べますが、社会の枠組みの中でどう生きるか知った大人だからこそ、創造する価値があるのだと考えています。

そしてさらに広く発信すれば、思いもしない運命の出会いがあるかもしれません。批判や否定により多く出会うかもしれない。でも、発信しなければ何も生まれません。私は同調よりも、建設的な批判によって得られる価値の方が寧ろ高いと感じます。まさに自分の考えが深まり、物事はどんどん進むのです。世界は変わらないのかもしれませんが、自分が捉える世界は劇的に変わります。

岡本太郎氏はわかりやすく、こう言います。「危険な道を選べ」と。自分が「危険だ、やっぱりやめよう」という道は『自分が本来求めているが社会の枠組みと違う(=自分にしか考えられない)道』だとも言っています。だからこそ選ぶ意義があると。社会に対して挑戦しながら、創造する、自分の想いを表現していく。

「危険、怖い」と思うのは、その先に社会的な死を想起させるものが垣間見えるからです。批判を受け、否定され、評価されず、嫌われる、『かもしれない』という社会的な死に対する想起。そして自分の真の想いにフタをし続けて生きていく人が多すぎます。

もう逃げるのはやめにする。真の想いにフタをすることは、自らエントロピーを下げることです。不自然であり不健康です。みんなそれぞれが多かれ少なかれ自分ならではの考えを持っているのに、それを育てず表現せずに、日々流され諦めて生きるのは、もったいなさすぎるのです。

でも、嫌いな仕事をさぁやめようとか、嫌いな人とは付き合うのをやめようとか、そういうことではない、とも思っています。私には仕事に悩める多くの友人がいますが、いろんな状況があってやめられない、けど自分の真の気持ちとは違う、という彼女たちの気持ちがとてもよくわかります。私自身も5年間に渡りうんうん悩みながら転職を繰り返しました。社会の枠組みの中で苦しみ考え続けて、本当にやめたい人はやめるし、闘う人は闘う。決断というのは常に結果であり、大切なのは考え、創造し、表現し続けているプロセスの方です。

つまり私が勧めたいのは、まずちょっとした思考・創造・表現を続けるということです。ブログ、TwitterFacebook、絵、音楽、ダンス、詩、あるいは仕事で本当に思っていることを同僚や上司にぶつけてみる勇気を持つだけでも良いと思います。パートナーに、本当はいつもこう思っているよ、と素直に言ってみる。誰かに認められたいとか、好かれたいとか、他者に起点のある想いではなく、自らのために、自らの心から湧き上がる声を表現する。ほんの少しでよいから、自分の心の声に従って危険な道を選んでみる、ほんのちょっとだけ、はしごの足を踏み外してみる。その積み重ねで、いつかもっと自分の想いに素直になれるのだと思います。私も自分自身がまだまだもっと素直になれると信じています。社会という大きな力を知らないで自由に創造・表現する子どもでなく、社会の中でどう生きるかを身に着けた大人だからこそ、そのあとで創造する、危険な道を選ぶことに大きな意味があるのです。

既に作られてきた社会の枠組みを当然と思い、それに迎合するのはやめる。世界は理想郷ではない。今自分がこの世界にいるということは、世界に対して影響を与えているということです。とにかく思考し、表現する。一部の天才と自分を分ける意味はありません。誰もがその人にしかできない思考、創造、表現ができるのです。

冒頭に述べたように、最近、一部の友人たちが無暗に自分の感情を抑えつけて苦しんでいることや、社会の枠組みに従ってのみ思考し、予定調和的に同じことばかり言うことが、私にとって不可解であり、疑問、いらいら、もやもや、課題となっています。このようなAttitudeが日本社会の中でがん細胞のように増殖しているように見えてなりません。何が善いのか悪いのかということは判断できませんが、彼らが子どもの頃に有していた明るいエネルギーの10%も持ち合わせていないように見えます。優秀で裕福な人々ですが、仄暗く時に苦しそうに見えます。

一方で、裕福で『奥ゆかしい』日本文化で生きてきてからこそ、自分なりの思想、創造、表現を取り戻すことができれば、とても強くなれるのだと思います。私たちは空気を読み、配慮し合い、争いを嫌います。でもそれと表現しないことは別のことです。一度自由に創造、表現することに慣れれば、互いにより美しい創造、表現を生み出すことができると思います。加えて、自由に思考し表現できる権利は尊いということも忘れてはいけないと思います。世界には自由に表現したり発信したりすることを制限されている人もいるのです。

