何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

カオナシ度~手放して、スリム化して、自分を知る~

今年はとにかく色々手放す、と思っています。年始めには素直に素直に、と書いたのですが、それはつまり色々不要なものとか、自分が惰性で物理的にも精神的にも持ち続けているものを色々手放していく、ということとも同義だと考えています。そして、自分の不要なものを物理的にも精神的にもため込んじゃうことを、私は「カオナシ」で判断しています。

カオナシってあの、かのジブリの「千と千尋の神隠し」のカオナシなんですけど、カオナシ度=不要なものの溜め込み度、という感じで使っています。つまり、本当は必要ないはずなのに、あれも欲しい、これも欲しいでどんどん太っちゃって、ていう状態です。自分の本当に関心のあることと違うことをどんどん器用にやったり、頑張り続けたりして、太り続けちゃうこともカオナシ度が高い状態と思っています。私は社会人になってから、カオナシの波を繰り返して生きていると思っています(下記の図のイメージ)。色々無暗に頑張って、太りすぎてから、もうこれ違う!これをやりたい!と言ってスリム化して、また色々やり始めたら楽しくなって、もっともっとと思って太りすぎて、またおや違うぞ、となってスリム化する。そして繰り返すにしたがって、太る限界がかなり小さくなってきている気がします。今は結構、「あ、、あ、、、」のカオナシに近くなっている(と思いたい)。

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何で太ったりスリム化したりの転換点が来るのか、というと、(カオナシとして)太りすぎると、体調が悪くなったり、趣味や創造活動へのあこがれが強くなるからだと感じています。そしてスリム化しようと思う。それから、スリム化してもまた太ってしまうのは、「社会の中できちんと生きたい」という欲がどんどん出てきてしまうからではないかと思っています。実はこの「食べ過ぎカオナシ⇒スリムカオナシ」への転換点を、自分で気づいてきちんとコントロールすることがすごく難しいと思っています。ついつい太っちゃう、そして誰にも止められない状態になってしまう。自分じゃない自分になってしまう。

よく断捨離、という言葉が聞かれます。流行語大賞にもなりましたが、断捨離って簡単に言うようですごく難しくて、できない。要は太ったカオナシのままでいてしまうことの方が多いと思います。これってなぜかっていうと・・・

リスクを取らなければならない、という精神構造があるからだと思います。「この本いらないなー、一年も読んでないし。。。でも、もしかしたらまた誰かに貸すかもしれない」とか、「この洋服もう全然来てないから売っちゃおうかな、でも、また〇〇の機会に着るかもしれないし」とか。いつか必要になるかも、とか、お金を稼ぎたいから、とか。いろんな理由をつけて手放せないことが多いです。こうした誘惑というか、幻想をずばっときれないから、難しいんだと思います。

昨日父親と日本のリニアモーターカーの開発の話をしていた時にも、もったいないから、もうこれだけ開発費かけちゃったから、という理由でずるずると開発している感が否めないよね、、、という話をしていました。カオナシがどんどん食べていっている絵が浮かびます。日本人って何かもったいない、人とのつながりを特に大事にしたい、という良い面もあると思うのですが、時間やお金をかけたことへの無駄な執着も多い気がしています。(守り抜いてきた伝統などは守り抜くべきだと思いますが)

でも私は、危険に思えるけれど、自分にとって自然体である道を選ぶ。本当はこうした方がいいんじゃないか、でも、、、ということを手放す。カオナシみたいに全部吐いちゃう。

今年は年末にミヒャエル・エンデの「モモと時間泥棒」を読んだこともあり、時間を自由に使う、というのも一つのミッションになっています。そんなわけでまず、時間の精神的な空きを作りたいと思っています。これもやりたい、あれもやりたい、これもやらなきゃ、ではなくて、本能に従って手放す。それから、自分の反省でもある惰性的になんとなく見ているFacebookとか、そういう時間を手放す。ゼロベースで考える時間を作る。仕事もあるし、お金も稼がなきゃとか思うけれど、自分の本能の赴くこと(芸術活動云々)に、時間を使う。没頭する。逆に言うと、まだまだ没頭できていないということでもありますが。。。 どんどん関係のないことを手放しながら、自分のコアを耕し続けて、自分に自信もつけて、私はこれをやりたいからこう生きるのである。と言える生き方をする。もちろん何かにつながるかどうかなんてわからないんですけど、はしごの足を、自分で外し続ける。

