何がしたいかわからない時に読み書きするもの

人生って何、自分は何がしたいんだっけ、あれ、仕事って何のためにするんだっけ、って思った時に読み書きする文章

「意味の深みへ」がヤバイ

井筒俊彦さんの「意味の深みへ」を読んでいる。この本が、ヤバイ。何を言っているかよくわからない箇所もたまに出てくるが、自分の考えをまるっと変えてしまうくらいの、影響力がある本である。何がやばいかというと、、、

①非常に難解な内容を、何回も平易に(平易とは言え難解)言い換えて、説明しようとする丁寧な姿勢

②渾沌、と無、の説明に代表されるように、あらゆる概念的な言葉の視覚的な美しい説明

③①、②の点をとおして、哲学的・宗教的な話を実生活の、個々人の視点に入れこむことを可能になりそうな文章

ということである。最近読んだ本の中で最も深く、いろいろなことが取り込まれて本の中の概念で溶けていくような、そんな本である。自分自身の価値観、人への対峙の仕方、時の過ごし方に全く新しい視点をもたらしてくれた本である。引き続き、読み進めたい。

 

普通ということを考える

公益性、とか、社会的インパクト、社会に良いことを、ということを考え続けて、この4年間多様な仕事に関わってきて、色々思うことがある。もちろん、社会的なセーフティーネットからこぼれおちてしまったとき、支援する、行政の仕組みを見直す、などは、とても重要で、今後も私自身、仕事で関わっていきたい、と思っている。一方で、業務を通じて「よい」ということを定義し続ける中で思ったのは、やはり「よい」というのは、一定数のある方向からの、幻想にすぎないこともあるということである。ニュースで取り沙汰される激しい虐待のケースなどは、そもそも生命の安全・安心が侵されているから、多くの人にとって、「いけないこと」。助けることが「よい」という一定の価値観の一致があると思う。そういった感覚的な意味でも、Capbility approachで整理されていることや、世界人権宣言の中であるようなことの一定の価値観は、共有できるような気もする。一方で、「勉強ができた方が良い」「大学進学した方が良い」といったことは、価値観の押し付け、あるいは「言葉の中に含有されるすべての意味の無視」といったことにつながるのではないかというように思う。それは、一方通行の「よい」で、相互通行、あるいは全方位的な「よい」ではないのではないかと。わかりやすいのは、大学に行かなくても、幸せに過ごしている友だちがいるということ。進学校に行っても、自殺してしまった友だちもいるということ。束で捉えれえば、一定の確率で、大学に行った方が、「いい」学校に行った方が生涯賃金が増える、というのはあるけれど、必要なのは「大学に行けるという選択肢が取れる」「行きたいと思ったときに、本人がコントロールできないハードルがないこと」ことであって、大学に行くことではない。それから、以前英国でUberに乗った時の、運転手のパキスタン人の話で、なるほどなぁと思うことがあった。それは、「北朝鮮にあこがれる。金正日がいてうらやましい」という意見だ。彼は、アンチ米国、のような意見を終始述べていたけれど、要は核を持っている国と対等に話すために、小国でも核を持って「力」を見せることは、すばらしいことだ、という話をしていたのだ。小学生でよくあるような、「アイツが持っているけれど俺はもっていない」みたいな話が、国際的にもある、ということである。手段の話は置いておいて、彼らにとっての「よい」は、「米国と対等に話したい」ということなのであり、「核を持つな」という話は別に「よい」とかそういうことではない、むしろ自分たちの合理性を阻害する行為なのである。

そんなこんなを考える中で、いつも思うのは、この、「社会課題」とか問題、として捉えられない意味で、こぼれおちる何千何万という人の人生は、どういう形で息づいているかということである。社会課題は、言葉にされて初めて社会課題化される、という話もある。言葉にならない、素通りされる一人一人の生活に、意識を向けることが実は、社会課題解決と同等に、重要なのではないかとも思う。

普通、とは何か。人の人生や社会は深海と一緒で、全てを掬い取ることはできないと思う。ただ、そこには深海があるということ。それを知り、深海があるということへの実感を持とうとすること。それぞれの人生・時間の中で、自分がどこに関わっているのか知ろうとし、見ようとすること。そして全てを知ることができないということ、自覚すること。社会課題解決、という一言が実はものすごく危険な一面をもっているかもしれない。そういったことを自覚するためにも、普通ということは何かを、考えるのもとても重要なのではないかと、思う今日この頃である。