思考し、創造し、表現し、発信する。みんなで意見をぶつけ合う。
そのためにはまず自分自身が勇気を持つ、覚悟を持つ。
そして書いてみて、創造欲というものに新たに興味が湧いたので、今度はこれをテーマに書きたいと思います。

ベーシックインカムの可能性、お金がないから不幸なのではなく、お金にとらわれるから不幸なのである

最近立て続けに大変良いTED presentationを観ました。そして、ベーシックインカムの可能性に心をとらわれています。

ベーシックインカムとは、「国民の最低限度の生活を保障するため、国民一人一人に現金を給付する」という政策のコンセプトなのですが、仕事で最近教育や福祉のことを考えることが多いため、このモデルの可能性を感じているところです。ソーシャル・インパクト・ボンドだけでなく、常に新しく、革新的なことを考え、少しでも実践につなげたいと考えています。

ベーシックインカムの導入をすれば、いわゆる安全や安心の欲求が満たされない状態の経済的貧困にある人々が変わるだけでなく、安全や安心の欲求が満たされている人にとってもお金の概念を考え直す特効薬になるのではないかと考えているのです。

お金がないから不幸なのではない、必要以上にお金にとらわれるから不幸なのです。

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生産性が落ちるのでは、などの批判も多いベーシックインカムですが、AI等の劇的な発展により、そもそも働く必要があるのか?人間はなぜ生きているのか?といったもっと高い視座で議論をする必要があると考えています。そして私は、ベーシックインカムが全ての人が芸術家になることを可能とする一つの手段でもあるとも考えています。

さて、本論に入る前に、まずTEDを3本共有しておきます。とてもわかりやすく、面白いので観ることをお勧めします。

①Michael Green: What the Social Progress Index can reveal about your country
日本語版を貼っておきます

www.ted.com

②Michael Green: How We Can Make the World a Better Place by 2030
日本語版を貼っておきます。1本目と同じ人の。Social Progress Indexというシンプルな指標とSDGs達成の関係性を数値で表しています。数値に基づいての説明がとても興味深いです

www.ted.com
③Rutger Bregman: Poverty isn't a lack of character; it's a lack
3本目は英語版しかないので、こちらを。ベーシックインカムについてその意義をわかりやすく伝えています。彼は“UTOPIA for realists”というベーシックインカムに関する本を書いていてオランダではブームになっていたようです

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これらのMovieを観てまず考えることは、お金がお金が・・・って、「お金」という言葉をきちんと整理して考える必要があるのだ、ということです。10円か1億円かといった大きさはともかくとして、「お金」の概念を少なくとも3段階に分けて考えるべきだと思います。

①衣食住といった安全の最低保証のために必要なお金

②教育、情報や医療福祉といったWell-beingのために必要なお金

③それ以外の余暇・贅沢・楽しみ、といったことを享受するのに必要なお金
※ここで3番目をGreen氏のフレームワークでいうところの目標、夢、とならないのは、お金だけに注目すると必ずしも目標や夢につながらないからです。

そして、社会的なWell-beingを満たすためには①、②のお金がまず最低限必要で、加えて人生を豊かに、人間の尊厳を保って生きるためには、③のお金ではなく、「自らの意志」が必要なのだ、と私は理解しました。つまり、お金はあればあった方がそれは選択肢が広がるとは思うのですが、安全・健康な生活が保証される金銭があれば、その後人々が豊かかどうかを決定するのは金銭ではなく、「真の意志」なのだと思うのです。

お金、と意志、とについてブレークダウンして考えてみたいと思います。

まず、お金について考えます。
現在多くの人が考えている「お金」とは、①、②、をすっとばして、③、のことが多いのではないでしょうか?特に①、②をたまたま生まれた家庭のおかげで潤沢に享受してきている人たちは何も考えることなく、③のことばかり考えているように思います。事実、私もそういう側面をもっていた時期もありました。つまり、お金が稼げれば稼げるほど楽しいぜー、ぐへへー、みたいな感覚ですね。Simon Kuznetzが1930年ころに提唱した後、GDPという概念が人々にとっての「簡便な目標」として、この80年間の世界を牛耳ってきたのです。