裸一貫で生きていく、というわけではないけれど、できるだけシンプルに、身軽に生きていきたいなと思うのです。スリムなカオナシになって、自分の居場所を自分で認識していきたいです。

お金持ちにならなくていいから、カメのようにゆっくりと着実に仕事がしたい

最近年度末ということもあって、忙しい。とかいって、忙しい時ほど、個人的な文章とか、創造活動とかに精がでてしまうのですが・・・

それはさておき、最近新規事業とか、自分のやりたいこと、とか次年度に向けて色々整理もしているのですが、とにかく思うのは、お金持ちみたいにならなくていいから、良い仕事を着実にじっくりとしたい、ということです。心を亡くすようなことは、したくない。追われるように、さらわれるように業務をこなすのは、どんどん手放していきたい。これを言うと、やっぱりあなたは研究者向きよね、とか、アーティストぽいよね、とかいう人もいますけど、それは相対的な見方でしかなくて、わたしは素直にそう思っています。

創造性の低い仕事はこの先どんどんAIにとってかわられる。「創造的」と思われる仕事も、ディープラーニングが進めば「とってかわられる」可能性はある。でも私はこれがやりたいんです、こういう人たちとこういう関係をつくりながらやっていきたいんです、というスタンスがこの先とても重要になってくるんだと思います。なぜやるのか、なぜ生きるのか。

利潤を追求して、あるいは社会的に意義のあることを掲げて、時間を勢いよく燃やすように使いたいと思っていません。そういう情熱的な人も周りにはいるけれど、私はそういうタイプではない。ランプの灯のように、あるいは蛍の光のように、ゆっくりと、着実に何かを照らすように時間を使いたいと思っています。

思えば私は小さい時からマイペースでした。みんなが行っていた塾もなじめなかったし、ピアノとかダンスとかも個人でやることが好きだった。朝練も一人でコツコツやるのが好きだった。人より先を行くためとか、出し抜くためとかそういうのではなく、早い遅いではなく自分のペースでやるのがしっくりくるタイプなんだと思います。大人になって、流されること非常に多くなってきていますけど(それはほぼフリーのように働いている今でもよくあることですけど)、今年は特に着実に自分で時間をかみしめて生きていきたいな、と思っています。カメのようにゆっくりでのろい、と思われてもいい。でも万年、続いていくような愛を残したい。ウミガメのような雄大さをもって、周りにいる人たちとじっくりことに取組んでいきたい。なんだかそういう、美しく、ゆっくりとした、雄大なイメージが浮かんでいます。

呼吸と知覚と肉体とのレゾナンス

コンテンポラリーダンスコンテンポラリーダンス、って言ってきたんですけど、年始に何回かワークショップに参加して、あー、えと、コンテンポラリーダンスをマルっとまとめて好きなわけじゃないんだな、と認識したので、それを書こうと思います。

私が好きなのは、呼吸と知覚と肉体のレゾナンス(共振)。存在と知覚の調和といってもよいのかもしれません。

色んなコンテンポラリーダンスがあるので、そしてそれはダンサーに依存すると思うので、結局どういう哲学でコンテンポラリーダンスとして踊っているのか、ということが好き嫌いを分けていると思っています。

私は踊ることは好きですし、見ることも好きなんですけど、The コレオグラフィー、みたいなのは好きじゃない。踊るのも見るのも好きではありません。例えコレオグラフィーがあっても、そこに呼吸と、その本人から来る知覚と、そこにある肉体の共振から生まれているものが好きなのです。さらにここに音楽が合わさると、もちろん呼吸や知覚に変化が生まれるので、肉体としてとても面白い。

よく良いダンサーは音楽に合わせて踊るのではなく、自分自身が音楽なのである、といったりもしますが、そうした波動、波長であり振幅であり、そうした有機体としての存在をいかに呼吸と知覚とで生み出せるのか、ということに尽きると思っています。(私の美学として) 

だから今年は、コンテンポラリーダンスという名の下にはなるけれど、やっぱり結構偏って、自分が好きだと思うものばかりを語り、踊り、観て感じていこうと思うのです。コレオグラフィーを頑張る系のワークショップにはいかないと思います。