書く⇔言う⇔考える、の必要性

書く、言う、考える、はとても重要だと、今日あらためて思った。

最近、毎日自分の人生の目標を10個ずつ、ずっと書いて、さらに朝起きて、何をやりたいかを書いて、やってみる、ということを繰り返してやっていたのだけれど、、、

この3日間は、目の前の仕事にまさに心を亡くし、忙しいという言い訳の基、やっていなかった。

そしたら、今日、久々の友人と話しているときに、自分が何をしたいのか、すらすらと言えない自分に気が付いた。これは、まずい。

気づいたのは、まず、やはり毎日書く、ということを続けなければいけないということ。1日でも逃すと、希釈されるというか、自分のビジョンがあいまいになるような気がした。

それからもう一つは、言う、ということ。考えながら、すぐに言わなければならないということは、自分の考えをかなり結晶化してくれる。最近は、書く⇔考えるということばかりだったので、そこに言う、というのを入れるのがとても重要だと思った。いう、というのは強い。書く、というのもパワーがあるけれど、言うことは、その場で命が吹き込まれ、意味が本当に意味を持つ感じがする。

今日の学びは、毎日、書く、言う、考える、というのを繰り返す、ということ。自分がぶれずに、何をこの先半年、10年、死ぬまで、やっていくのかいけるのかを、考えながら、動いていきたい。

朝起きて、本当にやりたいことは何かを問い、そのとおりにやってみることにする

If today were the last day of my life, would I want to do what I'm about to do today? 

ティージョブズの、今日が人生最後の日だとして、私は今日やろうとしていることをやりたいのだろうか。と、朝、鏡に問うという話。

私は実際に、毎日問い続けているが(というよりもやりたいことを朝・夜に毎日振り返り、ずれがないかを確かめている)、最近、本当にやりたい、と思っていることと、実際に毎日仕事でやっていることが、少しずつずれてきているな、と思っている。

そこで、私は週の内1日を、本当にやりたい、と思うことを朝問い、それのとおりに過ごしてみよう、と思っている(週4日勤務のため、それも可能)。そして、徐々にではあるけれど、仕事が落ち着いたら、週2日、3日、と増やすことができたらと考えている。

今日、朝起きて、やりたいと思ったこと。ひとまず、天気もよく、さわやかな日である。
・たくさん本を読みたい(特にCapability approachに関する論文と、井筒先生の「意味の深み」へを読む、それから、最近面白いと思った京大の山極寿一先生の本も読みたい)
・お昼は健康的なものを食べたい(サラダなど)
・14時~16時は外せない仕事があるので、それに集中
・16時以降は論文で書きたいことの種づくりをしたい。下記途中の評価に関する論文そのものは、そんなに書きたくない(主に公益とは何か、Social impactをどう定義づけるとよいのか)
・ピアノもやりたい(恵比寿のスタジオに久しぶりに行こうか)
・夜は家族と過ごしたい
ということで、ここにメール返信や仕事関連の考え事が必須であることを加えると、時間があまりにも足りない。働き方について、色々また考える時期に来ているのだと思う。まずは、毎日、やりたいことと向かってから、一日をスタートさせていこうと思う。

半年後死ぬとしたら、10年後死ぬとしたら、そして死なないためにできることとは

半年後死ぬとしたら、10年後死ぬとしたら、と考えて、そのときに自分が本当に何をしたいかを言語化する、という話は前に書いた。

そして毎日、こう考えることを続けている。具体的には毎日10個のやりたいことを言語化し、そしてそれに向けてやれることは何かを10個程度、毎日書いているのである。そして夜、その日どれくらいその「タスク」をできたかを確認する。結果、完遂率は30%程度だが、、、そもそもこんなにもできていないのか、ということを可視化できるのはとても良いことだとも思う。