その前にまず考えるべきは、①、②が保障されていない人がいる、ということです。昨今話題になっている子どもの貧困問題、ホームレスの問題や、日本だけでなく先進国でもオバマケアを筆頭に社会保障制度が議論の中心となることはまだまだあります。①、②が担保されていない場合、人々は目の前のことに必死になります。教育プログラムに参加して、「勉強って面白い、よし、勉強がんばって、ちゃんと良い高校にいくぞ」という風に思っても、明日のごはんが食べられるかがわからない、親は学費を出してくれないかもしれない、病気になっても病院に行くのを我慢しなければならない、となると、勉強が頑張るどころかまずはお金を稼がなければ、とか、勉強よりもまずはお金が大事だ、という思考回路になるでしょう。これはGreen氏が述べるように、(変曲点を迎えるブラジルの手前のカーブの)GDPの成長は一定数社会性の進歩に貢献する、ということです。これはまたBregman氏も言っていますが、努力、根性論の話なのではありません。貧困であるのが「彼らのせい」というのは、社会の中で生きる人間が持つ原理的な特性を無視した乱暴な意見です。ごく一部の人が努力で貧困を脱しますが、ほとんどの場合は生理的欲求、安全の欲求を満たさない限りは次のステップに行くのが困難なケースとなるでしょう。

ところで私はたまたま中産階級に生まれ、親に学費を出してもらって大学院までいった完全なすねかじりなのですが、、、実は自分の夢をいつもお金のせいにして諦めていたこともあります。①、②に困ることはなかったですが、「親が絶対にお金を出してくれないから」留学をあきらめる、ピアノを買うのをあきらめるなど、、、馬鹿みたいに見える欲望の塊ですが、自分にとっては満たされない思いでとにかく早く自立して稼げるようになりたい、といつも思っていました。(高校で禁止されているバイトを1週間だけやってみたり(すぐ親にばれて辞めさせられた)、大学院を途中でやめて就職しようとしてみたり(結局親に猛反対されて考えてやめた)、くだらないエピソードをたくさん持っています)。父親は特に厳しく、親の意思に反することをしようものなら、「家から出ていけ、生活は保障しない、学費はもちろん全て出さない」といった手段をとられたものです(別に恨んではいません)。思春期、青年期は「学費や生活費を全て親が出してくれているのだから、勉学にだけ励むのが当たり前、くだらない欲望は我慢」という禁欲主義的な考えが染みつきました。

そんな背景がありつつ、晴れて社会人になって企業できちんとお金を稼いでみると、初めて自分の意志を存分に発揮できるようになりました。初めて抑圧がない「自由意志」を発動した感覚です。海外旅行にいったり、ほしいものを買ったり、貯金したり、なんとも自立とはこういうことか、という晴れ晴れとした気分を味わったものです(つまり③のお金を自ら使用できるようになった)。そしてしばらくして初めて、さて「夢」とは「目標」とは「人生」とはなんだったのかを改めて考えるようになりました。小さいころからなぜ生きるのか、なぜ死んではいけないのかをずっと考えていたので、自然な流れだったのですが、ここで初めて書物の上の話ではなく、自分の人生として、自らの知覚として、「なぜ生きるのか」を猛烈に考え直し始めたのです。マズローの欲求5段階説でいうと、自己実現を求め始めたのですね。ここで初めて、③のお金の話ではなく、本当の自らの意志に対して向き合うことになったのです。

さて、ようやくここにきて「自らの意志」についてを整理したいと思います。
ここで一旦考えたいのは「マズロー欲求6段階説」です(マズローは晩年に「自己超越」の第6番目の欲求階層を追加しています)。必ずしも順番で欲求が満たされるわけではないとも言いますが、整理する必要があります。考えれば考えるほど、「こうした人間の基本的な欲求を、どのように満たすか」、「どこまでを人間の権利として保障するのか」ということが政策や税金の使い道をどうするのか、ということなのだとも思えてきます。