また、自分の中で音楽とダンスの考え方、感じ方が全然違くて、そこもまた面白いと思っています。音楽はピアノの演奏という意味で超・基礎を学んできたがゆえに、即興演奏といっても自由になんでも、とうまくできない気がしています。一方でダンスはむかーしバレエとバトンをやっていた基礎はあっても、ほぼ覚えていないので、インプロが感じるままにできるので、超楽しい。音楽は一定範囲の気持ちよさ、というものを(私は)追求してしまいがちなんだけれど、ダンスは無限の可能性を感じる、というのもまた違う点だとも思います。

ひとまずピアノもダンスも自分の呼吸、知覚と肉体とで、ぽつぽつと、やっていこうと思います。そしてこうした感覚を研ぎ澄ましながら、自分のプリンシプルとして、仕事や知的生産である研究についても適用していきたいなと思っています。

とことん自分に素直に生きる

今年の目標は、と耳にする機会が多い。
特に今年が始まったから、というわけではないのだけれど、一年の計は元旦にあり(もう元旦じゃないけど)、ということもあり、目標ではないのですが、大事にしたいスタイルを挙げたいと思います。

それは、とことん自分に素直、ということ。

昨年2017年もそのように生きてきた自負があるのですが、実は考えすぎると素直になるって難しくて、社会の中で共生して生きていると、自分に素直なことは実は自分勝手なだけじゃないかとか、果たしてこれが本当に素直なのか、とか、訳が分からなくなることがあります。結局必要とされることをやっていて、自分が素直にやりたいのかどうか、わからん、と考えたりすることもありました。

そうして今年はもっと、自分に素直ということを研ぎ澄ましていきたいと思っています。これは、岡本太郎の「危険な道を選ぶ」、というプリンシプルからもつながっているものです。自分にとって本当にやりたいことに加えて、「本当はやりたい、けど怖い」というような感覚のものに、もっと向き合う。とことん正直に素直にぶつかって生きてみたいなと思っています。

スマイルズの遠山さんの記事にも、似たような考えが書いてあり、嬉しくなりました。(私はSoup Stock Tokyoもネクタイブランドのgiraffeもすごく好きです)

2018年、ビジネスは「共感」から「素直」の時代へ スープストック創業者が描く次の一手

なんでそれをやるのか、やりたいからやるんだよ、というレベルでの答えが必要、不可欠になる時代が徐々にきていると感じています。お金になるから、子どものためだから、福祉のためだから、という社会のための言語化の枠を超えてさらに、なぜ自分がそれをやるのか、ということを改めて知覚、認識、具現化していく必要があると考えています。誰にも求められていないかもしれない、でも誰か他の人に迷惑をかけない、誰かを不幸にしない限りでの、自分がとにかくやりたいことを追究し、追求する。美の追求と同義かもしれません。そして本当は自分がやりたいことであればあるほど、公徳、公益とつながっているんだと私は考えています。

年末にゴッホの映画を見て、年始にゴッホの絵を見に行きました。元々、絵画の黄色とその生き様が大好きな人なのですが、年末年始でその世界を感じて、より好きになりました。奇人だったかもしれない、絵画を描いた年数は短かったかもしれない、絵を売ることはできなかったかもしれない。でもそれは時空を超えて、あまりにもまっすぐに我々に今生きる意味を問いかけてくれている。物体としては古くなっていても、新鮮にその絵画、街並み、人へのコミットメント、愛を伝えてくれる。鑑賞者がそう感じることを目的として彼は絵を描いていたわけではないと思います。ただ、自分がやりたいこと、描きたいこと、伝えたいものをやり続けていた。そして支えてくれる人がいた。そうした結果、時空を超え、予想もしなかった人々につながっているのだと思います。