さて、そうこうして続けて2か月程度、今度は半年後死ぬとしたら、10年後死ぬとしたら、でやりたいことを分けて書き、さらには、死なないため(健康のため・やりたいことを支えるため)にやりたいと思っていることを分けて書くと、とても整理されるということがわかってきた。例えば私の場合、半年後死ぬとしたら、1本でも論文を書こう、と。そして10年後死ぬとしたら、人とのつながりを提供可能なアートスペースを運営してから死のうと。そして、死なないためにやりたいと思っていることは、環境保全とヨガなのだなと。

まだまだ、実現にはほどとおい「やりたいこと」もあるが、自分の中で想いが結晶化され、できている・できていないが明確になってきたのも事実である。仕事やプライベートにおける取捨選択が素早くなった。半年後、死ぬかもしれない、と言っているうちは、死なないのかもしれない。しかし、その死は実は目の前にあるということを心にとめつつ、毎日、自分ができること、やりたいことをじっくりと積み重ねていきたい。

chikaochiai.hatenablog.com

私が作りたいのはコミュニティではない、人と人をつなげる意志であり、それぞれを個として尊重する意志である

コミュニティの再興を、という言葉を何回か使ってきた。しかし、今、沖縄に来て、やはりコミュニティのネガティブな側面を強く感じることも多い。つまり、排他的、強制的にになってしまう、ということである。コミュニティが強ければ、人は孤独になることはほとんどない。今よく問題になる、孤独死ということもないだろう。しかし、そのコミュニティが他を包摂せず、何かについて妄信し、コミュニティの外にまで押し付けてしまうようなあるいは中からの批判的視点を受け付けないようなコミュニティになってしまうと、そのネガティブな側面はぬぐい切れない。コミュニタリアニズムの欠点、と言われることでもある。「コミュニティ」という言葉が狭義なのかもしれない。改めてそういった「コミュニティ」を目の前にして、私が作りたいのは「コミュニティ」ではなく、個々人で互いを尊重し合い、時には包摂し、時には離れることのできる温かくもフラットな環境、個人の在り方なのだと思った。勅使川原三郎ダンス・メソッドのワークショップで感じたような、誰もが一人一人集中し、真剣に生きていて、同じ空間の中にいながら、融合もせず、反発もせず、時に共鳴し、干渉し、ただそこにある、ありたい姿を互いに尊重し合う。そんな環境である。互いが選択し合えるような空間が広がっている、本当のやさしさの空間。私たちが互いに人と人をつなげる意志を持ち、必ずしもつなげようとしなくても、それぞれを個として尊重し合い、つながる必要があるときにはつながれる、つながる必要がない時にはつながらない、そんな世界でありたい。そして、表層的なニーズに応えるのではなく、深層のニーズに気づき、感じ、満たし合える間柄でありたい。どうすれば、そういった環境を作れるだろうか。どうすれば、そういった人が、そういったままで存在し続けられるような社会を作れるだろうか。もう簡単に、乱暴に、人と人がつながる社会を実現したいということはできない。人と人が、つながるという美しさを知りながら、個々を尊重するからこそ、そしてその深層ニーズを真に相手の立場に立って読み解いた上で、つながらない、という選択肢をも取れる社会の一員になりたい。

もう何がしたいかわからない、と思っていないと思う

子どもが生まれてから、時間をどう使うかの取捨選択が、するどくなった。きびしくなった、と言ってもよい。何がしたいかと言われれば、家族との大切な時間を過ごしていくこと、人と人とがつながる世界を三世代先まで続けていくこと(につながること)、がしたい、というのが明確になってきた。社会的インパクト~、ということや、社会的事業、ソーシャルビジネスと言われるようなことを色々この4年間見聞きし、勉強し、仕事として関わってきたけれど、結局私の中で大きくなった気持ちは、「人と人とをつなぐ」「優しい心」「愛」に勝るものはない、という気持ちである。もちろんそれを支えるためのベースラインが必要で、そのために生活、安全、安心、といったことは必要なのだけれど、そこにつながることに、もっと直接的に関わっていきたいと思っているのである。そうはいっても、日々いろいろある中で、また、何がしたいかわからない、という時もあるだろうから、日々、こうして想いを書き溜めて、たまに、振り返る時間を作るのである。私は今、人と人とが温かくつながる世界を三世代先まで続けていきたい、そう思っている。