私の意見としては、生理的欲求及び安全・安心の欲求は、権利として保障されるべきであり、そのために税金が投入されるべきだと考えています。つまり、上の議論でいう言うところのまず①は政府によって保障されるべきだ、という考えです。衣食住が生まれた環境に関わらずに保障される。これは人間が生まれ持った基本的な人権と考えます(もちろんその程度は議論すべきで、そこが難しいのですが)。加えて、人は「考え、そして発信する」権利を有している、と私は考えます。これは欲求階層でいうところの、社会的欲求よりも高次の欲求に縦断的に関わるものです。考えて初めて人間であり、言語を有し複雑な社会を築き上げる中で生きるためには、思考能力を養い、それを発することが不可欠です。考えれば考えるほど、意見をぶつけあえばぶつけ合うほど、健全な人間、社会となり、より種の保存に有利と考えます(これは障害の有無に関わらず当然権利として保障されるべきです)。よって、この健全に「考える」を権利として保障するためには、医療福祉、教育や情報に関しても、税金投入がされるべきと考えます。「私は教育が受けられるからそれでいい、他の人には考える権利がなくてよいのだ」といった考え方は、初めから格差を助長する考えであり、「自分さえよければよい」という持続可能性の低い思想であると言えます。

さて、こうして上述の概念でいうところの①、②に税金投入がされるべきだ、という考えを述べました。これは、社会全体の意志として必要なのです。社会全体が、「①、②をすべての人の権利として保障するよ」という意思表示として、政策として執行することが重要だと考えます。一方で、近年そのサービスの質と税金投入額は必ずしも比例するものではないことにも留意が必要です。IT等の発展により、同等の投資でかなり効率のよい効果的なサービス提供が可能となってきています。あくまで、「社会全体の意志として」税金が投入されるべきだ、という考えです。

マズロー欲求階層に戻りましょう。①、②の後にくるのは承認欲求自己実現欲求です。思考能力や表現のために必要なこと(教育等)は保障されるべきですが、これはわかりやすく資金を投入し、サービスで保障できる話ではなくなってきます。「認められたい」「達成したい」という想いは、外的サポートで達成できるものではありません。ましてや経済的支援が直接的な要因とはなりえません。つまりここからが「お金にとらわれるべきでない」ポイントとなってくると考えます。そもそも個人に属するお金とは信頼の形でしかないのです。衣食住や、考える能力を養うためのツールを、そもそも「信頼」によって買う、という話はおかしなことです。はじめから保障されているべきでしょう。一方で承認欲求自己実現欲求は、「時間×能力(仕事)」をどのくらいかけて「何かを生み出したか」という結果満たされるものなのですが、概して「お金」がこの「信頼」を肩代わりしてくれます。よって、転じて人は「お金を持っていると認められる・自己実現できている」と誤認しがちです。行う仕事の内容はとにかく何でもよいから、たくさんお金が稼げればそれでよいのだ、という誤認です。また、ブランドの品物や車を持っていることでステータスを満たしたいという場合もありますが、これらは常に承認の基準が「外」にあるため、根本的には自分自身が満たされているわけではありません。本当に自分自身が満たされるためには、自分自身が「(お金以外の)何かを生み出した」という実感が必要なのです。お金はあくまで換算です。お金を多く勝ち取れば勝ち取る程、多様なことに挑戦できるのもまたお金の醍醐味ではありますが、それが目的になっては、いつまでたっても自己実現欲求、ましてや自己超越欲求を満たすことはできないでしょう。

ばらばらと書きましたが、一度ベーシックインカムの概念を持ち出して、再度整理しましょう。

ベーシックインカムが導入されれば、全ての人が①と②の保障がされると考えましょう。その場合、次に人間が出会う欲求は社会的承認や自己実現です。この時、今まで通り「時間×能力(仕事)=金」の方程式だけに則って、ひたすら仕事をし続けることも可能です。一方で、この考えは人間が生きる上で「必要以上にお金に執着して」いるとも言え、実質的に自己実現を永遠に満たせないドグマの中にいるとも言えます。ベーシックインカムがうまく活用されれば、衣食住や思考能力が脅かされない状況になった上で、金の概念及び必要性を整理して考えることができ、「金」を得ることに必要以上に執着する必要がなくなるでしょう。自己実現、そして自己超越の実現へとつながる可能性があります。私には社会全体の健全な発展が目に浮かびます。もちろん単純にベーシックインカムが導入されたからと言って、お金の呪縛から解き放たれると考えるのは乱暴だと思います。そのためにも、まずは小規模地域で実験的に、活用してみる必要性があるのです。やりたいと思っています。まだまだ思考も浅いのですが、心理学的な側面への影響と政策としての実行可能性を引き続き整理して考えていきたいです。

さらに、私の野望としてもう一つ、ベーシックインカムと合わせて導入すべきだと考える「Creativity への探求」というものがありますが、長くなったのでひとまずここで終わりにし、次の機会にきちんと書こうと思います。