冒頭にも述べているのですが、とことん自分に素直に、やりたいこと、というのはよくわからなくなってくるときもあります。そんな時、自分の中では一つの見分けるポイントを持っています。それは、誰かに話すときに、すっと言語化できているか、それから、いちいち誰かに言わずともやっているか、ということです。仕事で頑張っていることでやりがいもあることは、まぁすっと話せるんですけれども、話す相手によって深さが変わったり、あとは湧きあがるように話せなかったりもします。ただこれは絶対一生やりたいと思うこと(私の場合はコンテンポラリーダンス)については、知識も経験も浅くても、湧きあがるように、相手を問わずに話すことができるのです。これをパトス(降りかかるもの)と呼ぶのかな、とも思います。また、自分が素直にやりたいこと、というのは日々刻々と変化しているようで、実は小さなときからそんなに変わっていないのではないか、という気もしてきました。私の場合は幼稚園の頃からダンスや演劇が好きで、ずっと続けることはできませんでしたが、バトンやバレエや演劇、幼稚園のお遊戯会まで、今でも詳細に記憶の残っている場面が多いのはそんなことばかりです。いわゆる一生懸命やってきたことは全然別のことだったのですが・・・。時間を経るにつれて自分の美学を再発見しているような気もしています。

法外にせよ、法内にせよ(社会的に生きやすい物事にせよそうでないことにせよ)、常にとことん自分に素直に生きる。仕事を一生懸命やることが本当に自分にとって美しければ、素直にその美を追求する。何かの目標に向かうわけではなく、今の自分の美に素直に生きる。それを自分のプリンシプルにして生きていきたいと思います。

フェイクが嫌い、生命体として美しくなく、持続可能でないから

 衝動的にフェイクが嫌い、という文章を書きたくなりました。嫌よ嫌よも好きの内、ということで自分の中にあるフェイクを許せることができない、という話なのかもしれないのですが、私はフェイクが苦手です。フェイクファーとか、そういうことよりも、フェイクな生き方が苦手です。

 ぎゃっと思ったのは、カフェでいかにも“フェイク”な人生を送ってる人が隣にいたからです。“フェイク”とは、考えてみると面白い言葉で、要は自己ではなく他己に起点があって「本当は違うけど、相手にそう思わせること」というものだと思います。カフェのその人は友人の子どもにネコナデ声で話し、周囲の迷惑をあまり顧みず自分が好きなように他の座席の椅子を持っていく。身なりは良いのですが、私の研ぎ澄まされた(笑)第六感的には、自分が外からどう見られるか、に焦点がある女性。フェイク的「ごめんね」「ありがとう」が特に耳障りで、カフェでの仕事が進まなくなってしまいました笑。

 個人攻撃はあまり意味がないことなので、なぜこんなに嫌悪感を抱くんだろう、を整理してみました。
①子どもにネコナデ声で必要以上に甘やかして話すのが好きではないから。「子どもはこういう話し方が好き」という他者起点だけれど、相手の気持ちを考えずに話していることがいや。(子どもの人権侵害だと私は勝手に認識している。)
②自分がどう考えるかよりも自分がどう思われるかに焦点がある人は自分の良さを十分に発揮できていないと思っているから。①と同じだけれど、立ち居振る舞いが他者起点で規定されていて、自分がどうしたいの、が特にない、フェイク。
①は、子どもが「ネコナデ声が好き」という勝手な解釈の元、普段は出さないような声を出して好かれようとする、ということ。ぶっちゃけていうと、おとぎ話に出てくる魔女や人食い妖怪のようで怖い。私は経験上、子どもはフェイクを見抜ける力があると思っています。②は、友人関係や仕事上などで、認められたい、というのは誰しもあると思うのですが、それを優先して自分のコアを捻じ曲げている、捻じ曲げた上でそれがスタンダードになってしまっている状態です。私はこれは長続きしないと思っています(健康寿命も長いのでは笑)。少なくとも最大のパフォーマンスが出せない。面白いことは面白いし、意味がある(と思う)ことは意味があるし、つまらないものはつまらない、とはっきりできる人が一緒にいてすがすがしいし、生命体として呼吸しやすいです。ただ、これが社会の中で一生懸命生きようとすればするほどねじれるのは当たり前で、それが過剰になると、常に外側に起点があって“フェイク”になってしまう。フェイクの人は、なんか本当は別のこと思ってるだろうな、とわかってしまう。ちなみに、フェイク人にがんばって切り込みますが、コアにたどり着くのはなかなか難しいことが多いです。

 私は素直に奔放にやりたい方で、素直さが受け入れられない場所には行けなくなってしまうタチです(引きこもり体質)。合理的な理由がないのに「xxしなければならない」という環境が苦しいのです。でも社会人になると(学校も結構そうですが)、周囲に合わせなきゃいけなくて、まずフェイクになる必要があるのが日本の社会、会社だと思います。でもこれを、何とか、自分のコアに近づけていく。何も考えずに相手が望むと思うものに合わせるのではなく、私はこう、相手はこう、でも互いの思考をメタ認知しながらたたいて、とやっていける関係性だととても良いなと思っています。

 カフェの彼女みたいに、フェイクで「そうなんだ~、すご~い(オメメぱちぱち)」とやってしまうのは、(日本の)社会の中でうまく生きようとすればするほど、直接的なコミュニケーションをせずに(自分はこう(あなたのことはあなたのこと)、ということを互いに言わずに)勝手に解釈して、自分が本来そう思わないのに同調する、ということが苦しい局面があるからなんじゃないか、と思います。無言で慮る、という美しい世界が、無言で勝手に自分が好かれるためにフェイクする、という虚像の世界になっている気がします。それはそれでいいんじゃないの、という考えもあるんですが、生命体として長続きしないと思っています(さらに言えばフェイクは死んだ後にははかなく消えると思います)。私たち日本人は、強い共産体制や独裁政権下にいて自らの意志を発揮できない国家にいるわけではないし、自分自身の考えは自分で決められる。たんぽぽはひまわりではないけれど、たんぽぽのままで美しいし、ひまわりはライオンではないけれど、ひまわりのままで美しい。それが好きな人もいれば、嫌いな人もいる。でも互いに尊重されるべき存在。

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 持続可能な社会を、という標語が国連を筆頭に最近巷でちらほら聞かれるようになりました。国連のSustainable Development Goals(持続可能な開発目標:SDGs)については色々考えていることがあるのでまた別途文章を書こうと思うのですが、SDGsとは違う軸で、一つ一つの生命体が自然であるがままであることは持続可能な社会にとってとても大切なことだと思っています。それは生き方についても同じで、有機体として健全で、美しく、そして持続可能であるために、フェイクではないとは何か、まず考えることから始めるのが大切だと思っています。

良い子ちゃん女子、法外を追求しよう

 題名は、宮台真司氏とニ村ヒトシ氏対談の「どうすれば愛しあえるの」を読了したときに思ったことです。言葉が乱暴な文章が多い本ですが笑、とても学びは多かったので、自分なりに感じたことを書き留めておこうと思います。

 法外とは何かをまず置いておいて、“良い子ちゃん”と括る必要について。括る理由の一つは、私自身が日本でいうところの良い子ちゃんで育ってきて、周囲の“良い子ちゃん”女子の法内苦悩が最近本当にすさまじいから(私立中高一貫女子校、理系大学、大学院コース。事実中高では本当に“かわいこちゃんを目指せ”と育ちました)。もう一つは、いわゆる良い子ちゃんほど法内の言語によってがんじがらめになっているからです(社会的に良い子になろうとしているから。自明ですけれど)。そしてさらになぜ女子か、といわれると、女子ほど社会の求める(法内の求める)生き方と、本能的な自分自身の生き方にギャップを抱えているケースが多いからです。これについてはまだ自分なりに整理して説明できないのですが、周囲の男子はごりごり「サラリーマン」として生活することに何の違和感もなくガンバッテいるのですが、女子は「サラリーマン」にも「サラリーウーマン」にもなりきれずに、無理してガンバッテいる人があまりに多いのです。

 法内、法外、というのは宮台さんの言葉で、簡易に「社会システムの中」と、「社会システムで規定されない外」ということです。つまり、違法駐輪はしてはならない、飲酒運転はしてはならない、という法で裁かれる行為に加えて、企業の中でどう評価されるか、両親や家族にどう思われるか、ということが「法内」となります。対して、「法外」とは、変性意識と宮台さんは呼びますが、社会システムに規定されないトランス状態のことです。宮台さんは「性愛」「まつり」といった世界を描いて説明しますが、私にとっては特に性愛、まつりに加えて、歓喜を伴うダンス、フュージョンの感覚をもたらすジャズ、と理解できました。つまり、「翔べる」という感覚をもたらすものです。

 最近、友人の良い子ちゃん女子たちから仕事やプライベートについて悩み相談を受けました。私が自由人ぽいから、あるいは普通の企業にずっと勤めていないからなのかもしれないのですが、とにかく苦しみを共有したい、何か話したい、どうしたらいいと思う、という感じ。みんなの悩みは、「仕事が苦しい、つまらない、けど、頑張らなきゃ」「仕事辞めたいから、結婚して子どもも作らなきゃ」といった内容です。さらには、本当はつらくて仕方がないけれど仕事を楽しいと思い込んで乗り越えて(洗脳して?)頑張り続けている場合もあります。非難しているわけではなく、事実、私も2年前までそういうメンタルモデルでした。また、29歳~30歳になるにかけて、5名の友人が、2・3か月付き合ってすぐに結婚、というケースを目の当たりにしました。詳しく話を聞いていないので、もしかしたら運命の出会いなのかもしれないのですが、これまた社会システムの見えない圧力(親・友人などからの意味のない同調圧力)によるものが大きいと感じています。

 そういうお前はどうなのよ、となりますが、私は(今は)無理して仕事もしていない(つもり)ですし、結婚もしていません。どちらも別に同調圧力に抗って、というよりも、たまたまそういうめぐりなだけだと思います。そのめぐりの理由は、私は法内の正しさを疑い続けて、自分の生きる理由を大局的に見続けてきているからだと思います。それがいいか悪いかはわからないのですが、少なくとも法外の縛りに苦しんでいる人を見ると、法内の圧力に惑わされず、自らの喜びや美学(法外)を追求することはとても重要な能力だと思えてきます。私は小さいころから負けず嫌いで父・兄にとにかく理論武装して勝ちたい、と思ってきました。中高では鬼のような校則を守り続けてがり勉をしてきましたけど、高3の夏に受験ノイローゼでダウン、2か月引きこもりになりました。で、徐々に法外の感覚をコントロールできるようになったのが大学に入ってから。希望の大学ではなかったけれど、とにかく自由に楽しく大学時代を過ごして、初めての彼氏もできて、本来大好きだったピアノに打ち込むようになって、法外の世界に自ら行く感覚をつかめました。その後も(今でも)、子ども時代の癖でしばしば法内の圧力に苦しめながら生きていきますが、その度我慢できずに飛び出したり、あぁこれね、とつきあえるようになってきました。

 法内で生きることがどうでもよい、と言いたいわけではありません。法外を追求して、法内で生きる術を身に付ける(宮台さん的には「社会に適応するフリ」)ことの大切さです。言い換えれば法内だけを一生懸命に生きるのではなくて、法外をできるだけ追求することの大切さです(これは岡本太郎氏の危険な道を選ぶ、ということとほぼ同義)。法内を一生懸命に生きると、歪な自分になります(大規模定住の開始は3,000年前、ということでそもそもホモサピエンスの感情の能力は社会だけを生きるようにはできていない、というのが宮台氏の持論)。例えば小中高大と超エリート街道で、外資金融入って海外駐在してその世界でだけ疑いなく一生懸命だけな人は、実は性愛や人間関係に問題がある場合も少なくない。例えばその法内の人生に何の疑いもなく生きれていればそれはそれでよいのかもしれないけれど、そうでない場合は大問題(何の疑いもなく生きていることについては別の問題がある可能性もある)。「法外」つまり、性愛(恋愛)であり、まつりであり、芸術でありを追求する必要がある。

 ここからは個人的な意見だけれど、(法内に苦しんでいる)良い子ちゃん女子にとって最も近い法外の追求方法は、芸術だと思う。楽器を弾くのでも、歌を歌うのでも、陶器を作るのでも、ダンスをするのでも。カラオケのような「ただの発散」に終わらない、自分なりの美学を追求するもの。それが「翔べる」感覚、「エク・スタシス」をもたらすからです。カラオケとかみんなで適当にクラブにいくというより、自分なりの美学を追求して、作り上げるもの。個人的には(ハードルが高いと思うけれど)コンテンポラリーダンス(インプロでももよい)と、絵を描くことと、あとは芸術ではないけれどランニングがよいと思っています。楽器演奏もそうだけれど、これは自由に弾ける能力がないとなかなかとべないので、すぐには難しい気もします。あとは翔べるような恋愛なんですかね。

 芸術活動に触れたり、ランニングすれば、良い子ちゃん女子の苦しみがすぐに解決するとか、女性の社会活躍が進むとか、そういう話ではないのですが、少なくとも法内だけで生きなければならない、という感覚から、法内に適応するフリをすればよい、という感覚にシフトすることができるのではないかな、と思います。

 あと、サラリーマンに変わる言葉を作るべきだと思います。

 日本人女性がくだらない(≒差別的な)法内の仕組みにとらわれすぎて、今を生きづらいのであれば、自分自身も含めて少しでも今に向き合えるように、引き続きインプットとアウトプットを増やしていこうと思います。

日本の社会、ブラックボックス

Black Box、読みました。 
事件の内容には特別言及しません。書籍を通して、彼女の紡ぎ出す言葉・生き様に、女性として、日本人として、ただ一人の人として、強く胸を打たれました。そして何よりもジャーナリストとしてのプロ意識に衝撃を受けました。「そんなことしたら業界の中で生きていけないよ、業界の中ではxxしなければならない」というような仲間のアドバイスをそのまま受け入れず、自分で考え、自分の中の「正しさ」を貫く彼女は、まさに岡本太郎氏の「危険な道を選ぶ」ということに等しい行動だと思います。「そんなことしたら、周りが機関銃だらけの平原に裸で走っていくようなものだよ」という行為と似ている。社会を変えるとは、こういうことなのかもしれない。でもなぜ、彼女一人がそれを背負わなければならないのだろう。
「社会と戦ったりするより、人間として幸せになってほしい。娘には一人の女性として、平穏に結婚して幸せな家庭を築いてほしいておいうのが親の願いなんだよ」
という、彼女の父親の言葉にもそれが表れています。
加えて本書は、日本の閉ざされた「性」への認識に焦点を当てることができた良書だと思います。良くも悪くも事件そのものが注目されたことで、日本の閉ざされたブラックボックスにメスをいれる、本書の担う役割は大きいのだと思います(私も現に多くの新しい知識を得、深く考えました)。そもそも性行為について明るく語りづらい文化の中で、性犯罪はもっと語られない。被害者は本当に、泣き寝入りするしかない状況が多いと。一つ一つの事例に焦点を当てながら、なぜ法で裁きづらいのか、なぜ被害者は事件直後に法的証拠を集めづらいのか、構造的、精神的なハードルから多面的に記してあります。個人的経験とも重なったのが、「擬死状態」という言葉。被害にあう間、危険を察知して「擬死」的な状態になるため、抵抗することが難しいということです。痴漢経験者であれば、経験したことがあるのではないかな、と思います。中高生時代、多くのクラスメイトが満員電車で通ってくるので、(恐ろしいですが)痴漢を経験している子が本当に多かった。私自身、被害にあった時はただただ怖くて、まさに全身が固まったような状態になった。今は強く闘えますが、大きな声で「痴漢です!」といったり、声を上げて捕まえたりすることは、当時とてもじゃないけどできなかった。声が出ない。動くこともできないこともある。著者も記していることと似ていて、同級生と多く各自の被害について話したことはあるけれど、捕まえたケースは6年間で1件も知らない。犯罪に大きいも小さいもないのかもしれないけど、レイプは被害者にとって(日本の場合は特に)社会的死、精神世界との断絶といった非常に辛い状況になる可能性が高い。しかし、法的に裁きづらいから“仕方ない”、と語られてしまう。本書はそんな法そのものに疑問を持つきっかけも与えてくれます。
そして本書が興味深かったのは、「法的には」という言葉の元に片付けてしまう、また、とにかく批判ばかりしてしまう、日本の損得勘定システム・感情の劣化について淡々と言及していることです。何でもかんでも、損得がないと行動しないと考えている人。大いなる優しさや正義といった感覚を忘れてしまっている人。そんな人がたくさんいる。巷でよく言われる社会貢献活動をすると意識高い系・偽善者となる認識や、恋人とうまくいっていることをリア充、と呼んでしまうこと。本書の筋とは少しずれますが、社会システムの中での地位や自分の満たされない欲求にとらわれて、正義や寛大さや愛といったものを正面から受け止めきれないでいる、まさに感情の劣化について、本書を通じてまた一つ考えることができました。
薦めたい一冊です。